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瞑想とは「デタッチメント」の実践である|「分離の感覚」こそが、心を真に自由にする

瞑想の実践をすると「分離の感覚」が育っていきます。

ここで言う「分離の感覚」とは、「自分は思考や感情、自我や身体とは別個の存在なのだ」という実感のことです。

たとえば、瞑想を日々実践し続けている人は、「自分の思考を観察する」ということが徐々にできるようになっていきます。

もちろん、実践を始めたばかりの頃は、思考に巻き込まれて我を失うことが多いかもしれません。

ですが、実践を続ける中で少しずつ思考に巻き込まれることが減り、やがては思考の流れを観察して自覚できるようになるわけです。

そうすると、「思考と自分は別だ」という実感が生じ始めます。

というのも、もしも思考が観察できるなら、「思考が自分である」ということはあり得ないからです。

思考は「観察される対象」であり、自分は「観察する主体」です。

そこで、「思考からの分離の感覚」が生じてくることになるわけです。

ただ、それはあくまでも「感覚」であって「思考」ではありません。

「思考は自分ではない」と思考するわけではなく、実践者はただ感じるのです。

「思考と自分は別なのだ」と。

そうして、「思考からの分離の感覚」が深まっていくと、今度は「自我からの分離の感覚」が生じてきます。

そもそも思考を観察するためには、「自我」を使う必要があります。

「自我」が自覚的に集中することで、思考の流れを観察するわけです。

しかし、実践を続けていくと、思考の絶対量そのものが減っていくので、徐々に「観るべき思考」がなくなってきます。

そうすると、「自我」は観察するという仕事がなくなって暇になるのですが、今度はそうして暇になって黙っている「自我」のことを、さらに対象化して観ている者の存在が自覚されるようになるのです。

この「自我を対象化して観ている者」こそが、私たちの「意識」です。

「自我」は、生まれた後に数年経って、物心がついてから私たちに付属するようになる一種の機能ですが、「意識」はそれより前から存在しています。

ただ、「自我」が機能し始める前までは、「意識がある」ということそのものを意識化することができず、「ただ意識である」という状態なので、そのことの自覚はありません。

生まれたばかりの赤ん坊は、「意識そのもの」に留まっていますが、それを自覚してはいないのです。

瞑想の実践というのは、ある意味でこの「ただ意識である」という状態について、自覚的に理解するためにおこなうものでもあります。

実際、思考を対象化して観察し、さらには思考を観察している「自我」さえも対象化することで、思考や「自我」から分離している「意識」が自覚されるようになります。

この自覚に至るために、「自我」という機能を使うことにはなりますが、「意識」は「自我」を超えています。

「意識」はもともと「自我」から分離して存在しているのです。

ただ、「自我からの分離の感覚」というのはなかなか持続しません。

なぜなら、私たちがこの社会で生きていく上では、あらゆる場面で「自我」を使う必要が生じるからです。

そして、「自我」を使っているその時には、「自我から分離した感覚」を保つのは至難の業です。

「自我から分離した感覚」というのは、「自我」が暇になっていて出たり消えたりしている時には感じやすいですが、生活の中で「自我」を使っている最中には、なかなか感じられないものだと覚えておいてください。

いずれにせよ、この場合も「自分の本質(=意識)は自我から分離している」という理解は、あくまで「感覚的」にもたらされます。

決して「自我は自分ではない」という思考によってこのことが理解されるわけではなく、瞑想の実践の中で生じる「分離の感覚」を通して理解されるのです。

それを「身体の感覚」の範疇でくくることができるのかどうか、私にはよくわかりません。

ただ、それが「思考」ではなく「感覚」であるのは確かなように思います。

ともあれ、このように「意識」というのは、思考や「自我」などからもともと分離しています。

ですが、物心がついてから生きていく中で、私たちは無意識のうちに思考や「自我」と自己同一化していくものです。

たとえば、自分の思考と自分を同一視したり、「自我」を自分の本体だと思い込んだりします。

そこから、思考によって振り回されてしまったり、「自我」が傷つかないよう過剰に防衛的になって苦悩したりするわけです。

そして、そういった束縛を破壊する上で、「分離の感覚」は大いに役に立ちます。

「分離の感覚」こそが、私たちを束縛から解放するのです。

なので、私は瞑想の技術というものを「デタッチメントのスキル」だと思っています。

「デタッチメント」というのは、「分離すること」というそのままの意味です。

「瞑想とはデタッチメントである」と言ってもいいと思います。

逆に、「アタッチメント(同化と執着)」こそが非瞑想性です。

実際、瞑想を実践したことのない人は、自分の内側の思考や感情と深く同化しており、「自我」や身体を自分と同一視しています。

そして、この「意識が意識以外のものとくっつくこと(アタッチメント)」によって、無数の苦悩が生まれてくるのです。

たとえば、「アタッチメント」の状態にある人は、思考や感情に振り回されたり、「自我」を守るために右往左往したり、身体的な病気や老化に抗って疲弊したりします。

もちろん、「する必要のあること」があるならそれをするのが良いとは思いますが、「アタッチメント」の状態にあると、人は「別にする必要のないこと」に必死でしがみついて苦しむことが多くなります。

そういった「無用な苦しみ」から自由になるためには、「アタッチメント」を解除して「デタッチメント」を深めていくことが大事なのです。

そして、「デタッチメント(分離)」を深めるための道こそが瞑想です。

「意識は元から他の全てと分離していて自由なのだ」と理解すること。

それが、瞑想の実践における大きな目標の一つなのです。

言い換えるなら、「自分は最初から自由だったのだ」と知ることこそが、瞑想の実践において非常に重要な目標となります。

ただ、繰り返しますけれど、それは「自分は思考や自我から自由なのだ」と頭の中で考えることではありません。

そのように言葉だけで自己暗示をかけても、心がどこかで反発します。

そうやって頭の中だけで暗示をかけていても、どこかのタイミングで「本当にそうだろうか?」「実はそんなこともないんじゃないだろうか?」といった疑いが、内側に兆してしまうでしょう。

なので、大事なことは「意識は分離している」と思考することではなく、「意識は分離しているという感覚」を得ることです。

禅宗では「教外別伝きょうげべつでん」や「不立文字ふりゅうもんじ」と言ったりもしますが、それは要するに「瞑想の要点は言葉で伝えることができないので、自分で体験して理解するしかない」ということです。

私が今書いているこの文章も、しょせんは「補助的な資料」のようなものに過ぎません。

この記事を読んで、「意識は思考や自我とは別なのだ」と、ただ頭の中で考えているだけでは、おそらく何も変わらないでしょう。

「意識は最初から分離している」ということを感覚的に体験することこそが大事なのです。

その体験を得ることができて初めて、本当の意味で心が自由になっていくでしょう。

逆に、もしも「分離」を頭の中だけで考えて強制しようとするなら、かえって心身を束縛されます。

「分離しなければならない」という強迫観念が、新たな「アタッチメント(執着)」になってしまうのです。

ですが、「分離」は別に強いる必要のないものです。

なぜなら、「意識」は元から全てと分離しているからです。

大事なことは「分離している感覚」を忘れないように繰り返し思い出すことです。

その「感覚」さえ覚えていられるならば、この世の何ものも、もはやあなたに触れることはありません。

たとえ人生で何が起こったとしても、あなた自身は最も深いところで「無傷」のままです。

そのことを、深い実感を通して信頼できるかどうか。

そこにおいて、真の意味での「瞑想力」が試されます。

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