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あなたは今のままで既に完璧である|何かを足すのではなく「本来の状態」に戻ることこそが瞑想である

私がこうしてブログで文章を書くようになって、約8カ月が経ちました。

その間に、Amazonで本を出版したりYouTubeに進出したり色々とやってきましたが、私自身にとって「活動の原点」は、「自由な呼吸を一人でも多くの人と共有したい」という想いでした。

今回の記事では、そのことについて改めて書いてみたいと思います。

過去の私が苦しみの中で求めていたもの

これまでにも他の記事で書いてきましたが、私は過去に精神的なトラブルを多く抱えて生きてきました。

かつての私は、いつも不安や恐怖を感じながらビクビクしていて、人生に絶望して自殺しようとしたこともあります(結局、幸か不幸か死に切れず未遂に終わりましたが)。

また、他人とうまくやっていくことができず、学生時代は不登校児でしたし、社会に出てからも同じ職場で長く働くことができず、仕事をしないで何年間も家に引きこもっていた時期があります。

過去に結婚していた時期もありますが、私は自分のことばかり考えていたので、妻を精神的に追い詰めてしまい、離婚することになりました。

そこから、精神的におかしくなって職場で暴れ出してしまい、家族だけでなく仕事まで失ったのです。

さらには、お金が底をついて、食うに困ったこともあります。

どう考えても、人生がうまくいっていなかったです。

私はこれまで社会的に何か大きな成果を上げたことはありませんし、すねにはたくさん傷がついています。

それゆえ、私は他人に偉そうに「道」を説けるような人間ではないかもしれません。

ただ、私はこれまで苦しみの中でどうかこうか生きてきて、最終的に「暗闇」から抜け出ることができました。

もちろん、私は今も社会的には「無」に等しい存在のままですし、脛についた「後ろめたい傷」の数々も、きっと死ぬまで消えることはないでしょう。

しかし、それでも私は自分の内側に「平穏」と「幸福」を見出すことができたと感じています。

そしてそれこそが、私自身がずっと求めていたものだったのです。

捻じ曲げられた心を抱えて

先ほども書きましたが、私は他人に向かって「人はこのように生きるべきだ」と大上段に構えて論じる資格を持っていないと思います。

ただ、「そういう資格を持ちたいか?」と言われても、あんまり魅力を感じないところがあります。

どうも私は、上から目線で教えを説くよりも、現に苦しんでいる人たちと並んで生きていきたいと思っているようです。

そもそも、生きていると苦しいことはたくさんありますし、誰しも思うようにならないことばかりでしょう。

でも、そんな中にあっても朗らかな心持で今日を生きる。
そうして、ほんの少しだけ深く呼吸をする。

それを可能にしてくれるような「自由な心」が、多くの人にとって必要なものではないかと私は思っています。

そして、私としてはその「自由な心」を一時的に失っている人が、何かのきっかけでそれを思い出せるようにと思って、これまで活動をしてきたのです。

私は「人の心はもともと自由だ」と思っています。

ですが、私たちの心は生まれてからの教育の影響や、日常的な環境に左右されて、捻じ曲げられてしまったり、時にはねてしまったりすることがあります。

そうすると、たとえ何を言われても素直に受け取れなくなりますし、絶えず自分や他人を責めて苦しむようになっていきます。

生活は閉塞感でいっぱいになり、内側には欲求不満が巣食うようになるのです。

それは、当人にとって非常に辛いことです。

私自身も、かつてはそれを経験しました。

「自分だけが辛いんだ」
「どうして自分ばかりこんな苦しまないといけないんだ?」
「こんな人生なら、いっそ早く終わらせてしまいたい」

そんな風に思って、生まれてきたことを呪った時もあります。

ですが、幸運にも(と言うべきでしょう)、私はそこから抜け出すことができました。

失ったものは戻ってきませんでしたし、今なお地位もお金も持っていませんが、心には「満たされた感覚」が宿るようになったのです。

あなたに「足りないもの」は何もない

私は「社会的に成功する方法」については、ほとんど何も知りません。

ただ、「自分の人生に満足する方法」についてなら、知っていることがいくらかあります。

そして、世の中の多くの人にとって本当に必要なことは、「社会的に成功すること」ではなくて、「自分の人生に納得すること」なのではないかと私は思っているのです。

もちろん、別に何もかもを諦める必要はないと思います。

追い求めたい「夢」があるなら、それを無理に捨てることはありません。

ただ、「夢」がたとえ叶おうとも、「帰っていく場所」を見失ってしまったら、心が真に満たされることはないでしょう。

しかし、結局私は何が言いたいのでしょうか?

おそらく私は「あなたは今のままで既に完璧だ」と言いたいのです。

あなたに「欠けているもの」は何もありません。

「必要なパーツ」は全て揃っています。

ただ、その並び順が、時々狂ってしまうことがあるだけなのです。

先ほども言いましたように、私は「人の心はもともと自由だ」と思っています。

ですが、私たちの心というのは、多くの不幸な偶然によって捻じ曲げられ、閉ざされてしまうことがあり得ます。

「自由であるために必要なパーツ」は全部揃っているのに、その並び順が人生のどこかで狂わされているのです。

瞑想は、その並び順を整えるための方便の一つです。

気功も呼吸法もボディワークも、人間の生命力を高めることを目的にした技法は基本的にどれもそうです。

それらの技法は、「新しい何か」をあなたに付け加えるのではなく、あなたをただ「本来の状態」に戻します。

それゆえ、「本来の状態」に戻った時、きっとそこであなたは「どこか懐かしい感覚」を覚えるはずです。

それは、「ずっと前から探していたもの」でありながら、「ずっと前から知っていたもの」であるようにも思えます。

「足りないものは何もなかったんだ」
「全てはこれでよかったんだ」

そう思って、私たちはやっと一息つくことができるのです。

「完成」を目指すことなく、どこまでも「バランス」を整え続ける

私は瞑想会をリアルでもネット上でも開催していますが、そこでも私は「何か新しいもの」を参加者の方の中に付け加えようとは思っていません。

私はただ、思い出してほしいのです。
「足りないものは何もなかったのだ」ということを。

何かを付け加えようとする限り、私たちはいつまでも「不完全」なままです。

そして、「不完全」であるがゆえに、私たちはいつまでも自分のことを、心のどこかで罪悪視し続けることになります。

もちろん、「修行」に終わりはありません。

ですがそれは、私たちが「不完全」だからではないのです。

「修行」に終わりがないのは、私たちの心の並び順が、何度整えてもすぐにまた狂ってしまうからです。

私たちは「いつか訪れる完成」に向かってパーツを付け足し続けるのではなく、「常に崩れていくバランス」の中でパーツを整え続けていきます。

それゆえ、必要なことはあくまで「整えること」であって、「足すこと」ではありません。

「足りないもの」は、本当に何もないのです。

ですので、もしも私の瞑想会に参加する時は、「自分に足りないものがある」と思わなくても大丈夫です。

あなたに必要なものは、既に全部揃っています。

私はただ、その並び順を整えるために手伝いをするだけなのです。

「答え」はあなたの中に眠っている

もちろん、優れた能力を持っている人もいれば、能力をそれほど持っていない人もいるでしょう。

ですが、能力がまだ花開いていない人の中にも「種子」は存在しています。

ですから、本当に必要なことは、「他人の花」をどこかから切って持ってくることではなく、「自分の種子」に光と水を与えることなのです。

その時、自然と内側で成長が起こって、「種子」は芽を出し、やがて「自分の花」を咲かせるでしょう。

私は「何も変える必要はない」とは言いません。

もしも今現に苦しいならば、何かしらの変化は必要です。

ですがその変化は、外側から何かを足すことによって起こるのではなく、内側から「種子」が芽吹くことによって自然と起こります。

私に伝えることができるのは、内側の「種子」に水と光を与える仕方だけです。

そして、それで十分なのだろうと、私はいつも思っているのです。

あなたにとって必要な「答え」は、あなたの中で眠っています。

あとは、あなた自身が「それ」を内側に見つけ出すだけです。

「それ」は今も、あなたの帰りを待っています。

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