当ブログの文章と筆者の著作物は全て著作権フリーですので、どうぞご自由にお使いください。

瞑想における二つの道|「人としての幸福」を追求する道と、「自我と世界」を解体する道

私は瞑想の実践には大きく分けて二つの方向性があると思っています。

それは「人としての幸福を追求する道」と「悟りに至るための道」の二つです。

今回の記事では、この二つの道について説明していこうと思います。

◎「人としての幸福」を追求する道

瞑想については、近年科学的な研究が進んできています。

たとえば瞑想を実践することで、精神的な落ち着きが得られたり、不安感やストレス反応が減ったりすることがわかってきました。

また、瞑想によって集中力や生産性が向上し、学習能力や記憶力も高まります。

そのほかに、「感謝の瞑想」などを継続的に実践すると、自己中心的な思考が減って利他的になる傾向もあるようです。

そうして精神が安定することでQOL(生活の質)が向上し、自己成長も加速します。

また「自己中心性」が低下して奉仕活動への意欲が高まることで、「自分はこの世界に貢献している」という感覚が養われ、幸福感も増大するでしょう。

こう書くと「良いことづくめ」ですが、実践を継続するのはなかなか骨が折れるので、効果を実感できるところまで到達できる人はそう多くありません。

それに、どんなメソッドにも個人差はつきものです。

どれほど瞑想を実践しても、効果を実感できない人がいるのです(ちなみに過去の私がそうでした)。

ともあれ、これが瞑想の実践における二つの方向性のうちの一つである、「人としての幸福を追求する道」です。

「瞑想の実践によって、より良い人生を生きる・幸福な生活を送る」ということが、ここでは目指されます。

基本的に、現代社会で瞑想を実践する人のほとんどは、こちらが目的でしょう。

ですが、瞑想の道はこれだけではありません。

もう一つ、「悟りに至るための道」があるのです。

◎「悟り」とは、「自我」と「世界」が解体されること

「悟り」というのはいろいろな定義や解釈ができると思いますが、私にとっては「自我と世界は虚構であると理解すること」です。

このブログの記事を以前から読んでおられる人には伝わると思いますが、「自我」というのは「本当の自分」ではありません。

「自我」というのはあくまでも、人間が社会生活を送るようになった過程で生み出された「一つの機能」に過ぎないのです。

たとえば、「自我」があるからこそ、私たちは「これは自分の身体だ」と思うことができます。

「自分の名前」
「自分の家」
「自分の過去」
「自分の肩書」
などなど…

「自我」はあらゆるものに「自分の」というラベルを貼り、私たちに「自己感覚」を植え付けます。

つまり、「自我」は独自の働きによって、「自分はこのような人間としてこの世界に確かに存在している」ということを私たちに信じ込ませようとするのです。

それゆえ、私たちは物心がついてしばらくすると、「自分は~という名前の一人の人間で、この世界の一員なのだ」ということに何の疑いも持たなくなります。

もちろん、それは人間社会の中で暮らす上で「絶対に必要な思い込み」です。

しかし、それはあくまでも、「自我」という機能が作り出した一種の「お話(フィクション)」なのです。

このことをに気づいた時、「これこそが自分だ」という観念も、「自分の外側に世界が在る」という確信も解体されてしまいます。

そのような自己解体を体験し、「全てはくうだ」と理解することが、私にとっては「悟り」です。

◎「悟り」のためにする下準備としての瞑想

このような「悟り」に向かって瞑想の実践をする場合、実践者はまず集中力を鍛えていきます。

最終的には「自我は自分ではなく世界は幻である」という理解に至るわけですが、それを理解するためには、「自我と自分の同一視」を解かなければなりません。

そもそも私たちは、生まれてから成長していく過程で、「自我こそが自分の本体である」と強く思い込むようになっています。

それゆえ、「自我」と「本当の自分(=意識)」との間に、わずかな隙間もなくなっているのです。

これでは、「自我は自分ではない」ということを理解できるようにはなりません。

なので、どうにかして「自我から離れること」が必要になってきます。

つまり、「自我を対象として客体化すること」が必要になるのです。

そして、そのためには内側を静かにしておくことがたいへん有効です。

なぜなら、「自我」と一緒に忙しく動き回っていると、「自我は自分ではない」ということに気づきにくくなってしまうからです。

しかし、内側を静かにするためには、ある程度の集中力が要ります。

無自覚な思考や突発的な衝動によって翻弄されていては、「静かな状態」を保つことができません。

それゆえ、内側を静かに保っておくために、実践者はまず集中力の養成から始めるわけです。

◎「悟り」は「幸福の追求」を無意味にする

この実践が、瞑想のもう一つの方向性である「人としての幸福を追求する道」と全く違うものであることが、既にはっきりわかるかと思います。

「人としての幸福」を求めている人は、日々の生活をより快適にすることを目指します。

しかし、「悟り」を目指している人が求めているのは、そもそもそのような「幸福な生活」を成り立たせている「自我」と「世界(という観念)」を崩壊させることなのです。

「悟り」を目指している人が求めているのは、何かを手に入れることではありません。

そこでは、「手に入れること」ではなく、むしろ「捨てること」が目指されます。

そうして「自我」と「世界」という巨大な束縛から自由になることを、当人は目指していくわけです。

それゆえ、もしもこの道をどんどん進んでいくと、「人としての幸福」にあまり意味を見出さなくなっていきます。

なぜなら、そうやって築いた幸福も、しょせんは「実体のない幻」のようなものだと感じられてきてしまうからです。

ですが、「自我」と「世界」から解放されることで、当人は「自由の味」を知ります。

それが、インドで古くから「アーナンダ(至福)」と呼ばれているものです。

それは「自我」や「世界」から解放され、「真の自己(意識)」に定まることによって感じられる「無条件の幸福感」です。

「アーナンダ」は、「QOLの向上」や「奉仕活動による貢献感の増大」などによって感じるものとは別種の幸福感で、高揚感を伴ったエクスタシーのようなものではなく、静かでとても穏やかな感覚です。

しかし、おそらくほとんどの人はこのような「穏やかで無根拠な幸福感」よりも、「人生の意味」や「貢献感」などによって生成する「生きている実感」のほうを大事にするでしょう。

そういう人にとってはむしろ、「生きている実感」を得るための舞台である「世界」が解体されてしまっては困るわけです。

◎色即是空、空即是色

だから、瞑想の道のどちらを重視するかは人によります。

私は「どちらかが正解で、もう片方が間違っている」とは思いません。

なぜなら、そもそも今の私の生き方自体が、その両方のミックスになっているからです。

たとえば、私は「自我」と「世界」が虚構であると理解はしていますが、その感覚にどっぷり浸かって生きてはいません。

もし「世界というのは幻だ」という理解に完全に定まって生きようと思ったら、出家でもして俗世から離れないとかなり難しいと思います。

私は今のところ出家するつもりはありませんし、今後も社会の中で生きていくつもりです。

ですが、実際に社会の中で生きながら「世界は幻だ」と言い続けることは、どこか自己欺瞞的にも感じています。

「自我も世界も実体はない。全てはくうである」というのは、確かにそうなのですが、それでもやっぱり私は生きているからです。

そして、別にそのこと自体は否定しなくても良いのではないかと私は思っています。

世界が「幻」であるならば人生は「つかの間の劇」のようなものです。

しょせんは「劇」なのですが、でも、それを思い切り楽しんで演じてはいけないわけではありません。

だから私は「生きること」も肯定しています。

「人生」は実体のない「くう」ですけれど、私はそれをより活き活きと全力で生きたいのです。

◎二つの道それぞれのメリットについて

そんな具合で、私の中では二つの道が混合しています。

「悟り」についても理解しつつ、「人としての生」も肯定しているわけです。

「悟り」を重視する人からは私は中途半端に見えるかもしれませんし、「人としての生」を唯一のリアリティだと思い込んでいる人からは、どこか浮世離れして見えるかもしれません。

でも、今のポジションが私にはちょうどよく感じています。

そして、両方の道それぞれの良さを、私は知っているのです。

まず、「悟り」によって「自我」と「世界」を絶対視しなくなると、人生について深刻に悩まなくなります。

そもそも、全ては実体のない「くう」なのですから、それについて深く悩むのも変な話です。

また、「無根拠な幸福感(アーナンダ)」を知っていると、むやみやたらに成功や達成を追い求めなくなります。

なぜなら、「別に何もしなくても、自分の本質は元から至福だ」ということが、既に分かっているからです。

そして、「人としての生」を肯定することによって、私はこの社会で生きる他の人々と共に生きていくことができます。

他人の痛みや悩みに触れ、それを解決するために力を注ぐことは、私に「生きている意味」を感じさせてくれます。

また、社会の中で経験する「自己成長」と「奉仕」とは、私にとって「アーナンダ(至福)」とはまた異なる「喜びの源泉」となっているのです。

◎私は「一人の人間」として生きるために「悟り」を通過する必要があった

あなたは「悟り」と「人としての幸せ」のどちらを求めているでしょう?

また、それぞれをどれくらいの割合で求めていますか?

中には「悟りだけが目標だ」という人もいれば、「悟りについては考えたこともない」という人もいると思います。

ただ、両者を相容れないものとは私は思いません。

それぞれをバランスよく混ぜ合わせて生きていくこともできると私は思っています(まあ、「悟り」のほうについては一時的にそれに完全に専心しないと壁を突破することができませんが…)。

ともあれ、瞑想の実践には二つの方向性があります。

このブログでは、基本的に「悟り」に関する記事が多めで、メルマガのほうは「人としての幸せ」に関する話が中心です。

読者のタイプに合わせて書き分けている感じですね。

ただ、私としてはそこに優劣は設けていないので、「両方の道があるんだ」ということをブログでは伝えておこうと思いました。

「悟り」を目指す道は険しく、何度も挫折しそうになると思います。

ただ、過去の私は「人としての幸せ」を求めることに失敗していたので、そこにしかもう道がなかったのです。

そして、「悟り」を理解できるようになって、私はようやく「人としての幸せ」も感じられるようになっていきました。

私にとっては「悟り」を目指して進むことが、「人」として生きる上で必要な迂回路だったようです。

あなたはどのような道を辿るのでしょうか?

そこに「正解」はありません。

あなたの旅が実り豊かなものとなることを私は祈っています。

コメント