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自由

エッセイ

「成長する意志」を挫ける者はどこにもいない|「自分の責任」を自覚する人は「成長する自由」を生きられる

今回は、皆さんにとってちょっと「耳の痛い話」をします。「ちょっと」どころか、人によっては「激痛」になるかもしれません。私としては、特定の個人を攻撃する意図は無いですが、人によっては読んでいて苦しくなるかもしれないので、読む人はあらかじめ覚悟...
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エッセイ

「初心者」と「熟練者」はよく似ている|音階の螺旋階段をどこまでも昇り続ける「無垢」への道

先ほどアップした記事の中で私は「瞑想状態が深まると呼吸というのは自然と静止する」と書きました。【関連記事】「心の静止」は「呼吸の静止」|もしも「心の動き」がなくなると、呼吸と共に世界が止まるこれは、「心の動き」と「呼吸のリズム」の間に相関関...
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エッセイ

「こうでないといけない」という想念を持ってはいけない?|「根源的な欲求」に定まって生きる

私はよく「『こうでないといけない』という想念がない状態が『自由』である」と書いています。ひょっとすると、それを読んだ人の中には、「『こうでないといけない』という想念を持ってはいけないんだ」と思う人もいるかもしれません。ですが、実はこれが「罠...
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エッセイ

「偽装された心」に惑わない|「自分の心の声」に従うことは、「束縛なく生きる」ということ

私はよく、「自分の幸福を育てるために、味わって食べることを実践してみましょう」とかいったことをよく書きます。【関連記事】「愛を放射する太陽」としての生き方|「幸福」とは、「ゴール」ではなく「原点」であるこうした記事を読んだ人の中には、実際に...
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エッセイ

瞑想とは、自己を「寺院」とした「祈り」である|「存在」によって生かされる時、人は「自身の天命」を知る

最近は言わなくなっていましたが、私は一時期、「瞑想」のことを「祈り」と表現していたことがありました。もともと、この表現は、カビールという北インドの神秘家から借りていたものです。カビールは「織工しょっこう」という職業の人で、いわゆる機織はたお...
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エッセイ

「覚者」とは「何も書かれていない本」である|「自由」だけが、「全ての覚者」の共通点

あなたは「悟った人」というのは、どういう人のことだと思いますか?「悟った人」のことを、「覚者かくしゃ」と言ったりもしますが、実のところ、「覚者の定義」は人の数だけあります。実際、「極めて高潔な人格を持った人こそが覚者だ」と思っている人もいれ...
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ブログ記事

探求の後半戦における「無努力の実践」について|人は恐れゆえに「努力」にしがみつく

私はよく、「探求の前半戦」とか「探求の後半戦」とかいった言い方をします。「前半戦」と「後半戦」の境目は、禅宗で言うところの「見性けんしょう」を得ることです。これは言い換えれば、「自我」の向こう側にいる「本当の自分」を初めて自覚することと言え...
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エッセイ

私が「ルール」を作らない3つの理由|人は「教え」からではなく「自分の経験」から学ぶ

私は「こういう時はこうするように」とか、「この場合はこうしないといけない」とかいった形で、「規則」や「戒律」みたいなものはなるべく書かないようにしています。そこには主に以下の三つの理由があります。そもそも私に「人を言う通りにさせたい」という...
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エッセイ

かつて、「ダンスの師」の背中から学んだこと

ついさっき、フェイスブックを見ていたら、高校時代のブレイクダンスの恩師のアカウントを見つけました。吉川太ふとしさんという方なのですが、彼は自身の師から「胴体力」という、少林寺拳法とヨーガをミックスして作られた技法を受け継ぎ、これを若者たちに...
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ブログ記事

【新作の内容紹介】「心を生きる幸福論」の原稿が完成しました

この一週間くらいかけて書いていた「心を生きる幸福論」の原稿が完成しました。今回はなかなか「全体のビジョン」が来なかったので、あえて書かないでしばらく寝かせておいて、代わりにここ数日はブログの更新をメインに執筆していました。ですが、昨日になっ...
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