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「わからないこと」はわからないままでいい|私が瞑想によって確かめることのできた3つのこと

私には「わからないこと」がたくさんあります。

たとえば、「死後の生があるのかどうか」を私は知りません。

「輪廻転生が本当にあるのか」も私は知りません。

「神が実在するかどうか」も私には何とも言えないです。

私に言えることは、「自我というのは虚構である」ということと、
「世界というのは、その自我が創り出した物語である」ということと、
「それらのことを認識して心が解放されると、本来の至福が表に現れる」ということだけです。

実体のある「我」は存在しない。
「世界」は移ろいゆくものである。
私たちの存在の本質は「根拠のない喜び」である。

以上が、私の知っていることです。

それ以上のことは、私にはよくわかりません。

そして、別にわからないままでもいいのではないかと思っています。

「死後の生」がもしも在るのであれば、私はきっと死んだ後も「根拠のない喜び」を感じ続けるでしょう。

そして、もしも「死後の生」が無いなら無いで、死んだ後にもう何も感じることはないわけですから、それについては私とは何の関係もありません。

つまり、「死後の生」が在るのか無いのか私にはわからないわけですが、私としてはどっちでも構わないのです。

「輪廻転生」についても私は何もはっきりしたことは言えません。

私には過去世の記憶がありませんし、そういったものにあまり興味も持っていないです。

そもそも、仮に過去世の記憶を思い出したとしても、本当にその記憶が「過去の人生のもの」なのかを確かめる方法はありません。

どこまで行っても、そこには「個人的な空想」である可能性が残るはずです。

「神の実在性」についても、私は「神」がいてもいなくてもどちらでもいいと思っています。

私も万物を生かしている「大いなる存在」への畏敬の念なら感じることがありますが、それは「神」に対する信仰心というよりも、「なぜかわからないけれど全ては存在する」という事実そのものに対する驚きの感情です。

一切は存在しないこともできたのに、なぜか全ては存在する。

そのこと自体が驚嘆すべきことだと私は思いますが、それら一切の存在を「神」が創ったかどうかについては、考えるだけ無駄だと思っています。

なぜなら、もしも「神」が全てを創ったのなら、「その『神』を創ったのは誰なのか?」という問いがどうしても出てきてしまうからです。

そうなると、「なぜかわからないけれど『神』は存在した」ということにするか、「一切を創造した『神』自体を創造した『さらに高位の神』が存在する」ということにするしかありません。

前者であれば、結局「なぜかわからないけれど(『神』をも含めて)全ては存在する」ということになるので、わざわざ「神」という概念を持ち込む必要がなくなってしまいますし、後者であれば「その『さらに高位の神』を創造したのは誰なのか?」という問いが永遠に続いてしまいます。

なので、「なぜかわからないけれど全ては存在する」ということ以上に遡ることは、原理的に不可能です。

全ては存在しないこともできたはずなのに、なぜか存在する。

そこに理由はありません。

だからこそ、それは驚異であり、とても不思議なことだと私は思うのです。

こんな具合で、私には「わからないこと」が多いです。

ただ、別にそれで困ったことはありませんし、そもそもこれらの問いについては、「どうすればわかったことになるのか」がわかりません。

「死後の生が在るか無いか」は死んだらわかるでしょうけれど、現にまだ生きている以上、確かめようがありません。

「輪廻転生」についても、過去世の記憶が真実かどうかをどうやったら確かめられるのかわかりませんし、来世があるかどうかも死んでみないとわかりません。

「神」についても、どうやったら「神の実在性」を証明できるのか私にはわかりませんし、そもそも「一切の存在」そのものが私にとっては驚異であるので、そこに追加で「神がいるかいないか」を論じるのは、あくまで個人の好みの問題ではないかと思っています。

そういった「確かめようのないこと」とは別に、私は瞑想の実践を積み重ねることによって、「自分なりに確かめられること」は確認してきました。

そうして確かめられたことが、さっき上で書いた3つのことです。

すなわち、

実体のある「我」はどこにもない
「世界」というのは移ろいゆくものである
存在の本質は「喜び」である

という3つです。

この3つについては自分自身で納得できていますし、瞑想の実践によって誰もが確かめることのできることだと思っています。

そして、この3つが理解できるようになったことで、私の人生は劇的に変わりました。

本当に生きるのが楽になったのです。

まず、「自我というのは虚構である」とわかったことで、私は「自我」を必死になって守る必要がなくなりました。

それまでは、「自我こそが自分自身だ」と思っていたので、私はありとあらゆる手段を使って「自我」を守ろうとしていたのです。

その結果、自己防衛的になり過ぎて身動きが取れなくなってしまったり、「自分が周りからどう見られているか」を気にして苦悩したりしていました。

ですが、そういったことは全て、「自我」を自分と取り違える「勘違い」が原因だったのだとわかって、私は肩の力が抜けたのでした。

また、「世界」が「自我」によって創られている一種の物語だとわかってみると、人生は「深刻な問題」ではなくなり、「単なる劇のようなもの」になりました。

自分の人生についてあまり思い詰めることがなくなり、楽観的に生きられるようになったのです。

そして、自分の存在の本質は「無根拠な喜び」であるとわかったことで、私はいたずらに走り回らなくなりました。

そもそもそれまでは、「何かを手に入れたり達成したりしないと喜びを感じることはできない」と思い込んでいたので、私はいつも走り回っていたのです。

しかし、「別にそんなことをする必要はなかったのだ」と気づいたことで、私は気楽に構えていられるようになりました。

心に巣食っていた「渇き」が消えて、「求める気持ち」が沈静化していったのです。

おかげで、焦りや性急さからずいぶん自由になれました。

いつもどこかに向かって走っていた状態から、「今の自分自身」にリラックスできるようになったのです。

このように、瞑想の実践によって確かめた3つの事柄は、私の人生をより良くしてくれました。

ですが、「死後の生の存在」や「輪廻転生」、そして「神の実在性」については、どうやったら生きたまま確かめられるかがわかりませんし、それらを確かめることによって自分の人生が変わるともあまり思えません。

なので、そういった「確かめようのないこと」については気にせずに、「確かめられること」を大事にして、一日一日を丁寧に生きていこうと思って私は暮らしています。

ただ、たぶんそれは「ものすごく普通の生き方」です。

何も知らない人から見たら、私がかつて必死で「真理の探求」をしていたことなどわからないでしょう。

ですが、私は別にそれでいいと思っています。

「自我」は虚構であり、「世界」は物語であり、存在の本質は「至福」である。

それは私自身がわかっていればいいことなので、他人に無理に理解させる必要があるとは思いません。

ただ、そういったことを理解できるようになったほうが、人生をより良く生きられるタイプの人もいると思うので、こうやってブログで自分の考えや実践してきた方法などをシェアしています。

それが誰かの役に立つようであれば嬉しいです。

いずれにせよ、私は「確認しようがないこと」にはあまり興味がありません。

だから、それについてあれこれ議論しようとも思いません。

「死後の生」が在るのか無いのか。
「輪廻転生」は本当に在るのか。
「神」は実在するのかどうか。

私はそれらについて、在るとも無いとも言いませんし、他人が語るどちらの意見に対しても反対しません。

ただ、そういった「確認しようのないこと」について議論している間に、「確認できること」をしっかり確かめたほうが良いのではないかと個人的には思っています。

人によっては、「瞑想の実践をとことんおこなうと、全知全能になる」と思っていたりするかもしれませんが、別にそんなこともないと思います。

そして、全知全能にならなくても、「至福」を生きることはできます。

むしろ、全知全能になることを求めずにいられない心にこそ、「苦しみの根」は存在しているのかもしれません。

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