瞑想の世界では、「執着しないこと」がしばしば強調されます。
特に仏教では「無執着」が非常に重視されています。
なぜなら、「執着こそが苦しみを生む」という構造があるからです。
とはいえ、「執着を捨てよう」と思って簡単に捨てられたら苦労はありません。
むしろ、「執着を捨てなければ」という想いが強すぎると、その想い自体が一つの「執着」となって、新たな苦しみを生み出しかねないです。
たとえば、「お金に執着してはいけない」という想いが強すぎると、その人はお金に触れることを恐れるようになっていきます。
「お金をたくさん持っていてはいけない」
「お金について考えることは不浄である」
そういった意識が内側でどんどん強まっていき、その人はいつかお金から逃げ出すようになっていくことでしょう。
しかし、それは「執着を捨てている」というのとは違い、むしろ「お金によって余計に縛られている状態」とも言えます。
ムハンマドのいとこであったアリー・イブン・アビー・ターリブは
「本当の無執着とは何も所有しないことではなく、なにものにも所有されないことだ」と言ったそうです。
なので、「お金に執着しない」ということは、「お金を投げ捨てて逃げる」ということではありません。
たとえお金を所有していても、お金によって所有されないことこそが、本当の意味での「無執着」なのです。
それゆえ、「無執着というのは練習できない」と私自身は思っています。
なぜなら、「無執着」を練習しようとすると、私たちは「捨てようとしている対象」によって、かえって心を囚われてしまうからです。
たとえお金から自由になろうとして金銭を投げ捨てたとしても、それによってお金から本当の意味で自由になることはできないでしょう。
むしろ、強迫的にお金を捨てようとすることによって、余計に心を囚われることになります。
だからこそ、大事なことは「たとえそのただ中に在っても染まらないこと=所有されないこと」だと私は思うのです。
そもそも本当の意味での「無執着」というのは、「捨てる練習をすること」によって達成されるものではなく、「深い理解」によって自然発生するものです。
私たちが「理解」した時、「無執着」は内側から自然と起こります。
「自分は何を気にしているのか?」
「心は何に囚われているのか?」
「欲求はいつもどんなふうに暴れ回っているか?」
そういったことを経験し尽くし、観察し尽くした時に、私たちはそのパターンに心底うんざりします。
そして、「求める心」が結果的に停止します。
なぜなら、「同じことを今後いくら続けても、何にもならない」という「理解」が起こるからです。
しかし、経験と観察が足りないと「理解」が起こらないので、私たちは「本当は捨てたくないけど、我慢して捨てる」という身振りしか取れません。
実際、「練習された無執着」というのは、だいたいにおいて「痩せ我慢」の様相を呈するものです。
反対に、「真の無執着」は「痩せ我慢」ではありません。
それはあくまでも「理解に基づくもの」であり、「自発的な放棄」であるのです。
「自分の中の執着がどのような苦しみを生み出しているか」ということを理解した時、人は「自分から苦しみを生み出すこと」を自然とやめます。
そして、それによって初めて、「たとえ所有することはあっても所有されない」という状態に当人は至るのです。
繰り返しますが、「無執着」は練習することができません。
むしろ、練習すればするほど、意識の深いところで「執着」は逆に強化されます。
それは「表面的な執着」よりもよほど危険です。
なぜなら、そのような「深いレベルでの執着」は、自分自身で自覚できなくなるからです。
お金を投げ捨てて逃げている聖者は、「自分はお金に執着してない」と思っています。
美女から目を背けて暮らす聖者は、「自分は性欲に支配されていない」と信じています。
ですが、実際には内側で「執着」がそのまま手つかずで残っており、本人の目の届かないところで、より強まって歪んでいっているのです。
それゆえ、もしも内側に「執着」があるなら、そこから逃げても意味がありません。
大事なことは、「執着」の中へあえて入っていくことです。
そして、「実際に執着すること」を通して、その苦味の全てを体験し尽くすのです。
それによって、結果的にいつか「理解」が起こります。
「自分こそが苦しみの創造者だ」という「理解」が深く腑に落ちた時、私たちは「所有すること」にも「所有されないこと」にも囚われることがなくなります。
その時、物事は「あるがまま」です。
もはや何も変える必要はありません。
「変えよう」という「執着」さえもが落ちるのです。
「自由であろうとする意識すらなく自由である」
それが、本当の意味での「自由」ではないかと、私は思います。

コメント
無執着と悟りにはどのような関係性がありますか?無執着=悟りですか?それとも無執着が悟りの助けになりますか?
コメントありがとうございます。
「無執着」と「悟り」が関係するかどうかは、「悟り」の定義にもよると思います。
たとえば、「霊的な能力の覚醒(超能力の獲得など)」を「悟り」だと考えている人の場合には、「無執着」と「悟り」の間にはほとんど関連がなくなります。
むしろ、「もっと優れた超能力を得て、それを行使したい」という「執着」が余計に当人の内側では強まるはずです。
私自身は、インドの伝統的な「悟り」の定義として、「サット・チット・アーナンダ」を理解することをもって「悟り」だと考えています。
つまり、「世界は実在しない(サット)」「真の実在は意識である(チット)」「意識は本来的に至福に満ちている(アーナンダ)」という真理の三つの側面について理解することです。
その場合、「自己の本質としての意識は思考や感情、自我や身体などとは別個に存在している」という理解が「悟り」の基礎になります。
それゆえ、瞑想の実践によって、思考や感情、自我や身体との分離の感覚を育てていくことになるわけですが、その結果として「無執着」が副次的に発生してきます。
「思考も感情も自分ではない」
「自我というのは虚構である」
「身体は自分自身ではなく、あくまで乗り物のようなものだ」
そういった理解が「思考や感情との自己同一化」や「自我を満足させたい欲求」、「過剰な身体的防衛反応」を弱めていくので、結果的に「執着」が徐々に断ち切られていくのです。
「無執着が悟りの助けになる」というよりも、「悟りに向かう過程で、無執着が自然と達成されていく」という感じです。
私自身は、「無執着」そのものを目指して実践をしていたわけではなかったのですが、進んでいく過程で自然と「執着」が減っていきました。
それは、探求の過程において「意識こそが自分の本質なのだ」ということへの確信が強まっていったからです。
そもそも、「自分ではないもの(意識以外のもの)」を自分だと思い込むことによって「執着」というものは発生します。
英語で執着のことを「アタッチメント」と言いますが、
実際、「本来の自分(意識)」がそれ以外のもの(思考や感情、自我や身体)とくっついて同化してしまうことによって「執着」というものは生まれてきます。
たとえば、人によっては地位や肩書と自己同一化してはそれに「執着」するでしょうし、自分の思想や感情的な反応に固執して「執着」する人もいるでしょう。
また、身体との同化が深い人は、身体の健康や容姿などへの「執着」が強いかもしれません。
いずれにせよ、自分でないもの(意識以外のもの)を自分自身だと思い込むことで、当人はあれもこれも守らないといけない気分になるため、そこから「執着」が発生してくるのです。
しかし、「悟りへの道」というのは基本的に「同化を断ち切っていく道」なので、探求が進んでいく過程でそういった「自己同一化」は解けていきます。
そしてその結果として、進めば進むほど「守る必要を感じるもの」が減っていき、「無執着」が自然発生し始めるのです。
そういう意味で、「悟り」と「無執着」はパラレルな関係にあると言えるかもしれません。
とはいえ、あくまで「無執着」は探求の副産物であって、直接目指すものではないと思います。
なぜなら、記事の中でも書きましたが、「無執着」を直接目指そうとすると、「執着を消したい」という「執着」が最後まで残ってしまうからです。
なので、「意識以外のものとの自己同一化を解いていく」というのが探求の基本方針であり、その結果として「無執着」は自然と達成される形になります。
「悟り」と「無執着」はほぼ同時に達成されますが、実践するのはあくまで「悟り」のほうであって、「無執着」はその副産物という感じです。
まとめると、以下のようになります。
・インドの伝統的な「悟り」の定義(「サット・チット・アーナンダの理解」)に則して考えるなら、「悟り」と「無執着」には関連がある。
・ただし、「無執着」そのものは直接目指すものではなく、あくまで「意識を悟ること」が中心的な方向性となる。
・そして、「意識」をそれ以外のものから「分離(デタッチメント)」することができるようになる過程で、「執着(アタッチメント)」が結果的に自然と断ち切られる。
・「悟り」と「無執着」は並行して達成されるが、「無執着」は「悟り」の副産物のようなものという位置づけ。
以上が私の理解です。
参考にしてみてください。