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「課題の分離」について|もしも自分が変われば、他人は勝手に変わっていく

まず、お知らせ。

今朝書いたメルマガの記事を会員以外の人にも一般公開したので、よろしければご覧ください。

「依存」とは「道具の道具」になってしまうことである
https://ofuse.me/e/358357

テーマについては「依存」でして、「自分の足で立つ」というのがどういうことなのか、改めて詳しく書いています。

私はいつも「寄りかからずに自分の足で立ちましょう」ということを書くので、「でも、そんなの不可能じゃない?」と思っている人もいるはずです。

でも、別に私は「誰にも頼らず一人で生きていけ」と言っているわけではありません。

「じゃあ、どういうことなのか?」ということを、今回は書いております。

興味のある人は読んでみてください。

以上、お知らせ終わり。

ここから、今日のブログの記事を書きます。

今日書きたいと思っているのは、今更かもしれませんが、
アドラー心理学における「課題の分離」についてです。

「課題の分離」という概念は、既にかなり一般にも広まっているものと思っていたのですが、知らない人もいるようなので、念のため説明しておこうと思いました。

「課題の分離」とは、「自分の課題」と「他人の課題」を分けて考えるテクニックのことです。

たとえば、仕事中にいつもイライラしていて部下に当たり散らす人がいたとします。

そういう場合、人によっては「怒られないだろうか?」と思ってビクビクするかもしれません。

そして、「何とかしてこの人をイライラさせないようにしよう」と気を遣うこともあるでしょう。

しかし、「いつもイライラしている人」というのは、基本的に他人が何をしようとイライラするものです。

「イライラしていること」はその人にとって普通の状態であり、それを他人にはなくすことができません。

もしもその人のイライラをなくそうと思ったら、他でもないその人自身が「自分はどうしてこんなにイライラするのだろう?」とちゃんと自問し、「問題の根っこ」を理解する必要があるでしょう。

でも、他人にはそれを強制することができません。

むしろ、「イライラしていると疲れると思いますから、自分の心の奥を省みたほうがいいと思いますよ」なんて言おうものなら、その人は激怒して怒鳴り散らすかもしれないですね。

そういうわけで、結局のところ、その人自身が「自分の問題」を自分で見るつもりがないならば、イライラは解消しようがないのです。

そういう意味で、イライラは「その人の課題」です。

逆に、そうやってイライラしがちな人を前にして、ついビクビクしてしまったり、ご機嫌取りをして右往左往してしまったりして苦しんでいるのであれば、
それは「イライラしている人と接する側の課題」です。

たとえ相手がイライラしていたとしても、「あぁ、なんかこの人イライラしているな」とだけ理解して、自然体でいることも可能なのに、どうしても影響を受けてしまうようなら、
それは「相手の問題」ではなく、「その人自身の問題」なのです。

こんな具合に、人は「向き合うべき課題」を自分の内側に持っているものです。

イライラしている人は「自分の中のイライラ」と向き合う。
ビクビクしている人は「自分の中の恐れ」と向き合う。

それは、別に相手の了承や協力を得る必要なく、いつでも、どこでも、自分だけで始めることのできる試みなのです。

しかし、世の中の多くの人は、自分を変えようとはせず他人を変えようとしがちです。

つまり、「自分の課題」とは向き合わず、「他人の課題」に介入しようとするのです。

たとえば、先ほどの例で言うと、イライラしている人は「自分のイライラ」は直視しないで、「自分のことをイライラさせる周りが悪い」と考えます。

しかし、そんな風に考える限り、「この世には同じような状況に置かれてもイライラしない人がいるのに、どうして他でもない自分はいつもイライラするのだろう?」という問いを立てることが、その人にはできなくなってしまいます。

また、イライラしている人を前にしていつも怯えてご機嫌取りをしてしまう人は、そうやって自分をすり減らすことで、相手の機嫌を操作しようとしています。

つまり、自分ではなく相手を変えようとしているわけです。

しかし、そのように「相手の課題」に介入しようとしてしまうと、やっぱり「自分の課題」と向き合えません。

「この世には、どんな相手とも毅然と対峙できる人がいるのに、どうして自分はそれができないのだろう?」という問いが立てられなくなってしまうわけですね。

だからこそ、「課題」をきっちり分ける必要があります。

そして、「自分の課題」については真摯に向き合い、「他人の課題」については口出ししない節度が大事です。

たとえ「自分一人で勝手にイライラしている人」がいたとしても、「あぁ、なんか大変そうだな」と思って見ていればいいと思います。

もしもあなたが「自分の課題」を解決して、「相手のイライラに影響されない状態」になっていれば、それは十分に可能なはずです。

結局のところ、「イライラし続けること」によって困るのはその人自身なのですから、そのようにして「自分で自分を損ない続けている人」については、無理して相手をする必要はないのです。

もちろん、あなたがそんな人の上司であって、指導する役目を担っているならば、あえて「他人の課題」に介入して、せめて道だけでも示す必要が出てくるかもしれませんが、それでも「自分の課題」から逃げる人はどこまでも逃げ続けるので、他人が何を言っても無駄だったりします。

だからこそ、「瞑想が大事だ」と私は口酸っぱく言うのですね。

瞑想によって観察力が磨かれれば、どれが「自分の課題」でどれが「他人の課題」か明確に識別できるようになっていきます。

また、内側で「気づき力」が育っていくので、他人からの指摘をちゃんと「自分事」として受け止められるようにもなっていくでしょう。

要は、「自分の課題」から自然と逃げなくなるのです。

実際、瞑想をしっかり実践している人は、「他人を変えることはできない」ということをよくよく承知しているものですし、「自分を変えるための努力はいつでも可能だ」ということもまた知っています。

だから、瞑想的な「観察力」や「気づく力」が育っている人は、成長スピードが異常に速いです。

人からちょっと指摘されただけですぐに自分を改めますし、時には他人が何も指摘しない内から自分で「問題」に気づいて修正します。

それは、その人が「自分の課題」に対するアンテナを絶えず張っているからなのです。

でも、世の中の多くの人は、「他人の課題」に対するアンテナは敏感ですが、「自分の課題」についてはなかなか自覚できません。

「あの人のここが問題なんだけど…」ということについてなら、いくらでも目に付くし口にもできるのに、「自分の課題」についてはほとんど何も知らないのです。

この認識を逆転させるのが、瞑想の効果の一つです。

瞑想の実践によって、その人は「自分の課題」に敏感になります。

そして、「どうやったら他人を変えられるだろう?」ということは考えなくなり、「どうしたら自分を変えられるだろう?」ということを考えるようになっていくのです。

そして、逆説的ですが、もしも自分を真に変えられたなら、他人は勝手に変わっていきます。

たとえば、もしもいつもビクビクしながら受け答えしていた人が、毅然と対応するようになったら、イライラしていた人もビックリして態度を変えるかもしれません。

恐れを持たず真っすぐ向き合う姿勢そのものが、相手の心を揺り動かすのです。

人の襟を正させるには、自分自身が襟を正す必要があり、他人を自由にしたければ、まず自分自身が自由でないといけません。

内側に幸福を感じていない人が、他人に「笑ってごらん」と言っても、たぶん誰もそんな言葉を聞かないでしょう。

落ち込んだ人を笑わせることができるのは、自分自身でも笑うことのできる人だけなのです。


ということで、今回は「課題の分離」について書きました。

今更なトピックかもしれませんが、非常に使えるテクニックなので、知らなかった人はぜひ覚えておいてください。

そして、他人を変えようとする前に、一呼吸おいて考えてみてほしいと思います。

「相手のことは置いておいて、自分に今できることは何だろう?」と。

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