瞑想の実践をしていくと、どこかの段階で「自分という実体はどこにもない」と気づきます。
はっきりとした実体を持った「自己」というのは存在せず、「これこそが自分だ」という形で明確に提示できるものがないことに気づくのです。
その結果、「今まで自分というものが明確に存在すると思っていたけど、そういうわけではなかったんだ」と思って、肩の力が抜けてきます。
物心がついて以降、多くの人はいつも「自分」を必死で守り続け、また別な時には、何とかして「自分」をもっと評価してもらえるように悪戦苦闘して生きてきたはずです。
ですが、「そういったことに確かな基盤はなかったんだ」と不意に気づいてしまう。
それゆえ、このことに気づいた人は、「自分」を必死に守るために嘘をついたり逃げ隠れしたりする必要を感じなくなっていきますし、たとえ誰かから評価されても、そこにあまり重要な意味を見出さなくなっていくのです。
探求の世界でも、「あなたは存在しない」とよく言われます。
「自分という実体はない」ということにまだ気づいていない段階においては、「そうなんだろうか?」と半信半疑かもしれませんが、これは本当のことです。
とはいえ、まだ半信半疑であるのなら、それを無理に信じる必要はありません。
なぜなら、結局それは、自分自身で確かめない限り意味のないことであるからです。
ただ、人によっては「あなたは存在しないのだから、何をしたっていいのだ」と語る人もいます。
「物事をコントロールする主体」というのは幻想であり、全ては起こるべくして起こり、起こる必要のないことは起こらない。
「だから、何もかも任せきってしまって、好きに生きたらいいのだ」と、こういった人たちは語るのです。
ただ、私はそういう言い方は少し乱暴すぎるのではないかと思います。
確かに「自分」という実体は存在しません。
私たちが「自分の人生の主人公」だと思っている人間には、「確固とした基盤」がないのです。
それゆえ、人生をコントロールしようとすることは、どこか滑稽なことに感じられるかもしれません。
「全ては起こるべくして起こるのだ」と言えば、そう言えるかもしれません。
ですが、だからと言って「何をしてもいいのだ(それはどのみち起こるべくして起こることだったのだから)」と告げるのは、さすがに無責任ではないかと思います。
なぜなら、たとえ「自分」という実体がないのだとしても、「人生をより良くする方向性」そのものが存在しないわけではないからです。
「自分も世界も幻なのだから、好きに生きたらいいのだ」と言ってみたところで、本当に好き勝手に生きていたら、どこかで人生が行き詰ってしまいますし、場合によっては社会に居場所がなくなります。
「全ては幻」だったとしても、私たちは身体の苦痛を感じ続けますし、心は反応を続けるものです。
それにもかかわらず、「そんなものは幻なのだ」と言ってみたところで無意味でしょう。
なので、私はたとえ「実体のあるものはどこにも無い」と悟ったとしても、人生を「より良いもの」にする努力は、続けていくほうが望ましいと思っています。
逆に、「しょせん全ては幻のようなものなのだから好きに生きればいいのだ」と語る人は、そういった努力を放棄して、放縦に走って身を持ち崩してしまうでしょう。
そしてまた、その言葉を聞いた周囲の人たちにも、「全ては無意味なのだ」という厭世的な気分を根付かせることになりかねません。
私はそれを「良くないこと」だと思っています。
私は、「身体が存在すること」や「社会の中で生きていること」を否定も肯定もしません。
ある意味で、身体も社会も「一種の幻」のようなものです。
ただ、人生が「幻」のようなものだったとしても、だからといってそれを「どうでもいいもの」として投げ捨ててしまうのは乱暴だと思います。
人生という「たまさか与えられた夢」の中で、私はそれをなるべく丁寧に生きたいと思っていますし、どんな風に生きるか考えることについて「どうでもいい」とは思わないのです。
私は「人生というのは夢のようなものだから、あんまり気負わなくていい」とは思いますが、「人生はどうでもいいものだから、弊履のごとく捨てていい」とは思いません。
人生には人生の価値があると私は思います。
ただ、「ノンデュアリティ」を説く人の中には、どこか「自暴自棄」になってしまっているように感じられる人もいるので、「そういう態度は、自分にも周囲の人にもあまり良い影響を与えないのではないか」と個人的には思っています。
そういえば、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダはある時、「真理とは何ですか?」と聞かれて、こう答えたと言います。
「それは役に立つものだ」
ゴータマにとっては「正しいかどうか」ということよりも、「役に立つかどうか」こそが大事だったのでしょう。
「この世の全ての物事には実体がない」という認識は、確かに「正しい」です。
でも、そのことを認識した結果、自暴自棄になって人生を投げ捨てるように生きるなら、それは当人の役に立っていないことになります。
つまり、ゴータマに言わせれば、それは「真理」ではないのです。
大事なことは「役に立つかどうか」だと思います。
「全ては空である」という「正しい認識」を基礎にして、人生をより良く生きることができるかどうか?
私は、そういった視点をなるべく忘れずにいたいと思っています。

コメント