瞑想の実践においては「識別」が非常に大事です。
なお、ここで言う「識別」というのは、「『変化するもの』と『変化しないもの』を区別すること」を意味します。
「変化するもの」とは、この世のあらゆる物や事象のことであり、「変化しないもの」とは、私たちの本質である「意識」です。
要は、「意識」と「それ以外」を区別することを「識別」と呼ぶわけです。
ちなみに、この「識別」はサンスクリット語で「ヴィヴェーカ」と言いますが、インドにおける伝統的な瞑想の実践では、「ヴィヴェーカ」が昔からたいへん重視されてきました。
現代で「瞑想」と言うと、「集中力のトレーニング」のように思われがちですが、本来の瞑想は「識別力(ヴィヴェーカ)のトレーニング」なのです。
「集中力」は、あくまで「的確に識別するために必要な土台」であって、それ自体が目的なわけではありません。
そもそも、「集中力」がないと心があっちこっちにさまよってしまい、「意識」と「意識でないもの」を明確に区別できません。
なので、「それじゃあ、ひとまず集中力をつけるところから始めましょう」という話になるわけです。
実際、「集中力」がいくらか身についてくると、思考や感情と同化しにくくなります。
たとえ思考や感情が湧いてきても、それらに心が引っ張られて囚われることがなくなるので、自分の思考や感情から距離を取って観察することができるようになっていくのです。
そもそも「意識」こそが「本当の自分」です。
なので、「集中力」がついて思考や感情から距離を取れるようになると、「思考や感情は『本当の自分=意識』ではない」ということが自然と理解できるようになっていきます。
ただ、瞑想を実践したことのない人の多くは、このことを知りません。
瞑想の経験がない人は、だいたいにおいて自分の内側に生起する思考や感情と自己同一化しているので、「それらは自分ではない」と感じること自体がないのです。
ですが、「集中力」がついてきて、少しずつ「識別」が可能になってくると、「思考や感情は現れては消えていく『変化するもの』であり、『それらを観ている者=自分自身』とは別なのだ」とわかってきます。
これは、頭の中でそう言い聞かせるわけではなく、瞑想の実践の中で何度も何度も繰り返し「思考や感情が消えていく様子」を確認することによって腑に落ちていく「感覚的な理解」です。
それゆえ、思考や感情と同化したままで、「思考や感情は自分ではない!」といくら唱えてみたところで意味がありません。
大事なことは、実際に思考や感情から「自分」が分離しているのを感じることなのです。
この「分離の感覚」がつかめてくると、「識別」の練習を着実に進めていくことができるようになります。
そうやって「意識」と「意識でないもの」を区別することを通じて、「変化するもの」から「変化しないもの」へと軸足を移していくわけです。
そもそも瞑想を実践する前の段階では、私たちは「意識でないもの=変化し続けるもの」の上にアイデンティティの軸足を置いて生きています。
しかし、それらはその名の通り「変化し続けるもの」なので、その上に軸足を置いてしまっていると、絶えず振り回されることを避けられません。
なぜなら、「意識以外のもの」については、どれだけ「変わらないこと」を期待しても、その想いは必ず失望によって終わりますし、私たちにはその変化を望ましい形へと完璧にコントロールすることもできないからです。
なので、「変化するもの」を基礎にして「自己」を確立しようとする限り、失望と苦悩は避けられません。
もしも「余計な苦しみ」を生み出したくないならば、「変化するもの」ではなく、「変化しないもの」にアイデンティティの軸足を置く必要があるのです。
そのための道筋は、先ほども書きましたように「集中力の養成」から始ります。
なぜなら、心がデタラメにさまよった状態のままだと、冷静に「識別」をすることなど不可能だからです。
まずは、思考や感情に引っ張りまわされないだけの「求心力」が必要になります。
そうして心を内側に収められるようになって初めて、「識別」の練習は始められるのです。
そこから先は、とにかくあらゆるものを観察するようにしていきます。
思考を観察し、感情を観察し、外的な事象を観察します。
この実践によって、「それら全ては『自分自身=意識』とは別なのだ」という感覚が徐々に育っていくでしょう。
しかし、本当に大事なのはその先です。
仮に思考や感情を「自分」から分離できたとしても、おそらく「自我」を「自分」から分離することはなかなかできないと思います。
「自我」は、人格や自由意志、記憶などを組み合わせることによって私たちの脳が作り出している、一種の「機能」です。
それゆえ、「自我」には確固とした実体がないのですが、私たちはあまりにも深くこの「自我」と自己同一化しています。
しかし、「自我」もまた「変化するもの」であり、「意識以外のもの」です。
つまり、「自我」もまた「本当の自分」ではないのです。
だからこそ、最終的には「自我」まで含めて「識別」していくことが必要になります。
ただ、「自我」から分離する感覚を体験するのはかなり難しいです。
というのも、そもそも私たちが思考や感情を観察する時も、往々にして私たちは「自我」というフィルター越しにそれらを観ているものだからです。
実際、私たちは「自我」を間に介在させずに思考や感情を観るということがほとんどできません。
「思考や感情を観察しよう」と思っている時点で、「自我」が意図してそこに介入してきてしまっています。
なので、「自我」について「識別」しようと思ったら、まず思考や感情のない状態を自分の中に定着させていくことから始める必要があります。
なぜなら、観るべき思考や感情そのものがなくなれば、「自我」はする仕事がなくなって、黙っていられるようになるからです。
この「自我の沈黙」が深まる中で、徐々に「自我との分離」が進んでいきます。
それまでは、いつも「自我」が前面に出ていたところから、「自我」が現れたり消えたりするようになっていくのです。
その時、「自我」の出現と消失を目撃している者がいます。
それこそが「観照者」、つまりは「意識」です。
ここにおいては、「自我」が出現しっぱなしにならないことが重要になります。
というのも、「自我」が現れたり消えたりするからこそ、「その間もなお消えずに全てを観ている者=意識」の存在が際立つからです。
そして同時に、「自我」が現れたり消えたりしている時、そのことをちゃんと目撃できるように目覚めていなければなりません。
ぼんやりと考え事に心をさらわれてしまっていては、せっかく「自我」が出たり消えたりしていても、そのことに気づくことができなくなってしまいます。
だからこそ、「思考や感情を沈静化させておくこと」が前提条件になっているのです。
このように、「自我からの分離」を体験するためには、まず思考や感情を沈静化させて、「自我」から観察対象を取り除きます。
「思考や感情を観察する」という「自我」の仕事をなくした上で、「自我」が明滅するのを「意識」が目撃するまで待つ作戦です。
この作戦がうまくいくかどうかはかなりの程度まで運次第なのですが、私は生活の全てを瞑想化してからだいたい1年くらいで「自我から分離する感覚」を理解することができました。
一度この感覚がわかるようになると、「自我」さえもが「識別」の対象にできるようになるので、人格や記憶を「自分」と同一視する傾向が徐々に弱まっていきます。
結果的に、心が「自我」によって束縛されなくなっていくので、非常に身軽になるのです。
ということで、今回は「識別(ヴィヴェーカ)」について記事を書いてみました。
最初は「集中力の養成」から始め、次に「思考や感情の観察」に移る。
それが安定してきたら、思考と感情が沈静する中で「自我」が現れたり消えたりするのを「意識」が目撃できるように祈るだけです。
そこから後は「自我」まで含めて「識別」の実践を徹底していきます。
すると、「この世の全ての事象には実体がない」という理解が徐々に深まっていくので、世界に対する期待や渇望が消えていき、心が解放されるのです。
この道筋で全ての人がうまくいくかどうかまではわかりませんが、ある程度の再現性はあると思っています。
「識別」について実践を進められている方は、ぜひ参考にしてみてください。

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