「自我」と「魂」の間で生じる綱引き|苦しみと向き合うことで、自動的に理想は放棄される

先ほど、読者の方とメールでやり取りをする中で、非常に重要な論点について触れたので、ブログでも共有しておこうと思います。

このところは「身体論」の記事が多かったですが、今回は久々に「真理の探求」についての話です。

そのメールでやり取りをした方は、現在、自覚的に「自身の苦しみ」と向き合っておられるようだったのですが、そのように「自分から積極的に苦しみと向き合う」というのは、瞑想の実践上、大きな意味を持ちます。

なぜなら、そうして「苦しみ」から逃げないでいることによって、当人の「自我」は支配力を失っていくからです。

そもそも、私たちは「自我」に絶えず行動を支配されています。

「自我」は私たちに「人生という舞台」を用意し、そこで「特別な存在を目指すレース」をさせ続けようとします。

それゆえ「自我」は、「もっと社会的に成功しろ」と言い、「他人から認められるようになれ」と言ってくるわけです。

これこそが「承認欲求」の正体です。

そうして「自我」は、「外側の世界」に目を向けさせ続けることで、私たちが「内側の世界」に目を向けないようにしています。

なぜなら、もしも私たちが「外側の価値」ではなく、「内側の価値」に根付いてしまうと、「自我」は私たちへの支配力を失ってしまうからです。

たとえば、私たちがもし「他人から認められること」よりも「自分らしく在ること」を優先するようになり、「他人から愛されること」よりも「内側の愛と共に生きて行くこと」を優先するようになると、「自我」は困ってしまいます。

というのも、そういう人間は外から操作してコントロールすることができないからです。

こうなると、「自我」がたとえ「他人から認められるように努力しろ」と言っても、当人は意に介さなくなっていきます。

なぜなら、当人は「他人から認められるかどうかより、自分として在れるかどうかのほうが大事だ」と思うようになるからです。

そうして、当人の中では「他人からはこのように思われなければならない」という理想が放棄されていき、「苦しみ」が生まれなくなっていきます。

そもそも、「苦しみ」がなぜ生まれるかと言うと、理想と現実との間にギャップがあるからです。

私たちは、「自我」の策略によって「こうでなければならない」という理想を無意識に握りしめていますが、現実は理想の通りになるとは限りません。

それゆえ、現実と理想がミスマッチを起こした時、当人は「こんな世界は受け入れられない!」と感じて苦しむのです。

逆に、もしも「こうでなければならない」という想いを完全に手放すことができると、たとえ現実で何が起ころうと、そのことで当人は苦しまなくなります。

なぜなら、その時の当人には「起こること」をなんでもそのまま受け入れる用意があるからです。

これをして、「天に任せる」とか「自然じねんに委ねる」とか私は言うわけです。

この状態になると、「自我」によって現実の認識を歪められることがなくなるので、事実を「ありのまま」に見通すことができます。

「心が自由な人」は現実を客観的に認識する能力が高いですが、それは「自我」によって認識を歪められることがないからです。

逆に、「自我」が多くの理想(こうでなければならない)を握りしめていると、その分だけ現実の認識は歪みます。

たとえば、「こうなったらどうしよう」という不安が強くなり過ぎて、物事を中立的に落ち着いて見られなくなったりします。

だからこそ、理想を手放して透明になった心には、物事が「ありのまま」に映ることになるのです。

これを図で示すとこんな感じです。

このため、内側に理想が残っている限り、苦しみが消えることはありません。

というのも、現実は決して私たちの理想通りにはならないからです。

逆に、そうした理想と現実とのギャップによって生じる「苦しみ」を意識的に味わうようにしていくと、当人の内側からは徐々に理想がなくなり始めます。

そもそもこういった「苦しみ」を私たちの進路上に置いているのは「自我」なのです。

「自我」は、私たちに理想を放棄してほしくありません。

なぜなら、もしも理想を完全になくしてしまうと、その時には「自我」は「理想的な世界」に向かって私たちを走らせる「ゲーム」を続けることができなくなるからです。

その時、「自我」は存在意義を失います。

私たちが「理想に向かって走ること」をやめ、「あるがままの自分に定まること」を優先することで、「自我」は「すること」がなくなってしまうのです。

そうならないようにするために、「自我」は私たちが「自由」に向かって進んでいこうとすると、その進路上に「苦しみ」を置いて妨害してきます。

「自我」からしたらそれは、「自身の存在意義を守る戦い」であり、当人にとっては「真理を探求する旅路」です。

ここでは、「真理を悟らせたくない自我」と「真理を理解したい魂」との間で綱引きが起こっています。

そして、「苦しみの中にあえて留まること」を「その人の魂」が選び取るなら、「自我」はどこかの段階で降参します。

「この魂は、苦しみをものともせずに『自由』に向かって進んでいく」ということを「自我」が理解し始める時、「自我」は当人の進路上に「苦しみ」を置くことを止めます。

なぜなら、「そんなことをしてもこの魂には効果がない」と、「自我」が学び始めるからです。

これが、精神的な現象としては、「理想が放棄されていく」という形で現れます。

そうして当人はずっと背負ってきた「荷物」を降ろして身軽になり、より「自由」に活き活きと生きていけるようになるのです。

というわけで、「苦しみとあえて向き合うこと」は、「とても上質な瞑想」となります。

それは「自我」に対して、「自分はもう退くことをしない。自分は『自由』を理解するために苦しみと向き合う用意がある」と宣言することに他なりません。

そして、「自我」がこのような「当人の気骨」を理解した時、自動的に「理想の放棄」は始まっていき、やがて当人は「自由=真理」を理解するに至るのです。


と言うような話をメールでしました。

「なんのことだかわからん」という人もいるかもしれませんけれど、そういう人も、もし「自由」を求め続けるならば、いつか理解できるようになると思います。

ということで、メールでのやり取りをシェアしました。

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