私はだいたい2年半ほど前から「生活すべてを瞑想的に過ごす」ということを実践しています。
ただ最初のうちは、「どうやって瞑想を生活の中に持ち込んだらいいか」がよくわかりませんでした。
それまでは時間を取って坐って瞑想していたのですが、日常生活の中ではいろいろと「やらないといけないこと」があったからです。
家事や仕事をする中で、どうやって「瞑想状態」を維持したらいいのか?
そもそも、生活の中で維持すべき「瞑想状態」とはどんなものなのか?
そういったことが、自分でもよくわかっていませんでした。
ただ、毎日少しずつ時間を取って坐っていても、自分が突き当たっている「壁」を越えることはできないように感じていました。
それゆえ、「生活すべてを瞑想化することが必要だ」とは認識していたのです。
ですが、先ほども書きましたように、いったい何をどうしたらいいかが、当時の私にはよくわかりませんでした。
なので、初めのうちはひたすら集中し続けていたのをよく覚えています。
それまで坐って呼吸に集中していた時と同じように、生活の中でも「集中状態」を持続させようと思ったのです。
ですが、毎日起きてから寝るまで集中し続けることなど誰にもできません。
少なくとも、私にはできませんでした。
それで、実践を始めてから2週間ほど経った段階で、集中が持続させられなくなったのです。
しかし、力尽きて集中することをやめてみると、案外なんともありませんでした。
集中していないにもかかわらず、内側では「静かな状態」が持続していて、意識もクリアだったのです。
「集中はしていないのに、静かに目覚めている状態」を私はそこで初めて体験しました。
そして、「この状態さえ維持できていれば、それでいいのではないか?」と思うようになっていったのです。
それ以降、積極的に集中することはしなくなっていきました。
たとえ集中しなくても、「静かに気づいている状態」はなくならないということがわかったからです。
そうして、そんな生活を1年ほど続けていたら、「自我は自分ではない」という理解が起こりました。
それまでずっと自己同一化していた「自我」とのあいだに隙間ができて、「分離の感覚」が発生したのです。
以降の私は、「自我(つまりは人格や記憶など)」を絶対視しなくなり、徐々に心が自由になっていきました。
言い換えるなら、「湯浅和海」という名前を与えられて生きている一人の人間を、あまり特別視しなくなっていったわけです。
結局のところ、私の苦しみの根は「自我」というものを特別視し、それを「自分の本体」であると認識していたことにありました。
だからこそ、「自我」と「自分」との同一視が解けていくにしたがって、私は解放されていったわけです。
いずれにせよ、このような「自我からの分離」を体験するうえでは、「生活の中で瞑想する」ということが非常に有効だったと思います。
なぜなら、坐って瞑想をしていると、どうしても私たちは「自我」を使い続けてしまうからです。
実際、集中するためにも「自我」を使いますし、観察するためにも「自我」が必要になります。
それゆえ、何らかの瞑想の技法を実践している限り、「自我を使うこと」が前提になります。
ですが、普段の日常生活の中では、「自我」というのはけっこう消えていることがあります。
もしも集中することに固執しないなら、「自我」は徐々に沈黙するようになっていき、現れたり消えたりするようになっていくのです。
だから、日常生活の中で「静かな状態」を保って暮らしていると、「自我から分離する感覚」をどこかのタイミングで体験できると思います。
この「分離の感覚」さえつかんでしまえば、後はそれを繰り返し想起するうちに、「自我」を絶対視することがなくなっていきます。
そして、それによって「実体のある『我』はどこにも無い」という理解が深まっていくことになるのです。
大事なことは、「集中」と「気づき」を分けてとらえることです。
そもそも坐って瞑想しているうちは、「集中すること」と「気づきを持続させること」を同一視してしまいがちです。
ですが、生活の中で集中が途切れがちになってくると、「集中はしなくなったのに気づきはなくならない」ということが起こり始めます。
それまでの坐っての実践で瞑想力がしっかり育っていれば、「集中せずに気づきだけ保つ」ということができるようになっているはずですなので、それが生活の中で効いてくるのです。
そして、一度「集中」と「気づき」を分ける仕方がわかったら、
「本質的なのは『集中』ではなく『気づき』のほうだ」ということも理解できるようになっていきます。
そうしたら、後は「集中」についてはあまり気にせず、「静かな気づき」だけを大事にして淡々と日々を送っていけば、数年後には心が解放されることになるのではないかと思います。

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