昨日、昼のライブ配信中に、「怠ける権利」について熱弁しました。
「私たち現代人は頑張り過ぎたから、もっと怠けてダラダラするべきなのだ」ということを述べたのです。
で、今回はそのことを文字でも改めて書いてみようと思っています。
ライブの本編に興味のある人はこちらも観てみてください。
ということで、話を始めていきますが、現代人は働き過ぎだと私は常々思っています。
来る日も来る日も1日8時間労働を繰り返し、人によっては残業までしています。
しかし、これだけAIや科学技術が発達した現代において、そこまでの労働が必要なのかどうか、私には疑問です。
「本当は、私たちはもっと楽に生きていけるのではないか?」と私はいつも疑っています。
それはそれとして、月曜から金曜まで欠かさず働く生活リズムというのは、そもそも「人間の自然」に合っていません。
大昔の人間は、「曜日」なんて概念も持っていなかったし、「時計」だってありませんでした。
それで、雨が降ったら狩りはお休みだったでしょうから、「毎日絶対8時間働かないといけない」なんていう「不自然なこと」はしていなかったはずです。
でも、今の私たちは「月曜日から金曜日まで毎日欠かさず8時間働く」ということを「普通」だと思っています。
そして、「それができない人間は、人としてどこか問題がある」とさえ思っているのです。
しかし、別にそんなことはないと思います。
むしろ、そんな風に毎日の8時間労働に適応できてしまう人は、どこか人間として「不自然」であるとさえ私は思っています。
特に、自分自身で「やりたい」と思っているわけでもない、「ライスワーク(生活費のための仕事)」に従事している人は、労働を「苦役」としてしか感じていないでしょう。
仕事中はひたすら我慢をして、退勤後には解放感から極端に自堕落な過ごし方をしてしまう。
仕事があまりに苦痛なので、仕事以外の時間に何とかその埋め合わせをしたくなるのです。
そういう場合に多くの人は「出来合いの娯楽」をただダラダラと消費して過ごします。
普段の仕事で疲れ切っているので、休みの日には「能動的に何かをやろう」という気分になれません。
それで、口を開けているだけで快楽が入ってくるような「受動的な娯楽」をたくさん享受して、自分をリラックスさせようとするのです。
でも、その試みは失敗に終わります。
なぜなら、そうやって「受動的な快楽」に身を委ねていると、次第に刺激に耐性がついてしまって、心と身体が鈍くなるからです。
そうして感受性は鈍麻していき、どれだけ「娯楽」を消費しても満足することができなくなります。
動画をダラダラ観ていた人は、最初は1時間でやめられたのに、次第に2時間、3時間と視聴時間が伸びていきます。
「受け身でいること」に慣れ過ぎてしまって、いくら動画を観ても満足できなくなっていくのです。
そうして、休日をダラダラ過ごした後で、「あぁ、もう今日が終わってしまった…。明日からまた仕事なのか…」と絶望的な気分になったりします。
ですが、それはその人の「怠け方」に問題があるのです。
私は「怠ける権利」の重要性を主張しますが、その際の「怠け方」として「受動的に娯楽をダラダラ享受する」という過ごし方を推奨しません。
そうではなくて、「本当に自分の心が望んでいること」を人はするべきだと思うのです。
要は「どうでもいいこと」をするのではなく、「自分がしたいと思うこと」をするわけです。
たとえば、漫画を読んで笑い転げるのでもいいですし、前から観たかった映画を観に行くのでもいいでしょう。
せっかく伸び伸びと「怠ける」のですから、そこに「意味」と「味わい」とを確かに実感できるような過ごし方をするほうがいいと私は思うのです。
しかし、さっきも書いたように、多くの現代人は日ごろの仕事で疲れすぎているので、休みの日が来ると、「もうこれ以上何一つしたくない」と思いがちです。
だから、「やりたいこと」がたとえあったとしても、それをする元気さえ出ないわけです。
だったら、もういっそ仕事なんて放り出してしまえばいいと私は思います。
そもそも、そんな風に「したいことをする元気さえない」という状態になっている時点で、その人の生き方は、あまりにも窮屈になり過ぎています。
つまり、「多くの荷物」を背負い過ぎなのです。
人によっては「仕事を放りだしたりしたら迷惑がかかる」と思うかもしれませんし、「生活はどうしていったらいいんだ?」と心配するかもしれませんし、「やっぱり世間体が気になってしまう」と他人の視線への恐れを抱くかもしれません。
でも、そのまま我慢して働き続けていたら、どこかで「バーンアウト」してしまうでしょうし、仮に万が一「バーンアウト」しないで済んだとしても、死ぬときにきっと後悔します。
「結局、我慢しているだけで人生が終わってしまった」と。
私は「怠けること」に関しては、「権威」なのです。
今までの人生においても、私はひたすら怠けて生きてきました。
「やりたいくないこと」は徹底的にやらないで通してきましたし、それで多少生活に困っても、「我慢してやりたくないことをするよりはずっとマシだ」と常々思っていました。
「やりたくないこと」をやらないために、私は人の助けを借りることも厭いませんでしたし、福祉サービスのお世話になったこともありました。
そういう意味では、私は完全に「社会のお荷物」です。
でも、そうやって怠け続けてきたからこそ、私は「やりたいこと」をとことん突き詰めることができました。
「やりたいくないこと」をやらないで、「やりたいこと」をやり続けてきたからこそ、今の私は在るのです。
もし私が「やりたくないこと」を無理してやり続けていたら、私はきっと今頃燃え尽きて、それこそ人々の世話にならないと生きていけなくなっていたでしょう。
そして、こんな風に文章を書いたり動画を配信したりすることもなく、「社会の歯車」としてその人生を終えていったはずです。
でも、そういう生き方では私は満足できなかったでしょうし、私自身が満足できていなかったなら、私はきっと「他人のために何かをしよう」とも考えなかったと思います。
なぜなら、自分自身が満たされていなかったら、その人に「他人のことを考える余裕」なんてないからです。
それだと、きっといつも自分のことで精いっぱいになってしまって、他人のことなんて後回しになります。
そうして、自分の人生に絶望しながら、他人へは不平不満を吐き、「何のために生きているのだろう?」という問いかけさえもが擦り切れて、無感覚なまま生きて死ぬのです。
私はそんなのは御免でした。
だから私は怠け続けてきたんです。
「やりたくないこと」はやらない。
たとえそれによって社会から落ちこぼれても、他人から白い目で見られても、私は「自分を満たすこと」を優先してきました。
そうして、「やりたいこと」をこそ突き詰めて、ダンスをやり、合氣道をやり、瞑想法や呼吸法を研究・実践し続けました。
そういった私の「わがまま」の蓄積が、今の活動を下支えしています。
そして、そんな私の発信する情報が、わずかではありますが、人の役にも立っているのです。
人はもっと「わがまま」に生きていいのではないかと思います。
「やりたくないこと」は無理してやらない。
それで別に問題ないと私は思います。
むしろ、我慢をひたすら積み重ねて人生をすり減らすのではなく、「わがまま」を言って、助けてもらって、自分を満たしてあげるほうが、結果的に長い目で見た時に、他人にためにもなるものです。
なぜなら、もしも自分自身を満たせた場合、その人はもう他人を利用しようとは思わなくなるからです。
そのとき人は、他人を欺いて道具のように使おうとしなくなります。
他人から奪おうとしなくなり、自然と人に優しくなります。
そうしてその人は、「この世界の重荷」にならなくなるです。
もちろん、社会的には「お荷物」であるかもしれませんが、現行の日本社会ではほとんどの人が「払っている税金」より「受けている行政・福祉サービス」のほうが大きいでしょう。
ある試算では、年収が900万円以下は「社会のお荷物」と言われています。
だったら、社会を支えるのはお金を稼ぐ能力のある人に任せておいて、私たちはただ、「社会のお荷物」ではなく、「世界の重荷」にならないでいれば、それで十分だと思います。
他人から奪わないこと。
自分を守るために嘘をつかないこと。
人のことを道具のように利用しないこと。
そうしたことは、自分自身を満たさないと実現できません。
逆に、社会を支えているお金持ちの中には、心の底では「満たされた感覚」を持っておらず、他人を道具のように利用している人もたくさんいます。
でも、もしも自分を深く満たせたら、お金持ちだろうと貧乏人だろうと、そんなこととは関係なく、その人はもう「他人を利用する必要」を感じなくなります。
そして、私はそれで十分だろうと思うのです。
なので、もっと「怠ける権利」を行使しましょう。
「やりたくないこと」は可能な限り放り出して、身軽になっていきましょう。
そうして初めて、自分を満たすことができます。
逆に、自分のことを後回しにする限り、他人に優しくはできません。
仮に一時的にできたとしても、そのような「自己犠牲」はきっと長続きしないでしょう。
私たちの命というのは、もともと「わがまま」にできています。
「我のまま」であることを、私たちの命は望むのです。
だから、社会を支えるのは「お金を稼ぐことが上手い人」たちに任せておいて、「既にわがままを言って自分自身を満たせた人」たちが、「まだわがままになれないでいる人」たちのことを、支えていったらいいと思います。
あなたが自分を優先的に満たすなら、きっとあなたはいつか他人の「わがまま」を許容するでしょう。
そのようにして「わがまま」というのは回っていくのです。
そして、そんな風に「わがまま」をちゃんと言い合えるような社会のほうが、生きやすいと私は思っています。

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