瞑想の実践によって、実践者は「主観性」をひたすら掘っていくことになります。
そこにおいては、「自分の主観的な体験」が重視されるのです。
瞑想の実践は、あくまでも「主観性を深めることで人生を変えていく道」です。
ただそれは、客観的な証明が難しいものでもあります。
瞑想の実践によって何らかの「意味深い主観的体験」をしたとしても、そこには再現性がなかったり、誰にでも理解できる形で提示できなかったりするのです。
しかし、だからこそ、「自分は都合の良い妄想にハマっていないか?」と慎重に検討する姿勢が大切になります。
「主観的な体験」についてすぐに評価したり判定したりせず、「この体験的な理解は自分の人生をどう変えるだろうか?」ということを冷静に見ていく必要があるのです。
たとえば、瞑想の中で「世界との一体感」を体験したとします。
それによって一時的に多幸感を感じることもあるかもしれません。
ですが、そこですぐにこの体験を肯定し、「自分は真理を悟ったんだ!」とか「自分は特別な境地に到達した!」とかいった風に考え始めると、「この体験の意味」を落ち着いて検証できなくなります。
確かに、瞑想を実践していると、時として「世界との一体感」を感じることはあります。
ですが、それがいったい人生をどう変えてくれるのでしょうか?
もしもその「一体感」を心理的なベースにすることで恐れや不安が軽減するのであれば、人生はより良くなっていくかもしれません。
「自分はこの世界の一部なのだ」という感覚が、孤独感を弱めたり謙虚さを育ててくれたりするのであれば、その体験は人生をより良くしていくうえで有効に機能するでしょう。
しかし、この体験を足掛かりにして「自分は特別な体験をした選ばれし人間なのだ」という風にエゴが増長し始めるなら、むしろ人生は行き詰っていきます。
そのとき当人は、「自分と世界は一つである」という主観的な理解を、エゴのための餌にしてしまっているのです。
そうなると、「自分は世界と一つである」という感覚は、「自分にとって都合のいい妄想」として機能し始めます。
おそらくそれによって当人はますます「自分の主観」にのめり込んでいき、その妥当性と有効性を慎重に検討できるだけの冷静さを失っていってしまうでしょう。
なので、もしも瞑想の実践の中で「意味深い主観的体験」をした場合には、その妥当性と有効性について絶えず検証する姿勢が大事になります。
自分は結局のところ「都合の良い妄想」を育てているだけではないのか?
人生を変えるつもりが、かえって停滞させているのではないか?
そういったことを落ち着いて自問していく必要があるのです。
そういう意味で、瞑想の実践は「科学的」に進めていくのが王道です。
一般的な科学は「客観的な事実」を積み重ねて検証していきますが、瞑想においては「主観的な体験」を積み重ねては、その妥当性と有効性を検証していきます。
「この主観的体験は、本当に自分の人生をより良いものへと変えるだろうか?」ということを、繰り返し自問するわけです。
そして、そのような検証と自問自答のプロセスそのものが、実のところ、その人にとっての瞑想の実践でもあります。
気づかないうちに「エゴの肥大化」にハマっていないかどうか絶えず確認し、「主観的な感覚」に飲まれて自制を失わないよう、距離を取って観察できるだけの覚醒を保つ。
これを瞑想と言わずして何と言いましょう?
なので、「エゴの肥大化」の罠にハマって人生が停滞してしまっている場合、
「その人は瞑想の実践を放棄している」と私は見ます。
実際、真摯に瞑想を実践している人ほど、「エゴの誘惑」に対していつも警戒を怠らないものです。
ただ、私たちは多くの場合、他人に騙されることには警戒しますが、自分によって騙されることに対しては警戒心が緩みがちです。
しかし、私たちは他人よりもまず自分自身にいつも欺かれています。
そのことに対する危機感を失わないでいられれば、瞑想の実践を安全に続けていくことはそう難しくないと思います。
そのうえで、「この主観的体験は確かに自分の人生をより良く変えてくれている」ということが十分に実感できたなら、その理解を足場にして、次の実践を積み重ねていきます。
あくまで「科学的な態度」でもって、「一つの理解」を足場にして「次の実験」を開始するわけです。
もしもあなたが瞑想の中で何か「特別な主観的体験」をすることがあったなら、その妥当性と有効性を慎重に検討するようにしてみてください。
その体験は、本当にあなたの人生を「より良く」しますか?
「自分の体験」について意味づけをする際には、それが本当に「良いもの」と言えるかどうかを確かめてからでも遅くはないと、私は思います。

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