当ブログの文章と筆者の著作物は全て著作権フリーですので、どうぞご自由にお使いください。

思考も感情も波のようなもの|自我さえも本当のあなたではない

瞑想の実践をしていくと、観察力が磨かれていきます。

自分の呼吸がどうなっているか。
自分の姿勢がどうなっているか。
内側でどんな思考や感情が起こっているか。

そういったことに気づく力が高まるのです。

そして、そんな風にあらゆることを観察し続けていくと、「どんなものも決して永続しない」ということが徐々に腑に落ちるようになっていきます。

呼吸は変化し続け、身体は動き続け、思考や感情は生まれては消えていきます。

「全ては『一時的な現われ』に過ぎないのだ」という理解が、そこから生まれてくるのです。

それによって、「今の状態」にあまり囚われなくなっていきます。

「物事は変化し続けるものだ」という理解が、心を自由にしてくれるのです。

そもそも私たちは、「良いこと」があるとそれが今後もずっと続くことを願い、「悪いこと」があると、それがいつまでもなくならないかのように思い込みがちです。

たとえば私たちは、隣人が一度優しさを示してくれただけで、次も相手が優しくしてくれることを期待します。

ですが、必ずしも相手が同じように振舞うとは限りません。

なぜなら、全ては変化していくからです。

ですが、もしも私たちが「変化しないこと」を求めて相手に絶えず優しさを期待するならば、私たちの期待はどこかのタイミングで裏切られ、私たちは落胆したり憤慨したりすることになるでしょう。

ただ、それは決して相手のせいではありません。

私たちが「相手の変化」に落胆したり憤慨したりするのは、私たち自身の中に「変化しないこと」への期待があるからなのです。

また、何か「悪いこと」があると、私たちは「きっとこれから先もずっとこのままなのだ」と思い込んで絶望したりします。

苦しい時ほど、私たちの心はその苦しみに囚われてしまって、それ以外に何も見えなくなってしまうのです。

「全ては変化する」という理解は、こういった状態から私たちを解放してくれます。

そうして私たちは、他人に対して「いつまでも変わらないこと」を求めなくなり、「今この瞬間の相手」に集中できるようになります。

「相手は昨日と同じままのはずだ」という思い込みの中で他人を見ることがなくなり、「今目の前にいる相手」と丁寧に向き合えるようになるのです。

そして、苦しみの中にある時も、「この苦しみも、いつものようにそのうち消える」と、一歩引いた視点から眺められるようになります。

そもそも私たちは、苦しみの中にある時に何とかしてそれをなくそうとしがちです。

しかし、「苦しみというのはやって来ては去っていく波のようなものだ」ということがわかってくると、ジタバタせずにいられるようになっていきます。

またそこから、「苦しみがある時は苦しむのが良い」ということもわかってきます。

実際、苦しみの中にはそれ自体の美しさと意味があります。

苦しみだけに宿った味わいと、その苦しみが自分に起こった意味とが、そこにはあるのです。

また、もしも苦しみから逃げようとしてもがくなら、かえって苦しみは深まります。

それは、身体に矢が刺さったままなのに、やみくもに動き回ることによって、かえって傷が深くなるようなものです。

そうすると、苦しみをしっかり味わう余裕がなくなりますし、「なぜこの苦しみが自分に起こったのか」を理解する機会も逃してしまいます。

なので、私はいつも、苦しみが自分に訪れた時は、時間を取ってそれをしっかり味わうようにしています。

苦しみがどのように現れて、どのように変化して、最終的に消えていくのか。

それをひたすら観察するのです。

ただ、そのためにはある程度の「瞑想力」が必要です。

要は、「苦しみに巻き込まれることなく我を失わないでいられる力」が必要になるのです。

それを「精神力」と言うこともできるのかもしれませんが、私は「瞑想力」という言い方の方がしっくりきます。

なぜなら、別に瞑想によって人は精神的に強くなるわけではないからです。

たとえ瞑想を実践しても、心は反応し続けます。

思考も感情も起こり続けます。

精神が強くなって一切動じなくなるわけではなく、「動きそのもの」は続くわけです。

ですが、瞑想に熟達してくると、それらの「動き」に飲まれなくなっていきます。

それは、「思考や感情は自分とは別だ」という感覚が、当人の中で根付いてくるからです。

ヨーガでは、このような「自分」と「自分でないもの」を分けて認識する能力を「ヴィヴェーカ(識別力)」と呼んでいます。

瞑想の実践は、最初は集中力の養成から始りますが、最終的にはひたすら「ヴィヴェーカ」を磨く方向に進んでいきます。

そして、「思考や感情を観察している自我さえも、自分ではない」ということが「識別」できた時、私たちは非常に大きな解放感を感じることができるのです。

全ての思考や感情は現れては消えていきますが、「自我」もまた現れては消えていきます。

たとえば、遊びの中で夢中になる時、「自我」は一時的に消えています。

なぜなら、「自我」は実体のあるものではなく、私たちが社会生活を送るために作り上げられた「一つの機能」に過ぎないからです。

「自我」は雑多なものの寄せ集めであり、ランプのように明滅します。

「居る時には居るけれど、居ない時には居ない」のです。

それゆえ、瞑想の実践を続けていくと、「自我も含めた一切は、現れては消えていく変化そのものだ」とわかるようになっていきます。

このことが理解できるようになると、他人に過度な期待を押し付けることをしなくなり、苦しみが永続すると思い込んでジタバタしたりしなくなります。

「良いこと」も「悪いこと」も、いずれも「現れては消えていく波」のようなものとして眺めていられるゆとりが出てくるのです。

ただ、そのプロセスは非常にゆっくりと進みます。

まず、思考や感情に巻き込まれないでいられるようになるために、ある程度の集中力を身につける必要があります。

心が絶えずぴょんぴょん跳び回っていると、落ち着いて思考や感情を観察できないからです。

なので、心が四六時中さまよい歩かないようにするところから、瞑想の実践は始まります。

そうして、集中力がある程度ついてくると、思考や感情に振り回されないようになってくるので、ようやく自分の思考や感情を観察することができるようになってきます。

そこから、「自我」を通して思考や感情を観察し続け、最終的には「自我」そのものが「変化するもの」として観られるようになるのです。

その過程で、「生産性の向上」や「人間的な成長」が副産物として生まれるかもしれません。

ただ、それらはあくまでも副産物であって、それらを得ることが瞑想の本来の目的ではありません。

瞑想の本来の目的は「自己」を悟ることです。

言い換えれば、「自己」と「自己でないもの」を別のものとして明確に識別し、「自己でないもの」に囚われないようになることです。

瞑想をしたことのない人たちは、思考を「自分」だと思っています。

あるいは、感情と「自分」を同一視しています。

そして、「自我」こそが「自分自身」だと深く思い込んでいます。

ですが、それらはどれも「本当の自分」ではありません。

全ては変化して消えていきます。

ただ、「それら一切を観ている者」を除いては。

コメント