今日からyou tubeの投稿頻度を半分以下に減らすことにしたので、余った時間とエネルギーをブログの更新と書籍の執筆に回します。
ということで、さっそく記事を書いてみているのですが、今回は、you tubeで動画にしきれなかったネタを書いてみようと思います。
テーマは「公的な言語と私的な言語について」です。
では、いってみましょう。
◎「私的な言語」は見知らぬ他人には通じない
さきほど上げた「公的な言語」と「私的な言語」という区分けは、精神科医の泉谷閑示さんが提唱されている概念です。
泉谷さんによると、私たちの言語には「公的な側面」と「私的な側面」があるとのこと。
「公的な言語」というのは、私たちが見知らぬ他者とコミュニケーションを取る際に使用されるものです。
なるべく一般的に使われている言葉遣いや語彙に基づいて、価値中立的に語られるのが「公的な言語」というわけです。
しかし、私たちはみんな、自分の内側に「私的な言語」を抱えながら生きています。
要は、「自分にしか通じない言葉」を誰もが持っているわけです。
そもそも、言葉というのは不便なもので、万人に伝わる形で定義を固定化することができません。
たとえ全く同じ言葉であっても、人によって「そこに乗せている意味」が違うのです。
たとえば、「愛」という言葉はその典型でしょう。
人によっては「所有欲」のことを「愛」と言うかもしれませんし、「性欲」のことを「愛」と呼ぶ人もたくさんいます。
恋愛依存やセックス依存に陥っている人が言う「愛」と、自分自身の中に在るものを人々と分かち合っている人が言う「愛」は、言葉こそ同じですが実態がまるで違います。
これが「私的な言語」の領域です。
それは、「公的な言語」のような一般性を持っておらず、「親しい人」以外にはまるで通じないものなのです。
◎「公的な言語」に翻訳するのは、他人に語る際のマナーである
こんな風に、たとえ同じ言葉であっても、人によって「そこに乗せる意味」が変わってくるので、これをそのまま「公的な場」に持ち込むと、誤解や論争が巻き起こってしまいます。
問題は、「自我が未発達な人」は「他者が自分とは違う意味を言葉に乗せているかもしれない」ということについて想像することが難しい点です。
「自我が未発達な人」は「誰もが自分と同じ仕方で言葉を使っている」と思い込んでいて、他人が「それってどういう意味?」と聞き返してくると、「なんで通じないんだ!」と腹を立てたりするのです。
でも、「私的な言語」が他人に通じないのは当たり前のことです。
それは当人にとっては「わかりきったこと」なのですが、他人からすると完全に「ブラックボックス」なのですから。
たとえば、私は「孤独」と「孤立」という言葉を自覚的に使い分けています。
私にとって「孤独」とは、
「誰もが自分の人生を生きて死ぬしかなく、他者との100%完璧な相互理解に至ることは不可能である」という事実のことです。
そういう意味で、「孤独」というのは私たち全員にとっての「人生の前提」であって、「孤独でない人」は存在しないことになります。
それに対して、「孤立」というのは、
私にとって「社会的に人から隔絶してしまっている状態」のことです。
たとえば、「仕事や学校に行っていない」とか、「部屋に閉じこもって家族とも顔を合わせない」とかいった場合、その人は私の言葉の定義から言えば「孤独」である上に「孤立」もしていることになります。
しかし、「人生の絶対的な前提」である「孤独」と違って、「孤立」というのは解消することが可能です。
仕事や学校に行っていなかった人は、福祉サービスなどの助けを借りて職場や学校に復帰すれば、「孤立した状況」は解消されます。
そういうわけで、私はいつも
「孤独については受け入れましょう。孤立については、必要に応じて解消しましょう」と提言しているわけなのです。
ですが、こういった「孤独」と「孤立」の定義というのは決して一般的なものではなく、あくまで「私個人でしている定義づけ」です。
そういう意味で、これは「私的な言語」であるわけです。
私自身はそれをよくよく自覚しているので、何の前置きもなく、いきなりこの定義で「孤独」や「孤立」について他人に語ったりはしません。
いつもなるべく「私はこういう意味でこの言葉を使っています」と説明してから、話し始めるようにしています。
なぜならそれが、「私的な言語」を「公的な場」に持ち込む際のマナーであると、私は思っているからです。
◎探求の世界では「誤解」が生じる危険が多い
もちろん、既によく知っている友人や知人と話す時には、「私的な言語」をそのまま使っても通じるでしょう。
ですが、まだよく知らない人と話す時や、不特定多数の人に向かって語る時には、「私的な言語」をなるべく「公的な言語」に翻訳する作業が欠かせません。
でないと、人によっては誤解や曲解をしてしまい、意図が正確に伝わらなくなる可能性が高まるからです。
しかし、「自我が未発達な人」は、こういった配慮をすることができません。
そういった人というのは、「他者が自分と違う意味を言葉に乗せているかもしれない」ということが想像できないので、「私的な言語」を「公的な場」にそのまま持ち込んでしまい、「どうして理解されないんだ!」と一人で苛立ってしまうのです。
しかし、先ほども書きましたように、理解されないのは当たり前なのです。
なぜなら、他の人には、その人がどういう意図でその言葉を使っているのかが、よくわからないからです。
you tubeのコメントを見ていても、そういう人は結構います。
抽象的な言葉を使って象徴的な語り方をし、論理展開もなく、短文だけ書き込む人がかなり多いんです。
そうなると、前後の文脈もないから、その人の言っていることを理解することが私にはほとんどできません。
もちろん、「他人から理解されなくてもいいから、自分の気持ちをとにかく表現したい」と思って書いている人もいるでしょうけれど、「そもそも自分は他人から理解してもらえる仕方で言葉を書いていない」ということに無自覚な人も、結構いるのではないかと思っています。
特に、真理の探求の道においては、「多義的な言葉」がたくさんあります。
まず「悟り」という言葉がその最たるものでしょう。
人によって、「悟り」という言葉に乗せる意味は全然違いますから、迂闊にこの言葉を使ってコミュニケーションをとると「誤解」が山ほど生まれてきてしまいます。
また、「自分」という言葉も、探求の道においては多義的です。
一般的に、「自分と言ったらこの自分のことだ」と人々は疑っていませんが、探求者は「自分」というものがどれほど複雑な多層構造になっているかよくよく自覚しています。
たとえば、人は時に意識の表層で飛び回っている「マインド」のことを「自分」と呼び、その奥にいる「自我」のことを「自分」と呼びます。
人格や記憶、個性や特性を「自分」と同一視している人もいれば、肩書や身体的な特徴と「自己同一化」している人も多いです。
しかし、探求者にとっての「真の自己」というのは、あくまで「意識」のことであって、上記の全ては「本当の自分」ではありません。
つまり、世間一般の人たちが「自分」だと思い込んでいるものは、探求者にとって「偽りの自己」に過ぎないわけです。
瞑想の経験が長い人は上記の事情がよく分かっているので、瞑想に熟達した人同士で話す時は、「自己と言ったら意識のことだよね」という共通認識で話せます。
要は、「私的な言語」でそのままコミュニケーションが取ることが可能なのです。
でも、まだ瞑想を始めたばかりの人だったり、そもそも瞑想をやったことがない世間一般の人たちだったりに向かって語る時には、「自分」という言葉についている「手垢」をきっちり落として使わないと、致命的な仕方で誤解される危険性があります。
つまり、「あなたたちが『自分』だと思い込んでいるものは、実は『仮初のもの』なのだ」ということを、相手にも理解できる仕方で説明してからでないと、「真の自己」についての話が進められないわけです。
たぶん、そういうのが面倒だから、覚者の中には一般人を相手にしない人もいるのだろうと思います。
まあ、まだ「真の自己」を真剣に求めるだけの動機が内側で熟していない人に向かって語るのは、労力がかかりますからね。
ただ、私としては、別に「悟ること」までは考えていなくても、「現に苦しみながら生きている人が少しでも前に進めるように」と思って情報発信をしているので、なるべく多くの人に「言っていること」を理解してもらいたいのです。
だからこそ私は、いつも言葉の意味をなるべく丁寧に説明するようにしています。
◎「理解し合えない」からと言って、説明を放棄しないこと
考えてみれば、私の活動のほとんどは、そうやって「言葉の意味を説明すること」に終始しているような気もします。
「自由とは何か?」
「愛とは何か?」
「幸福とは何か?」
人々はこういった言葉にそれぞれ「独自の意味」を乗せています。
もちろん、私もそうです。
だからこそ、私は私自身がこれらの言葉に乗せている意味を少しでも理解してもらいたくて、そして、できればそれを人々に自分で生きてほしくて、こうして言葉を紡ぎ続けているわけです。
実際、私のブログ記事をたくさん読んでいる人や、you tubeで講話動画を何十本も観ている人たちは、私が「自由」や「愛」や「幸福」という言葉に、どういう意味を乗せているか、かなり正確に理解できているのではないかと思います。
そして、人によってはそういったものに価値を見出し、「自分もまたそれを生きてみたい!」と思って瞑想や身体のワークを実践しているかもしれません。
でも、「自我が未発達な人」は私がこういった言葉に「独自の意味」を乗せていることを理解できないのではないかと思います。
そうして、たぶん当人はそのまま「自分にしか理解できない世界」から外に出てくることがないでしょう。
逆に、「他者が自分とは違う仕方で世界を生きているかもしれない」という想像力が働く人は、私の言葉に触れることで、「そんな世界もあるのか!」と感じて、視界が開ける場合もあるかもしれません。
そういう人に対しては、割とスッと言葉が通るところがあって、「すんなり納得できて腑に落ちました」という感想をもらうことも多々あります。
私が語る言葉というのは、「わかる人」にはちゃんとわかるわけです。
でも、「自分だけの世界」に閉じこもっている人の場合、「自分なりの解釈」を絶えず持ち込みながら話を聞くので、私が言っていることとはまるで違う意味に取ることがあります。
私としては、「そんなこと言ってないんだけどなー」と思うのですが、どれだけ丁寧に説明しても、誤解はどうしたって残ります。
さっきも言いましたように、人間というのは「孤独」なものなので、完璧に理解し合うことはそもそもできません。
こればっかりは、どうしようもないと思います。
しかし、「完璧な理解が不可能である」からといって、「だから最初から理解できるように語らなくていい」という話にはなりません。
たとえ「完璧な相互理解」が不可能であったとしても、なるべく誤解やすれ違いを減らす努力はするべきだと私は思っています。
そうした努力を払って初めて、「話が通じるか通じないかギリギリのところにいる人」の元に、言葉を届けることができるはずだと、私自身は思っています。
◎瞑想は「主観性」を突き詰めることで「客観性の極致」に突き抜ける道
ただ、「他者に対して閉じている人」がいるのは事実です。
そういった人に対しては、どんなに丁寧に説明しても、言葉が一切届きません。
私としては、なんとかしてそういう「閉じた状態」を開きたいと思っているのですが、それを「無理やり開ける」ということはできないんです。
これに関しては、「自分はずっと閉じていたのだ」という事実には、当人が自分自身で気づくしか無くて、他人が代わりに気づいても意味がありません。
逆に言うと、本人が気づいてさえしまえば、たとえ世界全体がひっくり返っても、その人の気づきは消えないでしょう。
だからこそ、「気づき」が大事なんです。
「自分自身で気づく」ということこそが全てです。
そしてそのためにも、瞑想が必要となるのです。
しかし、逆説的なことに、瞑想とは「外側の世界を消し去って、ひたすら内側を掘っていく道」です。
不思議なのですが、人は「主観性」を突きつめていくことによって、
かえって「客観性の極致」みたいなところに出ます。
「自分自身」について見つめ続けることによって、なぜか「他人のこと」が理解できるようになるわけですね。
逆に、「他人の顔色」や「世間の流れ」ばかりうかがっている人は、いつも自分の外側の事情に振り回されていて、落ち着いて「物事の在り方」をそのまま見ることができません。
そうして「自分なりの仕方」で絶えず現実を曲解してしまうんですね。
また、そういった人は、「いつも外側に振り回されている」という感覚があるので、「被害者意識」が強くなりやすい傾向があります。
あまりにも外側に振り回されているので、「自分は何も悪くない!いつも誰かや何かが自分のことを苦しめているんだ!」という考えを当人は持ちやすいわけです。
反対に、「自分の内側」にしっかり定待っている人は、「外側」を落ち着いて見ることができるので、むやみやたらと他人を責めたりはしないものです。
理非曲直を正して、当人はあくまで「価値中立的」に語ります。
内側に「確固とした足場」ができることで、物事を冷静に見ていられるようになるのですね。
そうして結果的に、自分のことも他人のことも、的確に理解できるようになるのです。
◎終わりに
いずれにせよ、私たちは誰もが「私的な生」を生きています。
それは他人と代替することが不可能であり、それゆえに、「完璧な相互理解」に至ることもありません。
でも、その「不可能性」についてだけは、きちんと自覚しておいたほうがいいだろうと思います。
誰もが「この自分」と同じわけではなく、みんな違っているということ。
それが、「人生の前提」です。
だからこそ、「自分の言葉が通じるのは当たり前だ」と考えず、情理を尽くして語る姿勢が大事であると思います。
そして、そうした仕方で語る時、その言葉はほんの少しだけ、「遠くで生きる誰か」の元に届きやすくなるかもしれません。

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