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「今ここ」に深く遊ぶことで、「時間」と「空間」は溶解する|「未来」に絶えずジャンプすることで、「今」を取り逃す構造について

◎未来にジャンプしていると、人はイライラしてきてしまう

瞑想をしていると、イライラして落ち着かなくなることがあります。

これにはいくつか原因がありますが、中級者が陥りやすいのは、
「結果を早く得たい!」という欲求に突き動かされて焦ることです。

そもそも、ある程度の期間にわたって瞑想を実践していると、集中状態の中で心地よさを感じる体験を何度かしたことがあるものです。

これは「サマーディ」と呼ばれているもので、この状態に入ると多幸感が湧いてきます。

最終的には、この「サマーディ」は日常の中にも広がっていき、呼吸と同じくらい自然なものになるのですが、中級者くらいの段階ではまだ滅多に体験できないと思います。

ですが、その心地よさのとりこになってしまうと、「早くあの感覚が来ないだろうか」と待ち構えることになりがちです。

そのため、坐って瞑想を実践している間も、ずっと「サマーディよ、早く来い!」という意識になってしまい、実践者は「今ここ」に集中できなくなります。

常に意識が「未来におけるサマーディ」にジャンプしてしまい、段々イライラしてきてしまうのです。

要は、れてくるわけです。

しかし、そうやってあせればあせるほど、かえって「サマーディ」は遠ざかっていきます。

なぜなら、「サマーディ」というのは、「今ここ」に深く定まることで、「時間」と「空間」が消失したときにこそ感じられるものだからです。

◎深い瞑想の中において、「時間」と「空間」は溶解する

たとえば、もしも「今」という瞬間に定まると、主観的には「時間」というものは消失します。

その時、当人の中には「過去」も「未来」もなくなるため、「時間」という観念が消えるのです。

在るのはただ、「今」だけです。

そして、「今」しか存在しなくなると、もはやそれを「今」として認識することさえも無意味になります。

というのも、「今」が「今」であるのは、それが「過去」や「未来」ではないからです。

それゆえ、もしも「過去」と「未来」が消えてしまうと、「今」という言い方はもうできません。

言えるのは、「ただ在る」ということだけです。

「空間」についても同じようなことが起こります。

こちらは、「空間」というよりも「世界」と言ったほうがいいかもしれません。

「ここ」という一点に深く定まることで、「世界」が消失するのです。

たとえば、普段私たちは「自分がいま日本に居て、海を越えた先にはアメリカ大陸がある」という風に思っていますが、瞑想の中で「ここ」という一点に定まると、そういった前提が吹き飛んでしまいます。

自分の目で確認できないアメリカ大陸の存在はリアリティを失っていき、今この瞬間に感じられることだけがリアリティを持って迫ってくるようになるのです。

極論をすれば、「世界」というものは幻想です。

「世界というものが自分の外側にある」と私たちは当たり前のように前提していますが、それを自分の目で一望して確認することは私たちにはできません。

私たちは「世界は今この瞬間もちゃんと存在している」と無根拠に信じ込んでいますが、それをはっきりと確かめることが私たちにはできないのです。

もちろん、「世界は確かに存在する」という「信念」を持つことは、人間社会で生きる上で重要です。

「世界は実在していない」という前提に立って生活すると、他人とコミュニケーションが取れません。

ですが、「世界は存在する」というのは、瞑想的な主観の中において消えてしまいます。

「世界の実在性」というのは、あくまで他人とコミュニケーションを取るための「便宜的な作り話」に過ぎないのです。

実際、主観の中には「世界」はありません。

もはやアメリカ大陸もなければ、ヨーロッパもアフリカも存在しません。

言い換えれば、瞑想者のにとっては、主観こそが「全世界」です。

瞑想的な主観の中心においては、「外側の世界」は消失し、「世界とは自分のことである」という意識になるのです。

◎遊びの中で子どもは「時間」や「世界」を意識しない

このように書くと、何か突飛なことを言っているように感じる方もいるかもしれません。

ですが、これは子どもの頃に夢中で遊んだ経験のある人は、誰しも体験したことのある感覚です。

実際、遊びにおいて夢中になる時、「時間」と「空間=外的な世界」は消失します。

「今」という感覚も「ここ」という実感もないまま、子どもは遊びと一体になります。

その子の主観において、「時間」や「空間」は存在しません。

一切は「ただ在るだけ」です。

そうしてやがて日が暮れて我に返ると、子どもはいつの間にか「時間」が過ぎ去っていたことに気づきます。

いえ、実際には「時間という観念の中」に戻ってくるのです。

もしも遊び続けたまま死んでしまったら、その子は永遠に「時間」の存在を感じないことでしょう。

同様に、遊びに夢中になっていると、「空間」という観念も溶解します。

遊びに夢中になっている子にとって、もはやアメリカ大陸の実在性など、どうでもよくなります。

その時は、目に見えるものや手に触れるものこそが「全世界」です。

そして、深い瞑想状態の中でも、これと類似したことが起こります。

呼吸や眉間に集中する中で「過去」と「未来」が消えていき、「そこ」や「あそこ」が意味を持たなくなるのです。

すると、そこにはなぜか「至福感」があります。

「自分は自由だ」という感覚がそこにはあるのです。

◎「至福感」こそが私たちの本性である

「時間」と「空間」というのはあくまでも、社会的に他者とコミュニケーションを取る上で必要な観念です。

実際、「時間と空間が実在する」という前提を共有していないと、他者とコミュニケーションを取ることは難しくなります。

ですが、別にそれを信じている必要はありません。

事実、瞑想者は「時間と空間というのは、便宜的な作り物だ」ということを知的に理解しています。

そのうえで、他人と話をする時は、あたかも「時間と空間が実在するかのような振り」をしてコミュニケーションを取るのです。

ただ、こういった理解は徐々に進行していきます。

最初のうち、「時間」と「空間」が溶解して「サマーディ」が起こった時、それは何か「特別なこと」のように思えるはずです。

ですが、実際のところ、「サマーディ」というのは「私たちの本来の状態」です。

「時間」と「空間」という「人為的な作り話」が意味を失って、「もともとの状態」が顔を出しているのです。

しかし、瞑想の実践を始めて間もない頃は、「時間や空間という作り話を信じている状態」のほうを自然なもののように感じていて、「時間と空間が溶解した本来の状態」のほうを超自然的で特別な状態に感じやすいものです。

この順逆が転倒すると、「サマーディ」に留まるのがどんどん容易になっていきます。

なぜなら、そっちのほうが「私たち自身の本性」だからです。

◎「待ち望む心」がある限り、「サマーディ」は決してやってこない

ただ、まだ「サマーディ」を特別視する傾向が心に残っていると、それは瞑想の実践中に内側で焦りを生み出す元になります。

「早くまたサマーディを体験したい!」という欲求となって、当人の心身を焼くのです。

結果、実践者は「未来」にジャンプしてしまい、かえって「サマーディ」を取り逃がします。

ここまで読んでこられた方は、ここにジレンマがあることがお分かりになると思います。

つまり、「サマーディ」は「今ここ」に深く定まることで「未来」と「過去」が消えた時に現れるのに、「サマーディを待ち望む姿勢」が内側にあると、「いつかサマーディがやってくる未来」がいつまでも消えずに残ってしまうのです。

なので、もし本当に「サマーディ」を求めるのであるならば、「未来にジャンプすること」そのものをやめる必要があります。

そのためにも、「サマーディ」を求める気持ちそのものが、「サマーディ」の障害になっていると理解することが大事なのです。

「サマーディ」を求めてれている状態というのは、要は自分で自分の道を塞いでおいて、一人でイライラしているようなものです。

このことの「バカバカしさ」に自覚的になることが、「サマーディ」を心身に定着させるための第一歩です。

なので、まず大事なことは「遊ぶこと」です。

「遊び」の中で目的もゴールも忘れて、今この瞬間に深く没入するなら、「サマーディ」は自然と発生します。

やがて、「今ここに留まる」ということが自然になっていくにしたがって、「時間」や「空間」という観念の重要性が低下するので、「サマーディ」は日常的に発生するようになっていきます。

ですがそれは、「目指すもの」ではありません。

そうではなくて、ただどこも目指すことなく「今ここ」で遊ぶように夢中になっていれば、徐々に起こるような変化なのです。

そうして最終的には「深い没入」は必要なくなり、「穏やかな幸福感」が持続するようになっていきます。

そうなると、人生の見え方が全く変わってきます。

しかし、繰り返しますように、それは「目指す」ということが原理的にできません。

最初、私たちにできるのは「遊ぶこと」だけです。

呼吸瞑想をしながら、自分の呼吸と戯れる。
歩く瞑想をしながら、足裏の感覚を丁寧に味わう。

そういった実践の積み重ねが、結果的に「サマーディ」を引き起こします。

それは「事の成り行き」としておのずから起こります。

そして、「サマーディ」が定着するにしたがって、当人の中で「時間」と「空間」の意味が少しずつ薄らいでいって、ますます「サマーディ」が心身に定着するようになっていくのです。

◎「時間」と「空間」という観念を捨てる必要は別にない

ですが、先ほども書きましたように、別に「時間」と「空間」という観念を捨てる必要はありません。

他人とコミュニケーションを取る時だけ、「そういったものが実在するような振り」をすればいいだけです。

逆に、もしも「時間」と「空間」という観念を全く捨て去ってしまうと、社会の中で生きていくことはできなくなってしまうでしょう。

「時間と空間という観念は虚構である」と理解したうえで、「世の中のほとんどの人は時間と空間が実在すると信じている」ということも自覚しておく。

それが、ひとまずこの身体を与えられて生きている間に必要な、一つの処世術となります。

◎終わりに

いずれにせよ、瞑想中に結果を焦ってイライラするようであれば、「自分は今、自分で行く手を塞いでいる」と気づくようにしてみてください。

今はそう感じられなかったとしても、よくよく観察すればそれがわかるはずです。

「求める心」が焦りを生み、焦るからこそ実践が阻害されてしまう。

逆に、「求める心」が沈静化した時、「求めていたもの」はもうそこに在ります。

そこには逆説がありますが、「自分の邪魔をしているのは自分自身だ」と自覚するなら、内側の矛盾は徐々に解消されていくであろうと思います。

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