今日は、月の一度の岡山での瞑想会の日です。
まぁ、今月は海外から友人が来るので、別日にもう一回瞑想会を開くことになっていますが、本来のレギュラー開催日は今日になっています。
思えば、これで三回目の開催になります。
…ん?まだ三回?
なんか主観的にはもう一年くらいはやっている気になっていましたが、まだ三か月しか経っていないんですね。
このブログも、まだ始めてから四か月半くらいですし、時空が少し歪んでいるかもしれません。
実際、このたった四か月半の間に、私の人生はすっかり変わってしまったような気もします。
これまでに百万文字以上の文章を書き、百本以上の動画を撮って話をし、いろいろな人と出会いました。
ブログを始めた当初は、こんなにたくさん文章を書くことになるとは思っていませんでしたし、YouTubeに進出することなんて全く考えていなかったのです。
瞑想会をすることも想定していませんでしたし、最初の最初は、顔も本名も公開していませんでしたからね。
でも、活動を続けていく中で、次々に新しい試みをし、その度に新しい出会いに恵まれ、多くの気づきを得られました。
自分で言うのもなんですが、この四か月半で本当に成長したと思います。
とはいえ、まだまだここで終わるつもりはありません。
なぜなら私は、「自分の命が続く限りは、とことん遊びつくそう」と思っているからです。
そう、いつも言っていることですが、私にとってこの活動は「遊び」なのです。
そもそも私自身は、もうこの人生で「やらないといけないこと」が残っていません。
私の中からは「ゴール」というものが消えてしまったので、もはや「達成すべきもの」がないのですね。
だから、本当なら「もう何もしなくてもいい」わけなのですが、せっかく人生が与えられているので、「やりたいこと」をやっていこうと思って日々活動しています。
ちなみに、私が日々やっているこの「遊び」は、「人々を自由にするゲーム」です。
「私自身も含めた全ての人を自由にすること」が、この「ゲーム」の目的であり、もしも自分や他人を「自由」にできたら「ポイント」が入ります。
それゆえ、私はいつも自分自身を「自由」にするように生きていて、かかわる人たちがほんのわずかでも「自由」になれるようにと思って活動しています。
それが、私の「遊び」なのです。
だから、まず何よりも私自身が「自由」であることが最優先事項です。
というのも、自分で自分を縛ったまま、他人を解放することはできないからです。
逆に、もしも私が自分を縛らないならば、私の中にある「自由な呼吸」は、勝手に周りの人に感染し始めます。
そうして、私から「自由」を感染させられた人々が、さらにその人の周りの人々をも「自由」にしていく。
そんな感じで、少しずつ「自由の輪」が広がっていきます。
実際、最近はコアな読者や視聴者から、「周りに『人が変わったようだ』と言われるようになりました」という近況報告をいただいたりするようになっています。
どうやら、私の「全人類自由化計画」は順調に進行しているようです。
善き哉、善き哉。
しかし、私は決して「私のことを信じなさい」とは言いません。
むしろ、私はいつも「あなた自身で在ってください」と言っています。
私はいかなる教条も設けませんし、私の言葉に人が寄りかかることも望みません。
私は「湯浅原理主義者」を一人も出さないことを目標に活動しているので、私の言うことに盲従してもらいたいとは思わないのです。
なぜなら、私の言葉に寄りかかることは、「その人の自由」に反するからです。
繰り返しますが、私はあくまでも「全ての人に自由であってほしい」と望んでいます。
だからこそ、私は誰のことも「私の言葉」によって縛りたいとは思いません。
「誰もが自分らしく生き、誰もが『他人の自由』を『自分の自由』と同じだけ尊重する世界」
それが私の理想です。
もちろん、そんな世界は私が生きている間には実現しないでしょうが、少しずつ「スコア」を稼ぐことはできます。
「ラスボス」を倒して「全クリ」まではできなくても、「一面の最初の雑魚」をちょっと倒すくらいのことはできると思うわけです。
そうして私が「一面の雑魚」を倒しておけば、後に続く人々が、「二面」や「三面」を攻略してくれる日が来るでしょう。
私は別にそれでいいと思っています。
そうしていつの日か、きっと人類は「自由」を分かち合うようになります。
たぶん早くても数万年単位で時間がかかるとは思いますが、それはいつかきっと実現するはずです。
しかし、その数万年後の「全クリ」のためにも、まずは私自身が「自由」であることが大事です。
いつだってそれが「全ての始まり」であり、もしもそれさえできているならば、あとは「起こるべきこと」が自然と起こって、「自由の輪」は少しずつ広がっていくことになるでしょう。
深く悠々と息すること。
自分を罪悪視しないこと。
ありのままの自分にリラックスすること。
それは、私たちに生まれながらに与えらえた「権利」です。
誰も私に従う必要はありませんし、私もまた、誰にも従うつもりはありません。
でもそれは、他人を軽んじているからではないんです。
むしろ、「自分と他人の命」を信頼しているからこそ、そうするのです。
私たちはみんな内側に「これをしたい」という「自発的な欲求」を持っています。
本当は、それこそが「自分自身の羅針盤」です。
実際、もしも「自発的な欲求」に従うならば、人は「間違い」を犯すことはありません。
なぜなら、仮に何か「失敗」することがあったとしても、「自発的な欲求」に従って生きている人は、その「失敗」から必ず何かを学んで成長するからです。
だから、どんな「失敗」もその人にとっては「間違い」とはならず、「自分の人生の必要な一部」となっていくのです。
そして、「自分の命が発する声」に従う人は、他人の「自由」も尊重するものです。
なぜなら、その人は他人の中にも「相手だけの羅針盤」が在ることを知っているからです。
「自分の命に従うこと」の喜びと尊さを我が身でもって知っている人は、他人が同じように「内なる声」に従おうとしている時に、それを尊重しようとします。
逆に、他人が「内なる声」を忘れて苦しんでいれば、慈悲の心から声をかけるものです。
「あなたは今、『自分の道』を見失っているよ」と。
それは相手を自分に従わせるための言葉ではありません。
そうではなくて、むしろ相手を「自由」にし、「自分自身」へと立ち返らせるための言葉なのです。
だから、私は誰にも命令しようとは思いません。
ただ、「自分自身で在ってほしい」と望むだけです。
そして、「自分自身の内なる声」に従う時、その人の人生は「遊び」になり、「創造性」と「無根拠な喜び」が花開き始めます。
私はあくまで、「あなたも一緒にそういう風に生きてはいかがですか?」と、声をかけているだけなのです。

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