「恋」と「愛」との違いについて。
「恋」というのは、「セックス」と分かちがたく結びついています。
それゆえ、「恋」に落ちると、その人の全身の細胞は「性的な感覚」によって高揚します。
そもそも、私たちの生命力の根源は「性的なエネルギー」であるため、「恋」に落ちるとその人の生命力は増大します。
実際、「恋」をすると、目に見える景色が輝いて見えるようになり、呼吸は自然と深まるものです。
だからこそ、人は「恋」というものに憧れを抱きますし、「恋」をしている人の目は「生命の炎」で輝いているのです。
普通、自慰行為をする際にも「性的な感覚」は発生しますが、それは性器だけに限定されることが多く、全身の細胞を巻き込みません。
しかし、「恋」をすると「性的な感覚」が全身の細胞をくまなく巻き込んでいくため、その人の全身が「性的」になります。
それゆえ、どうしてもその人の言動は「相手とセックスをすること」へと向かわざるを得なくなります。
結果として、「恋する相手」への思いやりも、気遣いや対話も、「相手とセックスをするための取引」のような様相を帯びがちです。
つまり、「純粋な善意」や「素直な好意」から相手に優しくすることができず、そこにいつも「セックス」が介入してくるのです。
それが「恋」というものの特徴であり、限界でもあります。
ただ、「恋」は一時的にその人の頭(自我)を凌駕します。
実際、「恋」をすると、その人は一時的に「頭無し」になります。
前後の見境がつかなくなり、「過去」と「未来」が消失し、「今ここの相手」しか見えなくなるのです。
その時、当人は心と身体の声に従っていて、頭はどこかに行っています。
そのため、周囲の人からすると、当人の行動は危なっかしく見えるものです。
なぜなら、「恋」をしている人は「冷静に考える力」を失っているからです。
ですが、その姿は「生命の躍動」そのものです。
頭の介入がなくなるため、その人はより「動物的」になり、「野性的な心」を表現するようになります。
そこには「頭によって縛られている人々」にはない「磁力」があり、当人は他人の目から魅力的に見えることもあります。
というのも、その時その人は「頭による計算」によって外部の都合に合わせなくなり、あくまでも「自分の心と身体の声」に従って自発的に行動するようになるからです。
つまり、動機が「外側」ではなく「内側」に存在するようになるのです。
「外発的な動機から行為する人」は操り人形のようなものであり、他人の心を惹きつけません。
もちろん、年収やSNSのフォロワー数などのような「頭にも理解できる数値」が大きければ、同じように「頭でしか物事を理解できない人々」の関心を引くことはあります。
でも、「内発的な動機を持たない人」は、たとえ他人の関心は引けたとしても、心を震わせることはできないものです。
他人の心を震わせることができるのは、「内側に動機を持っている人」だけです。
彼/彼女は、いつも「自分自身の内なる声」に従っており、「より大きなもの」とつながっています。
その姿が、見る人の心を動かし、「震え」を伝播させるのです。
このため、「恋」をしている人は、他人の目からも魅力的に見えます。
実際、「恋」をして輝いている人を見て、さらにその人に「恋」をしてしまう人もいるでしょう。
それゆえ、「恋」というのは時として、「生命力の伝播」を生むこともあり得ます。
ただ、先ほども書きましたように、「恋」はいつも「セックスという行為」によって縛られており、「いかにして相手とセックスするか」という執着と不可分の関係にあります。
それが「恋」というものを「不自由」にしており、その限界を形作っているのです。
それに対して、「愛」というのは「セックス」によって束縛されていません。
「愛」の中にある人は、純粋に相手のことを配慮しており、「見返り」を求めていないのです。
その人は、「この人のために良かれ」と思って行為をし、究極的には「ただ生きていてさえくれればいい」と願います。
このため、「愛」には「取り引き的な要素」がありません。
つまり、ある人が誰かを「愛する」のは、決して何かを得るためではないのです。
人はただ「愛する」だけです。
そこにはいかなる「ゴール」もなく、「達成すべき目標」もありません。
それゆえに、その行為は常に「純粋」で、「心からのもの」となるのです。
ただ、「愛」も「特定の個人」に限定されている場合には、まだ限界づけられています。
たとえば、「自分の子どもだから愛する」とか、「自分の夫だから愛する」とかいった形で、「特定の個人だけを愛する」場合、その「愛」は純粋なものではあるものの、どこか閉鎖的なものでもあります。
ですが、もしも当人の「幸福感」が高まって、そのエネルギーが外にまで溢れ出すと、「愛」は「特定の個人」に限定されなくなります。
その時その人は「誰かを愛する」のではなく、「愛として在る」ような状態になります。
「愛」というエネルギーが「特定の誰か」にだけ向かなくなり、全方位に放射されるようになるのです。
その人は、会う人みんなに「愛」を振りまきますが、別に当人は「この人を愛そう」と意識していません。
ただ、「愛」が溢れてこぼれ出しているので、結果的に彼/彼女とかかわる人はみんな、その人の「愛」に触れてしまうことになるだけなのです。
こういった人の「愛」は開放的で、「誰々だから愛する」といった形で限定されていません。
むしろ、当人にはそのような「行き先」のコントロールができません。
「豊かさ」が溢れて止まらないので、当人にもその「届け先」を制御することができないのです。
このように、「恋」は「セックス」によって縛られ、一般的な意味での「愛」は「特定の相手」によって限定されていますが、最終的に「愛」は「行為」ではなく「状態」になります。
人は「愛する」のではなく、「愛として在る」ようになっていきます。
その時初めてその人の「愛」は限界を失い、全方位に向かって溢れ出します。
でも、別にそれは「特別な状態」ではありません。
実際、幸福いっぱいに生きて深く呼吸をしている人は、みんなそれを体現しています。
彼/彼女にかかわる人は、自然とたくさんの「贈り物」を受け取るでしょう。
その人が振りまく「無垢な笑顔」が、その人の言葉が帯びる「温かな感触」が、まわりで生きる人々のことまで、自然と笑顔にするのです。

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