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「弱さ」とは、「自分の弱さを認められない」ということである

◎人は「自分の弱さ」をなかなか直視できないものである

先日のライブ配信で、「弱さ」というものが話のテーマになりました。

「『人間の弱さ』というものは、『自分の弱さを認められない』という仕方で現象する」

これは、私のかつての合氣道の師匠が常々言っていたことです。

そして同時に、私自身もずっと痛感し続けてきたことでもあります。

実際、私たちは自分の中にある「弱さ」を直視することが難しいものです。

たとえば、私たちは自分の中にある「脆さ」や「愚かさ」や「卑劣さ」などを、なかなか認めることができません。

「自分ってそういうところがあるよね」とは思えなくて、どうしても取り繕いたくなってしまいます。

しかも、往々にしてそういった「取り繕い」は無意識におこなわれます。

自分では取り繕っているつもりもないままに、私たちはついつい見栄を張って、「強い人間の振り」をしてしまうものなのです。

◎自己保身のために「嘘」をつき続けた過去の私

たとえば、自分を大きく見せるために「嘘」をつく人がいます。

「自分は本当はすごい人間なのだ」という見せかけを作ろうとして、ついつい「嘘」をついてしまうのです。

当人が「嘘をつきたい」と思っていなくても、無意識に「嘘」をついてしまう。

なぜなら、そうしないとその人は、「自分の足場」というものがガラガラと崩れてしまうように感じられるからです。

でも、「嘘で塗り固めた足場」が頑丈であるはずがないので、「嘘」を積み重ねれば積み重ねるほど、その人の心は不安定になっていきます。

かく言う私も、過去には見栄を張って「嘘」をたくさんついていた時期がありました。

当時は、いろいろな本から知見を借りてきてネット上に文章を書いていたのですが、私はそれらの出典を決して明かさず、「全部自分一人で考えたのだ」と周囲には言い張っていたのです。

本当は「他人の受け売り」をしていただけだったのに、私は自分のことを大きく見せたくて、「これらの知識の源泉は自分の中に在る」と偽って、情報発信をしていたわけですね。

それは、「知識の本当の源泉」に対するリスペクトに欠ける行為だったと思いますし、「読者のことを騙している」という意味では、読み手へのリスペクトも欠けていたと思います。

でも、私にはどうしても「本当のこと」が言えませんでした。

なぜなら、もしも「本当のこと」を言ってしまったら、人々が自分の元を離れていってしまい、「独りきり」になってしまうように思えたからです。

私は必死で「自分はすごい人間なのだ」という見かけを作ろうとしていました。

そして同時に、いつ他人から「この人は嘘を言っている」と見抜かれないかと、ビクビクしてもいたのです。

しかし、私はそんな「内情」を誰にも明かすことができませんでした。

自分がつい見栄を張って「嘘」をついてしまうということ。
そして、その「嘘」がバレないかどうか気になって、いつも怯えながら文章を書いていること。

それらを私は、全部自分の中に隠しておかなければならなかったのです。

しかも、こういった全ては、私にとって「自己保身」のためにのみおこなわれたことです。

つまり、当時の私は、読者のことなんてまるで考えていなかったのです。

私の頭の中にあったのは、「どうしたら他人から良く思われるか?」ということばかりで、読み手が利益を得るかどうかについては、全く考えていなかったわけです。

私は自分を守るために「嘘」をつき、その「嘘」を守るためにさらに「嘘」を重ねていきました。

そうして、どこかの段階で私は「自分の嘘」を抱えておくことができなくなり、過去に投稿した文章を全て消しては失踪することを、何度も繰り返していたのです。

◎過去の私も、必死に生きようともがいていた

当時の私は、自分の中の「虚栄心」を認めることがどうしてもできませんでした。

「自分は見栄を張ってなどいない」と思いたがっていましたし、「自分は本当はすごい人間なんだ」と信じたがっていたのです。

しかし、「弱さ」は内側から徐々に溢れてくるようになり、私の意識を侵食していきました。

「自分は本当は弱くて卑劣な人間なのだ」という感覚が、私の胸を苦しめるようになっていき、私はその痛みから目をそらそうとして、書いた文章を消しては、人々の前から逃げ続けたのです。

過去の私がいかに「自分を守ること」しか考えていなかったか、おわかりいただけますか?

それほどまでに、当時の私は「弱く」、それゆえに深く苦しんでいたわけですね。

とはいえ、別に私は当時の自分のこと「断罪」しようとは思いません。

その頃の私はまだ多くの「課題」を抱えていて、それに圧倒されていましたし、心はどこか欠けたままで、「満たされた感覚」を知りませんでした。

そんな状態で、「自分を守らず、他人のことを優先して考える」ということは、なかなかできないものです。

しかし、過去の私は、「自分はそんなことさえできない人間なのだ」と思ってますます自分のことを責めました。

そして、そんな「自分の弱さ」を自分に対して誤魔化すために、私はひたすら「嘘」をつき続けていたわけなのです。

本当に、「苦しい時代」だったと、今でも思います。

◎「弱さ」を思い切って受け入れてみたら、「嘘」をつかなくてよくなった

とはいえ、今はもう「自分を守るための嘘」をつく必要は感じなくなりました。

自分のことについては何でもオープンにしていますし、出典についてもその都度「これは誰それが言っていたことだけれど」と断りを入れたうえで、「自分の考え」を述べるようになっています。

逆に、今は「他人を成長させるための嘘」をつくようになりました。

たとえば、「この人にはあえて『勘違い』をしてもらっておいたほうが、当人の歩みが促進されそうだ」と思ったら、私はけっこう平気で「嘘」をつくことがあります(もちろん、その人が「ゴール」まで到着したら種明かしをしますが)。

なので、私は相変わらず「嘘つき」なままです。

私の言葉のどれが「嘘」なのかは秘密ですが、いずれにしても、「自分を守る必要」を感じなくなって、今は心がすっきりしています。

じゃあ、それだけ私は「強く」なったのでしょうか?

どうなんでしょうね?

少なくとも、「強くなった」という実感みたいなものはほとんどありません。

私はただ「自分の弱さ」を受け入れただけです。

つまり、「自分は『脆さ』と『愚かさ』と『卑劣さ』を抱えた人間であり、『それ以上のもの』ではない」と、私はある時、はっきり自覚したわけです。

そのうえで、「私はそういう人間なんですよ」と他人にも積極的に言っています。

なぜなら、取り繕うことはもうやめたからです。

だから、私の中には「弱さ」がまだあります。

それはずっと残ったままですし、「過去に私がしたこと」が消えるわけでもありません。

ただ、「それでも、まあいいか」と思っているだけのことです。

しかし、そうして「弱さ」を認めてしまうことで、私は「弱さ」によって振り回されなくなりました。

実際、もう「自分を守るための嘘」をつく必要はありません。

なぜなら、そもそも私は「自分は弱くなんかない!」と言いたいがために、「嘘」をついていただけだからです。

それゆえ、もしも「自分ってのは弱いもんだよね」とあっさり認めてしまうなら、「嘘をつく理由」自体が消えてしまいます。

「弱さ」を認めてしまいさえすれば、もう「守る必要のあるもの」なんて、綺麗になくなってしまうのです。

◎「本当に必要なもの」は、最初から内側に全部埋まっている

そんな風に、「自分を守る必要」を感じなくなった時、私たちはようやく深く息ができるものです。

「なーんだ、別にそんなに気を張って自分を大きく見せることなんてなかったんだ」

力みも気負いもなく、自然とそのように思えた時、それまで自分がどれだけ多くの「荷物」を背負っていたのかが自覚されてきます。

「常に強く在らねばならない」
「他人に一度も負けてはならない」
「決して失敗してはならない」

そういった数々の思い込みが、一つ一つ剥げ落ちて消えていきます。

別に「不完全」でもいいんです。

「完璧」を目指す必要はありません。

なぜなら、私たちはみんな、既にして「完璧」だからです。

私たちに「欠けているもの」は一つもありません。

「本当に必要なもの」は、全て内側に最初から埋まっています。

だから、大事なことは、「それ」を丁寧に掘り起こしてあげることなのです。


「内側に埋まっていた宝物」を見つけた時、人は「自分の弱さ」を受け入れます。

なぜなら、その時その人は「自分は最初からこれでよかったんだ」と、深く納得するからです。

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