【あとがき】「わかる」は楽しいが、「わかったつもり」では人はなかなか変われない

ずっと書いてきた連載が、ようやく完結しました。

連載目次

文字数を集計してみたら、全部で13万文字弱もありました。

全部読んでくださった方は、本当にお疲れさまでした。

◎「わかる」ということそれ自体が持っている楽しさ

今回は、連載もやっと終わったということで、「あとがき」のようなものを書いていこうと思います。

普段はひたすら実践の方法論とかをロジカルに書き続けているので、たまにはのんびり思ったことを書いてみるのも悪くないかもしれません。

それにしても、こうして探求についての連載記事を書いてみると、私は本当に人に説明するのが好きなのだと改めて感じました。

思えば、昔からそういうところがあった気がします。

たとえば、高校生の頃は、クラスメイトに勉強を教えるのが楽しかった覚えがあります。

「ここがどうしてもわからない!」という人がいると(そしてその人と面識がありさえすると)、私は「どれどれ見せてごらんなさい」と言って近づいていき、「これはこういう風に考えて解くんだよ」と説明していたものでした。

そして、「相手にわかってもらうには、どうやって説明したらいいだろう?」と考えて、あれこれ試行錯誤することそのものを、私は楽しんでいたように思います。

どうしてそんなに教えることが楽しかったのかと言うと、たぶん「わかる」ということに楽しさを感じていたからではないかと思います。

自分自身が学ぶ際に、「あ、そうか!そういうことだったのか!」と膝を打った経験があるからこそ、「他人にもその快感を味わってもらいたい」と、自然と思うようになったのです(たぶん)。

思い返してみると、今も昔も私は「理解することで得た知識を何かに役立てたい」とはあまり思っていなくて、「わかる」というプロセスそのものを楽しんできたような気がします。

実際、私は過去に日商簿記の勉強をしていたことがあるのですが、それは別に就職に役立てるためではありませんでした。

私はたまたま縁あって簿記の勉強をするようになったのですが、実際に勉強してみると簿記というものはよくできていて、「こんなすごい仕組みをよく作ったなー!」と私は心底思いました。

実際、かの文豪ゲーテも「複式簿記」という現代の簿記における主要な記録方法のことを、「人類最大の発明の一つだ」と絶賛していたと言います。

私は簿記のその精妙な仕組みにすっかり魅了されてしまい、「これをとことん勉強してみよう」と思って、毎日10時間くらい簿記の勉強をする生活を送るようになりました。

そして、確か簿記を勉強し始めて8ヶ月くらい経った頃だったと思いますが、私は日商簿記1級に合格したのでした。

日商簿記1級と言えば、日本の簿記試験の最高峰とも言われています。

でも、私は別に資格が欲しかったわけではなく、簿記をとことん勉強する上でのとりあえずの目標が欲しかっただけでした。

とにかくひたすら簿記を勉強して「わかって」いくそのプロセスそれ自体が、当時の私にはとても楽しく感じられていたのです。

◎「わかったつもり」だけでは、人は本当に変わることができない

こんな風に「結果よりプロセスそのものを重視して、集中する時は極端なほど集中する」という私の傾向は、真理の探求においても同様に発揮されていたように思います。

そもそも、探求の道において、私たちにできることは愚直に実践を積み重ねることだけです。

それはつまり、結果については忘れてプロセスにだけエネルギーを注ぎ続けるということです。

しかし、多くの人は、結果ばかりを先に見てしまいます。

そしてそれは、私が書いた記事の問題点でもあります。

というのも、もしも読者が私の書いた記事を読んで、「実践の結果」を先に知ってしまうと、当人はプロセスに集中できなくなる可能性があるからです。

たとえば、「集中する瞑想を実践すると、ある瞬間に穏やかな至福感(サマーディ)が起こります」と私が言うことで、それを聞いた側は、結果として起こる「至福感(サマーディ)」のほうに意識を取られてしまい、瞑想の実践に集中できなくなるかもしれません。

しかし、あくまでも「サマーディ」というのは瞑想の結果として起こるものであって、それ自体を直接目指すことができません。

つまり、いくら当人が「サマーディよ、起これ!」と言って念じてみたところで、それは決して起こらないのです。

私は連載の中で、「どうすればわかりやすくなるだろう?」ということについて常に心を砕いてきましたが、同時に、「それは余計なことだったのではないか?」とも思っています。

と言うのも、私がわかりやすく説明すればするほど、読者が「わかったつもり」になってしまうリスクも高まるからです。

たとえ頭で「なるほど!わかった!」と思っていても、それだけでは人は変わりません。

たとえば、私が「世界は実在しない」と言っていたとしても、それをただ頭で理解しただけでは、当人はきっとあいかわらず「世界」に振り回され続けるでしょう。

かといって、何も理解しないまま、手当たり次第に実践するというのも問題です。

と言うのも、どんな実践方法が自分に適しているかについてはきちんと判断する必要がありますし、そもそもその実践方法の理論的な背景がわかっていないと、何に注意したらいいかがわからないからです。

ですから、探求についての文章というのは、決して知的好奇心を満たすためだけに読むものではないと思っています。

その辺が、簿記の教科書と違うところです。

むしろ、「この人の言っていることは本当だろうか?」と疑うくらいのほうがちょうどいいのではないかと私は思っています。

そして、「本当かどうか確かめたい!」と思った人だけが、実践をすればいいのだと思うのです。

そういう意味で、本当に探求をする必要のある人というのは、かなり少ないのではないかと思っています。

「与えられた情報」だけでは満足しない人、最後まで「自分の足」で歩き通そうとするだけの意志がある人、そういった人こそが、真理の探求には適しているのだと思います。

◎あなたの声を聞かせてほしい

あなたが今、探求のどの段階にいるのかは私にはわかりません。

ですが、私は連載の中でなるべく様々な段階について、詳細に説明することを心掛けました。

「この段階の課題はこれである」
「この段階にはこういう種類の落とし穴がある」

そういったことを、個別に書くように努めたつもりです。

しかし、もちろんそれでも「全てのケース」を網羅して書くことはできません。

ですから、私の記事をいくら読んでも、やっぱりわからないことは出てくると思います。

そういう場合には、ぜひこのブログのお問い合わせフォームから、私に質問を送ってください。

お問い合わせはこちらから!

私自身の経験から、何かしら個別にお答えできることがあると思います。

それに、もしかしたら、そうして質問してくださることで、同じようなことで悩んでいる他の誰かの役に立つこともあるかもしれません。

と言うのも、実際に質問について考えることで私が新しい記事のアイデアを思いつくかもしれませんし、また、もしも質問者から許可をもらえるなら、その質疑応答の内容をQ&A記事としてブログで公開するつもりだからです。

そうして私が思いついた新しいアイデアや、公開された質疑応答の内容が、いつか誰かの役に立つ可能性は大いにあると思います。

なので、私はできれば、読者の方と一緒にこのブログの内容を充実させていきたいと考えています。

私だけが一方的に語り続けるのではなく、読者の声が聞きたいです。

ただ、記事へのコメント機能については、今のところ開放する予定はありません。

なぜなら、記事を読む時は、なるべくその記事の内容そのものに集中してほしいからです。

そして、もし記事を読んで「言いたいこと」や「聞きたいこと」が出てきた人は、先ほどリンクを貼った、お問い合わせフォームから教えてほしいと思います。


ということで、なんだか取り留めのない話になってしまいましたが、たまにはこういう記事があってもいいのではないかと思います。

今後は、探求の実践についての補足説明や、探求にまつわる用語の解説などをしていこうと思っています。

そういった記事が、誰かの役に立ちましたら幸いです。

では、また。


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