私はこのブログで哲学的な話をすることがたまにありますが、それらの私の見解に、どれだけ哲学的な正当性や論理的な整合性があるかはよくわかりません。
なぜなら、私は別に「哲学的な思惟」によって、これらの結論を導き出したわけではないからです。
たとえば私は「時間と空間は実在しない」と言います。
ですが、私はこの結論を考えて導出したわけではなくて、瞑想の実践をする中で、我が身でもって体験したのです。
実際、瞑想状態が深まっていくと、ある瞬間に時間と空間は溶解していきます。
「未来」と「過去」が消えることによって「今」という瞬間は溶けてなくなってしまい、「あそこ」や「そこ」が無意味になることによって「ここ」という観念も意味を失います。
そこにおいては、ただ「在る」としか言えません。
その時、確かに何かが「在る」のですが、もはや「在る」と発語する主体も消えています。
深い瞑想の中においては、時間と空間が消えて、「存在」だけが残る。
これが、私自身の「体験的な理解」です。
そして、私はいつもこういった「体験的な理解」を出発点にして、「これはいったい論理的にはどういうことなのだろう?」という風に、後から言語化して説明してみているだけです。
それゆえ、時には「なぜかわからないけど、こうなのだ」としか言いようのないこともあります。
例えば、私たちの存在の本質は「喜び」なのですが、私にはその理由がいまだにわかりません。
もう何年も考え続けていますが、いまだに理由は不明です。
なぜかはわからないのですが、私たちは思考や感情の雲が去って「まっさらな状態」になった時、そこに「喜び」を見出すのです。
思考や感情がなくなった時に現れてくるものが「喜び」であることには、特に必然性がありません。
何が現れてもいいはずですし、それこそ「何も現れない」というほうが理に適っています。
ですが、なぜか「まっさらな空白」の中で浮かび上がってくるのは、いつも決まって「喜び」なのです。
それゆえ、「なぜ存在の本質は喜びなのか?」ということについて、私は納得のいく説明をすることができません。
私には結論しかわからないのです。
そういう意味で、私は「幸福」というものを論理的に証明することができません。
推論したり、因果関係を考えたりするのは、あくまでも他人に説明するための後付け作業であって、私の中では結論だけが先に来ています。
「人はもともと幸福に生まれついている」と。
ただ、生きていく過程で、その「原初の幸福感」の周りに多くの雲がまとわりついてしまうから、私たちはそれを感じられなくなるだけなのです。
とはいえ、私は過去に「哲学的な思弁」を好んでいた時期もありました。
論理的に思考して、「真理とは何か」を探究することが好きだったのです。
ですが、次第にそういった傾向は弱まっていきました。
なぜなら、頭の中で論理的に考えようとすればするほど、「解けない謎」がどんどん増えていってしまったからです。
「論理的な思考」だけで「真理」を理解しようとすると、どうしてもそうなります。
「思考によって解決できる問題」はごくわずかで、むしろ考えれば考えるほど「新しい問題」が見つかってしまいます。
もちろん、数学の問題などであれば、思考によって解決できるでしょう。
でも、こと人生に関する問題は、思考によってスッキリ解決するものはほとんどないのです。
「哲学的な思弁」に耽ることは、人によっては面白いことかもしれませんが、私は徐々にそういったことに興味を失っていきました。
それは、「考えるほどに問題が増える」ということがあったからであり、そしてまた、「いくら考えても自分の人生は変わらない」という実感があったためでもあります。
実際、頭の中だけで論理的な思考を組み立てていても、私に中に「信念」や「実感」といったものは生まれてきませんでした。
現実離れした哲学的な思考実験をしていると、その間だけは普段の生活を忘れられましたが、そうやって考えることが私の生活そのものを一変させることはなかったのです。
それゆえ、私はある時を境に「考えること」はやめて、ひたすら身体と心を使って実践するようになっていきました。
「論証を積み重ねて結論を得る」という道は諦めて、「まず心身を変容させて、先に結論を体験してしまう」という道に方向転換したのです。
そうして最終的に、私の実践は実を結びました。
かつていくら「哲学的思弁」を積み重ねても変わらなかった人生観や生きる姿勢が、瞑想の実践によって一変したのです。
「自我というのは虚構である」
「時間も空間も実在しない」
これらは、思考によって論証されることなく、ただ体験的に理解されました。
とはいえ、日常生活を送る際には「自我」を使う必要がありますし、深い瞑想状態から出てくれば、時間や空間が存在しているかのように感じられます。
私も別に、「自我」を完全に滅却して「無」の中で暮らしているわけではありません。
ただ、「そういったことは全て虚構なのだ」という理解が、いつも自分の内側の片隅にはあります。
そして、その理解の元になったのは、決して「思考」ではなくて、あくまで「自分の体験」だったのです。
もしもあなたが「哲学的な思弁」を楽しむことができるなら、私はそれを止めはしません。
ただ、もしも「考えること」によって先に進むことができないように感じているなら、「論証する道」はいったん捨てて、「まず体験してしまう道」を選んだ方が、のちのち得られるものは大きいと思います。
人によっては、「哲学的な論証」だけで深く納得して、そこから自分の人生観が変わることもあるかもしれませんけれど、実際に自分で体験しないと納得できない人も多いはずです。
「真理」について考えるのではなく、「真理」そのものを体験する。
それが、場合によっては突破口になるかもしれません。

コメント