「瞑想をして何の意味があるのだろう?」
そんな疑問に憑りつかれたことはありませんか?
瞑想の実践が順調に進んでいくと、どこかの段階でこの問いに囚われるようになっていきます。
そのような事態は、実際に内側が静かになってきて、特に努力しなくても思考しないでいられるようになった時に起こりやすいです。
人によっては、「内側が静かになったなら、それは望ましいことじゃないか」と思うかもしれませんが、当人にとってはそうとも限らないのです。
そもそも、瞑想を始めたての頃は、思考があまりにもうるさすぎて、とても静かにしていられません。
だからこそ、「この思考を何とかして静めなければ」という目的意識も持ちやすいものです。
そして、「思考が静かになった時、きっと何かが起こるに違いない」と期待するわけです。
しかし、実践を積み重ねることによって、実際に内側に静寂が訪れるようになると、当人はそれに退屈してきます。
なぜなら、「静かになった」というだけでは、特に何も変わらないからです。
瞑想を始めたばかりの頃は、「無思考」というのは一種の「憧れ」として機能します。
「いつか自分も無思考の味わいを体験するんだ!」という気持ちが、実践のモチベーションにもなってくれることでしょう。
ですが、実際に「無思考」が実現して、それが「当たり前のもの」になってしまうと、当人はすぐにうんざりしてきてしまうんですね。
「確かに内側が静かになったけど、だから何なんだ?」と思ってしまうのです。
以前、思考や感情に巻き込まれていた頃は、それはそれで刺激がありました。
考え事に夢中になったり、感情に突き動かされたりして、心が絶えず動いていたからです。
そこには「不快な感覚」もあったでしょうけれど、反対に「未来への期待」もあったはずです。
たとえば、何かを追い求めてジタバタする時、人は「なかなか達成できない」というもどかしさに苦しみもしますが、「いつかきっと達成するんだ!」と未来を想像することで、心に燃料を与えてもいるものです。
しかし、もしも「無思考」が実際に達成されると、そうした運動は終息してしまいます。
もう「行く先」はなくなってしまい、当人は「今ここ」にただ留まるだけです。
以前はそこに努力が伴っていたのに、今や努力すら要りません。
それはかつて「理想」として追い求めていたものであり、自分を走り続けさせていた「原動力」でもあったものです。
しかし、それはもう実現してしまい、それにもかかわらず、人生は特に大きく変わらないのです。
「いったいこれ以上どうしたらいいんだ?」
「ひょっとしてこれで終わりなのか?」
当人の中では、そんな疑問が浮かんできます。
確かに、その人自身は思考や感情に翻弄されなくなったわけですが、それはある意味で「快でも不快でもない状態」です。
要は「何でもない状態」なわけです。
そこには特に「手応え」と呼べるものがなく、「何かをしている」という実感もありません。
まるで「味のしない料理」を食べ続けているかのように、当人は「味気なさ」を感じて愕然とします。
「これがかつてあれほど強く求めていた『瞑想状態』というものなのか?」
そんな風に感じて、自分のしていることすべてがすっかり虚しくなってしまうのです。
これは、探求の世界で「渇いた知識」と呼ばれているものです。
瞑想の実践をしていくと、人はどこかの段階で、この「ドライ・ナレッジ」に遭遇します。
「瞑想をしたところで、いったい何の意味があるんだ?」と思ってしまうわけですね。
実際、瞑想そのものには意味がありません。
「思考を静かにすること」自体に意味があるわけではないのです。
そもそも、どうして内側を静かにする必要があるのでしょう?
それについて考えたことがありますか?
「なんだかわからないけれど、静かにするように指導者からは言われるし、自分でも内側がうるさいように感じるから、とにかく静かにするために努力する」というのが、おそらくほとんどの瞑想初心者の考えのはずです。
あまりにも「静かにすること」そのものが大変な難事なので、「そもそもどうして静かにする必要があるのか?」ということについて考えるところまで、多くの実践者は頭が働かないのです。
私もまた、かつてはそうでした。
必死で「内側を静かにしよう」と励み続け、ある時にほとんど努力せず「無思考」に留まれるようになったのです。
そして、「だから何なのだろう?」と感じました。
「これからどうしたらいいのか?」ということが、急にわからなくなってしまったのですね。
ですが、別にそれ以上「するべきこと」はありません。
ただ「静かにしたまま待っていればいいだけ」です。
そうすると、どこかの段階で「気づき」が起こります。
それは、「自分は自我ではない」という気づきです。
思考が沈静化し、感情が沈静化し、「自我」が沈黙する中で、ある瞬間に、突然「自我」が客体化してしまいます。
それまでずっと「自分自身」だと思っていた「自我」が「観られる対象」になってしまうのです。
ずっと「自我こそが自分だ」と感じていたのに、「自我を観ている者」が存在することを人は知ります。
しかし、それは「知る」という言い方で表現できる類いの現象ではありません。
なぜなら、「知る」という言葉を使う場合、そこには「知る者」と「知られる対象」が存在する必要があるからです。
例えば、何か物を見る場合、私たちは「見る者」となって、目の前にある物体は「見られる対象」となります。
向こう側に「対象」があり、こちら側に「自分」がいて、両者は分離しているわけです。
「知る」という場合もそれは同じです。
私たちは「知る者」となり、知識や認識の対象が「知られるもの」となり、「知ること」が両者の間に橋をかけます。
しかし、「自我」の向こう側にいる「全てを観ている者」について自覚する場合、その「観ている者」こそが「自分」です。
「そうか、『本当の自分』は自我ではなくて、その自我さえも含んだ一切を『ただ観ている者』だったんだ」という気づきが起こる時、私たちは自分で自分に気づくだけなのです。
それは言ってみれば、眼球が眼球自体を知覚するようなものです。
そこにおいては「見る者」は存在しますが、「見られる対象」は存在しません。
それを「見る」という動詞で説明することは誤解の元です。
なぜなら、一般的に「見る」と言った場合、「見る者」とは別に、「見られる対象」が存在するものだからです。
「自己知」というものも同じ構造をしています。
そこにおいて「知る者」は一切をただ観ているだけです。
そして、その「知る者」に気づいているのも、「知る者自身」です。
そこには「知る者」だけがいて、「知られる対象」が存在しません。
「自我」だったら対象化できるのですが、なにせ「知る者」は「自分自身」なので、それを対象化して知ることは決してできないのです。
しかし、「『知る者』こそが『本当の自分』だったのだ」という事実は、感覚的には明確です。
「自我は自分ではない。なぜなら、その自我さえも対象化して観ている者が確かにいるのだから」と、当人は感覚的にわかるのです。
それまではずっと「自我」と一体化していて、そのことに違和感を持つことさえなかったわけですが、一度「自我」と「観る者」との間に隙間ができると、その「分離の感覚」がわかるようになります。
「自我は自分ではない」ということが、頭の思考ではなく、感覚的な実感を伴って理解されるようになるのです。
そして、この理解が起こることによって、瞑想の実践は次のフェーズに進みます。
つまり、「自我」ではなく、この「観る者」のほうに軸足を移していく修行が始まるのです。
ここから先は、もうそれ以上「静けさ」を深める必要はありません。
それよりも、その「静けさ」の中で自覚した、「自我は自分でない」という感覚を練りこむ修行のほうが重要です。
しかし、その修行を始めるためには、まず「『観る者』こそが『本当の自分』だったのだ」ということを、感覚的に理解する必要があります。
頭でそのように考えるのではなく、体験的にわかっている必要があるのです。
そして、この「感覚的な理解」を起こす上では、内側が静かになっているほうがずっとよいです。
なぜなら、思考や感情に巻き込まれて我を失っていると、「自我を対象化して観る」などということはとてもできないからです。
しかし、だからといって「自我を対象化して観察しよう」と思っていても、上記のような気づきは起こりません。
というのも、「観察しよう」とするのは、常に「自我」だからです。
それゆえ、「観よう」と思っている限り、「自我は自分ではない」という気づきは起こりません。
その気づきは、意図的に起こすことができないのです。
そもそも、意図的に起こす気づきは、全て「自我」に属するものです。
その「自我」自身が沈黙し、「気づこう」という意図も作為もないまま、ただ静かにしていると、どこかのタイミングで「気づき」は勝手に起こります。
それは、瞑想中に思考や感情に巻き込まれていたところから、「ハッ」と気づいて戻ってくる時と同じです。
瞑想中、思考や感情に巻き込まれていても、私たちはあるタイミングで「ハッ」と気づいて戻ってきます。
別に、「気づこう」と思っていたわけでもないのに、勝手に「気づき」が起こるわけです。
同様に、「自我は自分ではない」という気づきも、勝手に起こります。
それを意図的に起こすことはできません。
なぜなら、「意図的に気づきを起こそう」と思っている限り、「自我」が沈黙しなくなってしまうからです。
そうして、かえって「自我との一体化」が強化されてしまい、「自我」と「観る者」との間に、隙間ができなくなってしまいます。
大事なことは、「ただ静かにしていること」です。
そうすれば、「気づき」は勝手に起こります。
そして、その「勝手に起こる突発的な気づき」のための準備として、「内側を静かに保つこと」が意味を持つのです。
瞑想において思考を静めることが奨励されるのは、ひとえにこのためです。
別に、「無思考」そのものが目的なのではありません。
本当の目的は「勝手に起こる気づき」です。
そのための準備として、「静かにする」ということが必要になるというだけの話なのです。
そして、もしも「自我は自分ではない」ということを悟ると、その人は徐々に世界や人生によって束縛されなくなっていきます。
なぜなら、世界や人生に意味や価値を与えていた張本人こそ、「自我」だったからです。
それゆえ、もしも「自我は自分ではない」ということが理解できると、世界や人生についてあまり深刻に考えなくなっていきます。
むしろ、「それらは幻のようなものだ」と、当人は感じるようになっていくはずです。
それと同時に、内側では「静かな幸福感」が芽生え始めます。
かつて「ドライ・ナレッジ」の中では、「快でも不快でもない状態」を無味乾燥に感じたものですが、その「何でもなさ」に心身が深く馴染んでくると、むしろそこに「何でもない清々しさ」が感じられるようになるのです。
これを、インドの古い哲学では「アーナンダ(至福)」と呼んできました。
そして、「何でもないこと」の中で感じられる、この「穏やかな幸福感」が心身に芽生え始めることで、「ドライ・ナレッジ」は消えるのです。
なぜなら、「静かにしていても何の意味もないように感じていたけれど、別にそんなことはなかったんだ」と、当人は深く実感できるようになるからです。
かくして、「静かにしていること」は、「気づき」と「幸福感」の源泉となっていきます。
かつては理由もわからないまま「静かにすること」を追い求めていたわけですが、この段階に至ることで、「静かにしている意味」が自分ではっきり理解できるようになるわけです。
それゆえ、この段階になると、人は自分から進んで「静かにしていること」を求めるようになっていきます。
なぜなら、そうしていることで世界や人生による束縛から「自由」でいられるし、「穏やかな幸福感」を感じることもできるからです。
「修行」というと、何か「苦しいことを我慢してする」ということのように思っている人もいますが、実際にはそんなことはありません。
人は「静かにしていること」の意味を自分自身で深く理解すると、たとえ他人から止められても、自分から進んで修行し続けるようになります。
なぜなら、そこにこそ「自由」と「幸福」があるということが、その人にはもう十分わかっているからです。

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