最近、「苦しみを胸で味わわずに、離れたところから観照して流す」という実践をしているのですが、やっていく中で、あることに気づきました。
それは、苦しみを観照して流すためには、「苦しみの奴隷」であってはならないということです。
そもそも、私が苦しみを味わうのではなく流すことを実践するようになったのは、苦しみを味わってそれと同化するよりも、苦しみを離れて観照するほうが本質的だと感じたからです。
その際の前提として、私は既に、たとえ苦しみが訪れても、それによって苦しまない「一点」があることに気づいていました。
その「一点」こそが「本当の自分」であり、苦しみは心に浮かんでは消える波のようなものにすぎないのです。
この「一点」そのものに最初に気づいたのは、もうずいぶん前のことです。
私がまだ真理の探求を始める前、私は瞑想をしていて眠気を感じて朦朧としたことがありました。
その時、私は何とも不思議な感覚がしたのです。
身体には眠気が訪れているのに、自分の中に「眠くなっていない一点」が存在するのを、その時の私は感じました。
その「一点」は身体のどこということも言えないものだったのですが、
とにかく「眠気の中で覚めている者」がいたわけです。
その後、夜に寝ていても、「夢を見ていることに気づいている者」の存在を感じることが、度々ありました。
それは、身体が眠っていることに気づいていて、「これは夢だ」ということにも気づいてました。
つまり、「眠りの中にあって眠らない者」を私は自覚したのです。
ただ、当時はまだ探求に関する知識などがなかったため、「不思議な感覚だなぁ」というくらいにしか思わず、そのままその感覚を忘れてしまいました。
でも、あとになって真理の探求をするようになり、苦しみを味わう実践をしてから、
この「眠りの中で眠らない一点」のことを思い出したのです。
その「一点」は、たとえ苦しみが訪れていても、決して苦しむことがありませんでした。
それはあたかも「聖域」のように常に無傷であり、「感情の嵐」による影響を受けることがなかったのです。
苦しみも喜びも、すべては「表層」を滑って消えていき、「中心の一点」はそんな中で不動のままでした。
そうして私は「観照するというのは、こういうことだったんだな」と後になってわかったわけなのです。
このことがわかるようになってから、私は苦しみから逃げなくなりました。
なぜなら、どうせ苦しみにはその「一点」だけは苦しめることができないと、私にはわかっていたからです。
苦しみが訪れるのはあくまで私の「表層」だけで、「深いところ」では私は触れられないままです。
そのことへの確信が育つにつれて、苦しみがやってきたときに、それをそのまま受け入れられるようになっていったのです。
それ以前の私のとって、苦しみというのは脅威でした。
私は苦しみから逃げようともがき続け、幸福だけを欲していたのです。
要は、私は「選り好み」をしていたのですね。
「幸福だけほしい!不幸はいらない!」というわけです。
ですが、私たちの人生は「幸福」と「不幸」の両方でできています。
私たちの存在は「ポジティブ」と「ネガティブ」の両方でできており、「陰」と「陽」とは分かちがたく結びついています。
もしそこで「選り好み」をして、「自分はポジティブだけがほしい!ネガティブは少しもあってほしくない!」と望むなら、その人は自分で自分の存在を分割することになってしまいます。
そうして、当人は自分自身と闘い始め、決してリラックスできなくなってしまうのです。
実際、苦しみから逃げようとする限り、リラックスは訪れることがありません。
その人は、「幸福」の中にある時も、きっと内心では恐れています。
当人は、「これもいつかは消えてしまうのではないか?」と不安に感じていて、せっかく訪れた「幸福」を楽しむことができないのです。
こうして人は、苦しみの中ではそこから逃げようとしてもがき続け、喜びの中ではそれを失うことを恐れてビクビクするようになっていきます。
そのような状態で、真にリラックスすることは無理でしょう。
必要なのは「選り好み」をきっぱりやめることです。
苦しみが来たら苦しみを生き、喜びが来たら喜びを生きる。
苦しみに対して「あっちに行け!」と言って追い払わず、喜びに対して「いつまでもここにいてくれ!」と言ってすがりつかない。
そうして初めて、私たちは自分の存在を分割することなく、「あるがままの自分」にリラックスすることができるのです。
その時、苦しみは「敵」ではなくて、「お客さん」のようになっていきます。
もちろん、「少し手ごわいお客さん」ではあるのですが、もし苦しみを戸口で追い返さずに受け入れると、それはそのうち満足して帰っていきます。
自分自身は、あくまで「家の主人」として苦しみをもてなして、毅然と向き合うようにするだけです。
しかし、ここでもし、「お前なんか家に入れてやらない!」と言って追い返すと、苦しみを抑圧することにつながります。
また、苦しみに屈服して、「何でも言うことを聞きますから、早く出て行ってください!」と懇願すると、苦しみは味を占めていつまでも我が物顔をして「家」の中に居坐ることになるでしょう。
大事なことは、「あくまでも主人は自分なのだ」という意識を持てるかどうかです。
苦しみが「戸口」にやってきたときに、追い返すことなく、卑屈になって言いなりになることもなく、肚を決めて受け入れられるかどうか。
それによって、苦しみは訪れては去っていくだけの「表層の波」のようなものになるのです。
そして、そうやって苦しみに対してあくまで「主人」として向き合っていると、「自分は『決して動かない一点』なのだ。苦しみには『本当の私』に触れることなど絶対にできない」という気づきが、徐々に深まっていきます。
「自分が苦しみに支配されることはない。苦しみはしょせん『表層』で起こる波にすぎないのだ」と、その人は気づくようになっていくわけです。
この状態になることで、人は自然と、苦しみを抑圧したり、苦しみから逃げまどったりしなくなります。
苦しみがたとえ訪れても、ただそれをあるがままに苦しんで、その中で深くリラックスしていることができるようになるのです。
この「主人である感覚」が、「苦しみを観照しながら肚に流す」ということをする際に、非常に重要になります。
読者の中には、私が「苦しみを味わう必要はない」と言い出したことで、「それなら楽ができるかもしれない」と思った人がいるかもしれません。
しかし、残念ながら、別にこれは苦しみをショートカットできる「簡単な道」ではありません。
そもそも、もしもまだそんな風に「苦しみから楽に逃れる術」を探しているなら、その人は苦しみに支配されている感覚があることでしょう。
その人はきっとまだ、「苦しみの主人」にはなることができていないはずです。
そうであるなら、苦しみを「肚」に流そうとする際にも、きっと落ち着いて観照していることができず、「早く流れて消えてしまえ!」と、恐れと共に念じることを避けられないと思います。
すると、それは「苦しみの観照」ではなく「苦しみからの逃避」となり、場合によっては「苦しみの抑圧」にさえなりかねません。
なので、「苦しみに対する恐れ」を抱いたまま、そこから逃げようとしている限り、いくら「肚」に流そうと思っても、「苦しみが肚に流れていく」ということは起こらないでしょう。
むしろ、苦しみはそのまま居坐って、自分のほうが苦しみから必死で逃げていくという、「逆のこと」が起こってしまうのです。
ということに、最近気づきました。
確かに、すでに「苦しみの主人」である感覚がある程度育ってきている人にとっては、「苦しみを肚に流す」ということも楽にできます。
でも、まだ「苦しみへの恐れ」を抱えていて、「選り好み」をする気持ちが残っている人の場合、「苦しみを肚に流すこと」はおそらくできません。
その場合、たとえ苦しみを流そうと思っても、きっと流されるのは「自分自身」のほうでしょう。
自分が「主人」であって初めて、苦しみに流されることなく、すべてを「あるがまま」に受け入れられます。
なので、必要なことは、「選り好み」をやめることであり、思い切って苦しみを受け入れることです。
おそらく、その過程においては「苦しみを意識的に味わうこと」も必要になるでしょう。
なぜなら、最初のうちは、「苦しみの中で苦しまない一点」を自分の中に見出すことができないからです。
これはつまり、苦しみを観照するための「足場」をまだ見出すことができていない段階です。
「足場」がなければ、苦しみを離れて観照することなど到底できないので、どうしても一時的には、「苦しみと共に留まり、そこから逃げ出さない」という実践が必要になるわけです。
でも、そういった実践を重ねる中で、徐々にその人の中では、「苦しみの主人」である感覚が育ってきます。
その人は、もう苦しみから逃げようとしなくなりますし、喜びにしがみつこうとしなくなります。
人生がもたらすものに対して「選り好み」をしなくなり、なんであれ、そのまま受け取る用意ができるのです。
そして、その段階まで行ったなら、もう「苦しみを味わうこと」は不要になります。
わざわざ苦しみと同化しなくても、「動かない一点」に定まって、そこから苦しみという波を眺めていれば、それはやがて小さくなって消えていきます。
そうして苦しみは「お客さん」のようになり、当人はそれを「主人」として受け入れてもてなすだけのなるのです。
というわけで、苦しみを肚に流す場合、まず自分が「苦しみの主人」としてあれているかどうかを、よくよくチェックするようにしてください。
もしも「選り好み」をして、「苦しみはいらない!喜びだけしかほしくない!」と思っているなら、その人はきっと苦しみに支配されてしまい、「肚」に苦しみのエネルギーを流すどころではなくなるでしょう。
その場合、まずは苦しみを意識的に味わって溶かす経験を実際に何度か積むことで、「苦しみに自分を支配することはできないんだ」と気づいていくことが必要です。
そうして、「自分には、自力で苦しみを溶かすことができる」ということが経験的にわかってくると、徐々に苦しみを恐れなくなっていき、人生に対しても「選り好み」をしなくなるはずです。
そういった経験から「苦しみの主人である感覚」が育つなら、たとえ苦しみがやってきたときにも、当人はきっと心にゆとりを持ったまま、それを観照することができます。
その時には、わざわざ苦しみと同化してそれを味わう必要はなくなり、ただ離れたところから落ち着いて苦しみを眺めていることができるようになることでしょう。

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