あいかわらず執筆を続けています。
それで、書くべきことも残り少なくなってきたので、タイトルを決めました。
『「自由」とは、深く息ができるということ―呼吸と瞑想で「内なる光」を生きる』
これにしました。
この本のテーマは「自由」であり、「自由の定義」を私は常々「深く息ができることだ」と言っているので、それをストレートにタイトルにしました。
また、呼吸法と瞑想の実践について書いた本であることと、「最終的には読者一人一人が『自分自身の内なる光』を生きてほしい」という願いを込めて、副題は『呼吸と瞑想で「内なる光」を生きる』としました。
いずれにせよ、タイトルが決まるとなんとなく枠組みがはっきりしたように感じて、私も息が深くなります。
それで、今夜は第九章の「瞑想的な日常生活」について書いていました。
ここまでの章で、呼吸法の実践によって「深い呼吸(調息)」を実現し、そこから「生命力にあふれた姿勢(調身)」や「波が静止した心(調心)」を確立する道筋を解説してきました。
そして、この「調心・調息・調身」という三位一体が確立されることで、「瞑想状態」が無努力で自然発生し始めます。
図にすると下のような感じです。

そうして瞑想が自然と起こるようになったら、この「無努力な瞑想」を日常の中に持ち込んで、日々の暮らしに定着させていきます。
なんでそんなことをするかと言うと、「眉間のブロック」を解除するためです。
そもそも、「眉間のブロック」は「自我(エゴ)」が牛耳っている「ブロック」です。
「自我」は絶えず理想を握りしめては、世界に向かって「こうでなければならない」と言って要求します。
そして、そうした理想と現実が食い違った時、当人は「なぜ思い通りにならないのだ!」と言って苦悩することになるのです。
それゆえ、「眉間のブロック」を解除するためには、「自我」には理想を手放してもらう必要があります。
要は、「こうでないと絶対に嫌だ!」というこだわりを一切放棄してもらうわけです。
そのためには、努力して実践することも捨てなければなりません。
なぜなら、意図的な努力は「自我」が意志しておこなうものだからです。
私がなぜ呼吸法の実践だけで話を終えなかったかと言うと、呼吸法は「努力をして実践する」という次元を超えることができないからです。
意図して集中して実践をする限り、「自我の活性化」を免れることはできません。
それゆえ、その人は前に進もうとすればするほど、かえって「自我」が強まってしまい、「眉間のブロック」が解除されなくなってしまうのです。
このピット・フォール(落とし穴)を回避するためには、「努力しない実践」をおこなうしかありません。
そして、それこそが「調心・調息・調身」の三位一体に支えられた「無努力な瞑想状態」によって生きられる「瞑想的な日常生活」なのです。
そうして、ひたすら「無努力な実践」を生き続けることによって、「自我」は徐々にその力を失っていき、理想が一つずつ手放されていきます。
最終的に、「自我」は「眉間のブロック」を維持できなくなって後退し、この地点を息が開通するようになるでしょう。
この時、当人の身体からは全ての「ブロック」が取り除かれることになります。
すると、その人は初めて天と地を結ぶ「呼吸の軸」の中に、自分が含まれているのを感じます。
それと同時に、「詰まり」も「痛み」も「強張り」もなくなった身体は、存在感を失って消えていき、「自分は今、天地と一つだ」と感じるのです。
これが、古来より「悟り」とか「解脱」とか言われてきたものであろうと思います。
しかし、「悟り」というのは決して「悟ったら終わり」と言うようなものではなく、日々新たに悟り直していくものです。
実際、もし「悟り」に到達したとしても、再び理想を握りしめれば、その時はまた「眉間のブロック」が復活して天地から切り離されてしまいます。
また、何らかの感情を抑圧して身体を硬直させれば、他の部位にも「ブロック」が再生してきて、深い呼吸が阻害されるため、当人の心と身体は「自由」を失ってしまうのです。
だから、日々新たに「悟り」を表現し続ける必要があります。
絶えず、「自由」を体現し続ける必要があるのです。
このことについて、曹洞宗の祖である道元禅師はこんなことを言っています。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ
『正法眼蔵』「現成公案」 道元
「悟迹」というのは、「自分は悟った」という意識のことです。
「悟」というのは「悟り」を意味し、「迹」は足跡のことです。
つまり、「悟迹」というのは、直訳すると「悟りの跡形」ということになると思います。
そして、その次の休歇というのは「止める」とか「休む」とかいう意味です。
休はそのまま「休む」という字ですし、歇という字も「やめる、とまる、休む」という意味を持っています。
そして、道元禅師は「悟迹の休歇というものがある」と言います。
それは「『悟りの跡形』を休ませろ」ということであり、つまりは「そんなものは捨ててしまえ」ということです。
言い換えれば、「『自分は悟った』という意識に留まるな」ということになります。
なぜなら、「自分は悟った人間だ」という意識さえもが、そこにしがみつけば「新たな束縛」になってしまうからです。
そして、道元禅師はさらに続けて、「休歇なる悟迹を長長出ならしむ」と言います。
これはつまり、「『悟った』という意識を捨てた状態を、どこまでも表現していけ」ということです。
多くの人は勘違いしていますが、探求というのは「悟ったら終わり」ではありません。
むしろ、そこから「本当の旅」が始まるのです。
しかし、その「旅」にはもはや「悟りというゴール」がありません。
それゆえ、その人はもう「悟りというゴール」によって束縛されることさえもなくなり、そのような自分の「跡形のない悟り」を、どこを目指すこともなく、日々表現し続けるのです。
なので、私が今書いている本も「ゴール」は設定していません。
私はただ、「あなたの光を生きていってほしい」としか言いません。
そして、それは本当のことなのです。
「ゴール」など、どこにも存在していません。
だからこそ、私たちは「自由」であることができます。
もしも「ゴール」が決まっていたら、私たちはそこから外れることができませんし、「ゴールを達成すること」という目的意識によって、人生全体を束縛されます。
だから、「ゴール」を忘れてただ「遊ぶ」ことです。
呼吸を深め、心の声に耳を澄ませる時、そこに「命の声」が聞こえてきます。
もしもその声が聞こえたら、あなたの心が求める「遊び」を精いっぱい生きればいいのです。
その時、あなたの行為の全てが「神聖なもの」となり、何でもない日常が、そのまま「祝祭」となるでしょう。
ということで、せっせと原稿を書き進めています。
残りは、十章とあとがきだけ。
もう少しです。

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