一か月前くらいから、毎朝5時半から30分、坐禅の配信をしているのですが、最近「もっとたくさん坐りたいなー」と思うようになってきたので、数日前から夜にも坐禅の配信をするようになっていました。
しかし、そうして実際にやってみてわかったのですが、私は夜に瞑想をすると眠くてしんどくなってしまいます。
毎晩20:00~21:00までのライブ配信を終えた後は、もう心身が「お休みモード」になってしまっていて、そこから「坐禅をしよう」という気分にはあまりなれませんでした。
それでも、無理して坐ることはできるのですが、たぶん続かないと思いましたので、夜の瞑想配信は、昨日でやめることにした次第です。
要は、「やりたいくない」と思ったのでやめました、はい。
人によっては、「夜寝る前に坐りたい」と感じる人もいるでしょうけれど、私はもともと朝型の人間なので、朝に坐るのは苦にならないのですが、夜に坐るのはきつかったです。
思い返してみると、過去に毎日数時間、坐禅の実践をしていた頃も、「夜寝る前に坐る」ということはしていませんでした。
だいたい朝か昼間に坐っていて、夜になったらさっさと寝ていたのです。
この辺は、やはり人によるのだろうと思います。
「夜の静けさの中で、寝る前に心身を整えたい」という人は、たぶん夜になってから坐るのが向いています。
実際、そういう人は、それによって深い瞑想状態に入ることができるでしょう。
逆に、朝に「新しい空気」の中で坐ることで覚醒が深まり、元気になる人もいると思います。
少なくとも私はそういうタイプです。
瞑想は基本的に「朝やる派」と「夜やる派」に分かれるのではないかと思うのですが、どちらにもメリットがあります。
さっきも言いましたように、夜は世界全体が静かになっていく中で坐れるので静寂が深まりやすいですし、朝は「まだ手つかずの空気」を感じながら活力をチャージできるので元気が湧いてきやすいです。
いずれにせよ、向き不向きがあると思うので、両方やろうと欲張るよりは、自分が向いているほうで実践したらよいと思います。
そのうえで、まだ足りないように感じたら、昼間に追加で坐ってもいいと思います。
昼間に坐る場合には、まだ1日が終わっていないので、仕事や家事でくたびれた心身を再調整するような感じになるかもしれません。
寝るまでの残りの時間を気持ちよく過ごせるように、心身を整え直すわけですね。
そういう意味では、朝坐って、昼も坐って、夜も坐れたら一番でしょうが、それを毎日継続するのはけっこう難しいかもしれません。
どのみち、最終的には坐って瞑想することはほとんどしなくなっていって、生活全体をそのまま瞑想化していくようになるので、朝も昼も夜もなくなります。
その時には、人生そのものが瞑想です。
とはいえ、いきなり最初からそういうことはできないと思うので、実践を始めたての頃は、まず生活の中に「瞑想のための聖域」を創り出さねばなりません。
1日たった10分でもいいので、「瞑想をする時間」を自分で決めて用意して、継続的に実践していくわけです。
でも、世の中の多くの人は「そんな時間はない」と言います。
「あまりにも仕事や家事が忙しくて、瞑想のための時間なんて作れない」と言うのです。
しかし、よくよく観察してみると、それらの言葉は「自分を騙すための嘘」だったりします。
「自分は本当は実践する気があるのだけれど、忙しくてそれができないのだ」と彼らは言うのですが、実際には「実践する気」がないのです。
そもそも、本当に実践する気があれば、1日10分の時間を何とかして作ろうとするはずです。
本気で実践するつもりがある人は、スマホを見る時間を削り、どうでもいい本や雑誌を読むことをやめ、いつもよりほんの少し早く起きるように努め、なんとかして時間を作ろうとします。
1日たったの10分さえも「空白の時間」を作り出せないという人は、まずいないはずです。
にもかかわらず、それを実行しないのは、「本当はやる気がないから」です。
他に理由はありません。
とはいえ、別に私は「やる気がないこと」を責めようとは思いません。
私だって、「夜の坐禅はしんどい」と思ったので、毎晩の瞑想配信をやめました。
「やりたくない」と思っていることを無理してやる必要はないと、私としては思っています。
そもそも、「やる気がない」ということは、まだその人の内側で「瞑想を実践するだけの必然性」が熟していないというだけの話です。
もしも当人の中で動機が深まって機が熟したら、たとえ他人が止めても、その人は瞑想を断行します。
人間というのは「そういうもの」です。
問題は、本当は「やる気がない」のに、口では「やる気はあるのだけれど忙しすぎるのだ」と言って、自分を騙してしまうことです。
そういうことをしてしまうと、その人は「事実」をそのまま見ることができなくなってしまいます。
「自分は単にやる気がないからやらないだけなんだ」と認めてしまえばスッキリするのに、「本当はやる気があるんだよ」と言い張ることで、内側で自己認知が歪められてしまうのです。
それによって、当人は終始気持ちが片付かなくなり、なんとなく気分が落ち着かなくなってしまいます。
そして、そんな落ち着かないイライラした気分の原因が、実は自分にあるとは認めたくないので、「何もかも、この忙しさが悪いんだ!」と言って、当人は瞑想の実践を永遠に延期してしまいます。
もちろん、それによって困るのはその人自身なので、私は別に困らないのですが、そんな風に「自分のやる気のなさ」から目を背けようとして自縄自縛に陥っている人を見るたびに、「生きるのが辛そうだな」といつも思います。
いずれにせよ、「外側にすべての原因があり、それについて自分には何もできない」と思っていると、私たちは人生の主導権を握ることができません。
逆に、「本当の原因は自分の中にあり、それについて自分には何かできることがある」と思うなら、今日から「小さな一歩」を踏み始めることが可能です。
もちろん、「全てが全て自分のせいだ」とまで思う必要はありませんが、「どんなに忙しかったとしても、それでも今の自分にできることはないだろうか?」と自問することは、意味のあることだと思います。
しかし、「自分にできることなど何もない」という風に思い込んでいると、その人は徐々に無力感に飲み込まれて行ってしまいます。
そうしてますます「自分には何も出来っこない(全ては他人次第なんだ)」という気分の中に閉じ込められてしまうのです。
ですが、たとえ「できること」が何もなかったとしても、「何かをしようと意志する自由」は常に残っていますし、それについて考えることまでは他人には束縛できません。
結局のところ、考えることを放棄しているのは自分であり、他人がそれを強制しているわけではないのです。
他人に縛ることができるのは、あくまで外側の身体だけです。
それゆえ、本当に「やる気」がある人は、たとえ牢屋に入れられても、「この牢屋の中でもできることはなんだろう?」と問い続け、「できること」をしようとし続けるでしょう。
「自由」は外側に用意されているものではなく、あくまで心の中にあるものです。
そういう意味では、私たちは最初から完全に「自由」なのです。
ただし、それを自覚するのは時として恐ろしいことでもあります。
なぜなら、もしも「自分は最初から自由だったんだ」と認めるならば、もはや「自分の不自由」を一切他人のせいにはできなくなるからです。
「他人は決して私を束縛できない」
「それにもかかわらず、もしも『自分は不自由だ』と感じるならば、それは他でもない私が自分で『自由』を捨てているからだ」
このことを心底認めることが、「自由に生きる」ための第一歩です。
「自由」で在れるかどうかは、全て「自分の心」次第。
厳しいですが、それが「この世の真理」です。
あなたの心は今「自由」ですか?
それとも、何かに縛られているように感じるでしょうか?
もしも何かに縛られているように感じるならば、「その束縛の中でも実現できること」が、たったの一つでもいいから無いでしょうか?
あなたが「自由であろう」とすることを禁止できるものは、この世に一つもありません。
あとは、その「自由」を行使した結果もたらされる一切の物事を背負う「責任」を、あなたが引き受けるだけでよいのです。

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