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内なる貪欲を焼き尽くす|欲求と敵対せずに無欲求へと至る道

仏教に、「渇愛(タンハー)」という概念があります。

「タンハー」とは激しい喉の渇きのような欲望のことです。

泥水でも何でもいいから、飲まずにいられない。

そういった「心の渇き」のことを、「タンハー」と呼ぶわけです。

瞑想を実践していると、多くの人はこの「タンハー」を自覚するようになると思います。

なぜなら、「何でもない状態」の中に私たちはどうしても満足して留まることができないからです。

私たちの心の奥底には、「潜在的な渇き(タンハー)」が埋め込まれています。

私たちは絶えず何かを求め、さまよい続けます。

「既に手の中に在るもの」では満足できず、「今この瞬間」に満ち足りることがありません。

「全てこれで良い」と思うことができず、私たちは常に動き続けます。

そもそも、瞑想の技法を実践するのも、「満たされない何か」が在るからこそです。

本当に満たされている人に瞑想の技法は必要ありません。

そういった人は、特別に瞑想の技法を実践しなくても、全ての物事を瞑想的におこなうでしょう。

ですが、私たちは瞑想を実践している最中にさえ欲求し続けます。

「早く達成したい」
「必ず成就するのだ」
「瞑想状態に入らねば」

そうやって、私たちは欲求と共に坐ります。

「タンハー」は内側に残っており、その「渇きの感覚」が私たちを実践へ向かわせるのです。

ですが、「タンハー」が残っているがゆえに、実践者は心からリラックスすることができません。

「もうこれでいい」と思って立ち止まることができず、「もっと早く」「もっとたくさん」と求め続け、当人は「瞑想状態」の周りをグルグルと輪を描いて回り続けます。

「タンハー」が消失し、「これでいい」と思えるようになったら、自然と「瞑想状態」の中へと落ちていくのですが、「タンハーを消したい」という欲求が、最後までその障害となるのです。

ここにはジレンマがあります。

「タンハー」は、ほっておいても消えません。

だから、人は「何か」をする必要があります。

しかし、「タンハー」を消すために何かをしている限り、「タンハーを消したい」という欲求によって、リラックスが絶えず阻害されます。

こうして多くの瞑想実践者は、「タンハー」を敵視して、これと闘い始めてしまうのです。

ですが、「タンハー」は消そうとすればするほど強固になります。

なぜなら、「タンハーから自由になりたい」という想い自体が、「タンハー」に根を持っているからです。

ポイントは、「タンハー」を消そうとするのではなく、ただ見つめることです。

自分の内側に「渇き」が在る。

瞑想を実践していけば、これが否定しようのない事実であると、嫌でも理解できるようになると思います。

そしてこの「渇き」は、実践者のことを寝ても覚めても引きずり回しているはずです。

「求める心」があるために、常に落ち着きと安らぎが妨げられており、さらには、そのことに対する苛立ちや無力感も当人は感じているかもしれません。

そうであるならば、それらをただただ感じ尽くします。

泥水でもいいから飲みたくなるほどの「渇き」なのですが、これをあえて感じていくわけです。

心の奥深くに潜っていくと、きっと竜巻のように渦を巻いた「タンハー」を見つけると思います。

それがいつも私たちのことを行為へと駆り立て、落ち着きと安らぎを不可能にしているのです。

その時、「タンハー」に突き動かされて行為に向かうのではなくて、ただ「タンハー」と共に留まります。

「渇き」を行為によって癒そうとするのではなく、「渇き」を感じ尽くすのです。

そもそも、たとえどんなに行為を積み重ねても、「タンハー」は決して消えません。

一時的に弱まることがあったとしても、またすぐに「渇きの感覚」は戻ってきます。

これは、「タンハー」が「満たせば消える」という類のものではないためです。

「タンハー」は、感じ尽くすことによって消失します。

「タンハー」という形で渦巻いていたエネルギーが、感じることの中で消費し尽くされるからです。

人によってその時、「何かせずにいられない衝動」を感じて苦しむかもしれませんし、「漠然とした退屈」を感じて逃げ出したくなるかもしれません。

いずれにせよ、それは「心地よい感覚」ではないと思います。

ただ、その「居心地の悪さ」から抜け出そうとしてジタバタしても、「タンハー」は消えてくれません。

「タンハー」を消そうと思ったら、あえてその中に留まることが必要なのです。

結局のところ、瞑想の実践というのは「タンハーの只中に留まる努力」であると言えます。

実際、瞑想の実践をしている時も、内側では欲求が燃え盛っているはずです。

「早く成就したい」
「深い安らぎの中へ入りたい」

そういった欲求が、ジリジリと心の肉を焦がしていることでしょう。

ただ、その「内側で肉がける感覚」を味わっているうちに、気づくと「落ち着き」の中に入っていることを当人は発見します。

あんなに求めていた「安らぎ」が、何の努力も必要とせず、内側で花開いている。

それは驚くべきことです。

それまでずっと、無限にも思えるほどの距離があったのに、気づくと隔たりがなくなっているのです。

「タンハー」が残っている限り、「成就」までの距離は無限です。

それゆえ、多くの実践者が「自分は一生『ゴール』に辿り着くことができないのではないか?」という不安に囚われるものです。

ですが、もしも「タンハー」を感じ尽くすと、「無限の距離」が突然消失します。

当人は、「ずっと居たかった場所」に自分が既に居ることを発見するのです。

このことを何度か経験すると、人は焦って「ゴール」を目指そうとはしなくなります。

どのみち、焦ったと急いだところで、「ゴール」までの距離は無限なのです。

それゆえ、たとえどれほどスピードを上げたところで、一生かかっても到達できません。

ですが、「『ゴール』は向こうから突然降ってくる」ということが理解できると、もはや急ぐ必要などありません。

「タンハーは感じていれば、じきにれる」とわかってくると、人は焦ってジタバタしなくなるのです。

その結果、「タンハー」そのものが徐々に湧かなくなっていきます。

なぜなら、焦る必要がなくなることで、「常に『ゴール』を求めずにいられない性急さ」が自然と沈静化するからです。

「タンハー」をどうやって消失させるか?

それは、瞑想を実践する際に、避けては通れない難問です。

ただ、先ほども書きましたように、消そうと思っている限り「タンハー」はむしろ強まります。

なぜなら、「この貪欲を消したい」という欲求に身を焼かれている人間ほど貪欲な者はいないからです。

貪欲であるなら、それで別に何も問題はありません。

大事なことは、自分の貪欲から決して目を離さないことです。

「自分がどれほど欲深いか」を徹底的に見尽くしたとき、その貪欲は消失します。

貪欲として燃えていたエネルギーが、全て灰になって消えるのです。

自分の中の欲求が灰になるまで見つめ続けること。

それが、瞑想の実践です。

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