前回の記事で私は、「瞑想というのは分離の技術だ」と書きました。
【前回の記事】
瞑想とは「デタッチメント」の実践である|「分離の感覚」こそが、心を真に自由にする
たとえば、瞑想を実践していると、思考と自分の間に「分離の感覚」が出てきます。
自分が思考から離れて立っているかのごとく感じるようになるのです。
それによって、ネガティブな思考に深く巻き込まれて苦悩することが減っていきます。
仮にネガティブな思考が湧いたとしても、それをどこか他人事のように眺めていられるようになるからです。
同様に、感情や身体の感覚に対しても、実践の中で「分離の感覚」が育っていきます。
感情に巻き込まれにくくなり、身体の痛みや疲労によって心を引っ張られにくくなるのです。
ただ、この「分離の感覚」が育っていく過程で、人によっては、生きていることが虚しくなる可能性もあります。
自分が世界そのものから遊離しているような感覚がしてきて、場合によっては、「人生との接触」を失ったように感じられてくることもあるでしょう。
実際、「分離の感覚」が育っていくと、人生が「一種の夢」のようなものに思えてきます。
「たとえ人生において何が起こっても、それらの事象が真に自分に触れることはない」
そういった感覚が内側に根付いてきて、それはそれで解放感もあるのですが、同時に、「人生を生きる意味」が見失われがちになります。
そうして、「人生はどうせ夢のようなものなのに、そんなに必死になって生きてどうするんだろう?」という冷めた気分になってくるのです。
その結果、人によっては、現実的な問題を解決しないで放置したり、人生をより良くするための努力をしなくなったりすることも考えられます(少なくとも、私にはそういう時期がありました)。
なので、もしも今、「分離の感覚」が強まって、生きることが虚しく感じられているようであれば、感情や身体の感覚をあえて丁寧に味わってみてください。
「感情や感覚に無自覚に巻き込まれて我を失う」というのではなく、あくまでも自覚的・意識的にそれらを味わうのです。
そこにはおそらく「分離の感覚」がありますが、それでも「何も感じてない」というわけではありません。
なぜなら、瞑想的な「分離」というのは、「そもそも何も感じない」ということではなく、「感じているけれど囚われていない」ということだからです。
たとえば、美味しいものを食べる時には、その味を楽しみ、ずっと観たかった映画を観る時には、感情の変化を楽しんでみましょう。
そしてまた、痛みがあるならそれを感じ、苦しみがやってきたらそれを味わい尽くします。
それによって、人生の中に「生きている実感」が戻ってくるはずです。
私自身は人生を「仮初の舞台劇」のようなものだと思っていますが、「しょせん劇だから」と言って投げやりになるのではなく、「せっかくだから思い切り楽しく劇を演じよう」と考えています。
しょせん劇、されど人生です。
感じていることを無視するのではなく、丁寧に感じた上で束縛されない。
瞑想の実践によって「分離の感覚」を育てる際には、そのようなバランスを取ることが大事になるのではないかと私は思っています。

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