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「探求」が終わりを迎えた時、その人の「本当の旅路」が始まる

突然ですが、最近このブログを読んでいる方は、どんな人が多いのでしょうかね?

以前はブログで探求に関する記事を中心に書いていたので、探求者から読まれることが多かったと思うのですが、最近はYouTubeからも少し人が流れてきているので、また読者層が変わってきているようにも感じます。

ただ、それでもやはりブログに出入りしている人は、以前からのコアな読者のほうが多いのではないかと思うので、今回は探求についての記事を書いてみようと思います。


あなたは「探求が終わる」ということを、どういうことだと思っていますか?

「探求が終わったらもう何もすることがなくなって気楽になれる」と思っているでしょうか?

確かに、探求が終わったことで気楽になって、そのまま特に何もしないで過ごす人もいるでしょう。

ですが、ある意味で「探求の終わり」は「本当の旅路の始まり」です。

そもそも探求が終わっても成長そのものは続きます。

「探求の終わり」というのは「成長の終点」のことではないのです。

探求が終わっても「新たな気づき」はありますし、人間的にも霊的にも成長はずっと続いていきます。

人によっては、「悟った人」のことを「人間的に完成した人」だと思っているかもしれませんが、そんなことはありません。

そもそも「悟る」ということは、何か「特別な情報」が頭の中に入ってくることではないので、たとえ悟っても、それによって「全知全能」になったりはしません。

私だって、知らないことは山ほどありますし、できないこともたくさんあります。

ただ、悟るとそういったことを特に問題視しなくなるのです。

「こうでなければならない」という思い込みが手放されるので、「できる・できない」「知っている・知らない」という二元論にこだわらなくなり、自分のことを「そのまんま」に受け入れるようになるわけです。

それによって当人は「人格的に完成する」のではなく、「本来のその人自身」になっていきます。

つまり、もしも「社会的な教育」によって歪められていなければそうであったであろう状態になるのですね。

そういう意味で、覚者は「一個の野生動物」のようでもあります。

当人は、もはや「こうすべき」という観念を持たないので、「したいこと」をして「したくないこと」はしなくなります。

腹が減ったら食べ、眠くなったら眠る。

そんな風に、命そのものが望むままに生きるようになり、そのことを当人は罪悪視したり問題視したりしなくなるのです。

そういうわけで、私は探求を終えましたが、人間的には「未熟な部分」を多く抱えています。

世の中には私より物知りな人もいれば、私より高いレベルで人格が統合されている人もいるわけです。

でも、私はもうそれを問題視していません。

私自身が今現在どれだけ人間的に未熟であろうとも、それを肯定も否定もしようとは思わないのです。

それは「単なる事実」なので、「まあ、自分の今のレベルはこんなもんなんだな」と思うだけです。

そのうえで、瞑想的に暮らしていると勝手にいろいろな気づきが起こるので、当人は自然と成長していきます。

悟った後も、自分の歩幅でマイペースに歩きながら、成長は続いていくのです。

むしろ、「今の自分のレベル」に対するこだわりがなくなるので、覚者は常にあらゆるものから学ぶようになっていきます。

「自分はもう成長した」というおごりから歩みを止めることもなく、「自分はあまりにも未熟だ」と思って自己卑下することもなく、淡々と気づきを積み重ねていき、毎日のように成長が起こるわけです。

それゆえ、「悟った人」の成長スピードは異常に速いです。

歩みを止めようとする「リミッター」が外れてしまっているので、成長が自然発生し始めるのですね。

だから、悟った時点ではたとえ未熟であったとしても、みるみるうちに成長していったりもします。

私自身、去年の年末に探求を終えた時点から今までに、非常に多くの気づきや成長を体験できました。

実際、こうしてブログを始めてまだ4カ月半くらいですが、私としては10年分くらいに匹敵する密度の時間を過ごした実感があります。

たとえば、ブログを始めた最初の時点では、まだ本名も明かしていませんでしたけれど、その後、名前も顔も公開しました。

「自分の素性を明かしたうえで、自分の言葉の責任をきちんと背負おう」と思ったからです。

その後、本を書くことにも挑戦し、約一か月かけて8冊本を出しました。

本を書くことを通じて、多くの学びが得られましたし、執筆だけでなく、編集や校正のスキルも身に着いたと思います。

そのあとはYouTubeに進出して、「カメラの前で話す」ということに挑戦しました。

ブログでは顔写真こそ公開していましたが、「カメラの前で喋る姿をさらす」ということは、最初のうち、また違ったプレッシャーともなっていたものです。

そして、リアルやネットで瞑想会を主催するようにもなり、参加者の人たちの人生にもかかわるようになっていきました。

それぞれの参加者の過去の話を聞いたり、現在の課題を一緒に整理していく中で、場を主宰するスキルも日々磨かれていますし、少しずつ参加者との間で信頼関係を築けてきていると思います。

そんな具合で、この2カ月ほどは、YouTubeや瞑想会で姿をさらし、文字通りの「肉声」を届ける中で、日々試行錯誤しながら発信を続けてきました。

そうすることで、ずいぶん度胸もつきましたし、「話すスキル」も身に着いたと思います。

実際、YouTubeを始めたばかりの頃は10分も話すとネタが尽きてしまっていたものですが、今は毎日のように1時間のライブをしても、話が尽きずにノンストップで喋り続けられます。

そして、そんな私の話を聞いて足を止めてくれる人もいて、中には喜んでくれる人もいたりします。

そんなわけで、おっかなびっくり一人きりで文章を書いていた活動当初とは全く違う次元に、今の私は立っているのです。

でも、あいかわらず「これで成長が終わった」とは別に思っていないので、今後もまだまだ「伸び盛り」です。

「気づき」は日々起こり、「新たな出会い」が次の学びをもたらしてくれます。

そして、私はそんな「終わりのない旅路」を深く楽しんでいるわけなのです。

なので、「探求が終わったら、もうそれ以上成長することはない」と思うのは誤解です。

むしろ、探求が終わることによって、「真にその人らしい成長」が始まります。

「自分だけの成長」や「自分だけの活動」が始まり、そうした「ユニークな生き方」が周りの人を自然と感化して変えていくのです。

そういう意味で、「悟り」というのは「ゴール」ではありません。

そうではなくて、「悟り」というのは「ゴールそれ自体が消えること」です。

「ここまで行ったら終わりだ」という観念が消え、当人は「終わりのない旅路」を辿り始めます。

「成長」に限界はなくなり、「気づき」はどこまでも深まっていきます。

だから、私は「悟り」というのは「覚悟」の別名でもあると思っています。

そもそも多くの人は、「早くゴールして楽になりたい」と思っているものです。

それゆえ、「ゴールなんてそもそもない」ということをなかなか認められないのです。

でもそこで、あえて「ゴールのなさ」を受け入れて、「自分の人生」を全面的に背負い、それをどこまでも生き続けて行くとなった場合、「覚悟」が試されることになります。

逆に、もしもまだまだ「未熟」だったとしても、「覚悟」さえ決まれば「ゴール」は消えます。

そして、その「ゴールのなくなった人生」は、それ自体で完結した「意味」を帯びるようになっていくのです。

あなたは「ゴールのない人生」に耐えられそうですか?

「どれだけ行っても終わりがない」という事実を受け止めることができるでしょうか?

もしその問いに全面的に「イエス」と答えられるなら、あなたの探求はもう終わっているのかもしれません。

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