「現実」と「虚構」のオセロ|「身体に根付く者」と「頭で思索する者」の対比について

自伝を書いていて思ったのですが、私の言っていることは、頭だけで考えている人には「空疎な綺麗ごと」に聞こえるのではないかと思います。

私は「幸福」とか「自由」という言葉を頻繁に使いますが、これらの言葉を「頭だけで思索する人々」は「実体のない虚構」みたいに思っていることでしょう。

特に、私は「あなたの『光』を生きてほしい」ということを何度も繰り返し言っていますが、これもまた、頭だけで考える人からすると、「光なんてどこに在る?」ということになるはずです。

でも、私にとってこれらは全て「血肉を伴った真実」です。

たとえば、「幸福」とは、心が透明になった時に自然発生する「清々しい快の感覚」であり、私は毎日、この感覚の中で生きています。

そして、「自由」とは「深く息ができる」ということであり、息が詰まっていたら、そこに「自由」はありません。

また、「光」についてですが、これは私が合氣道を稽古していた時の経験に由来しています。

当時、瞑想法と呼吸法の実践を続けていった果てに、私は他人の意識状態が目で見て視認できるようになったのです。

当時の私には、意識的に生きている人は頭のあたりがぼんやり光って見えて、逆に無感覚に機械的な生き方をしている人の頭の周りは暗い雲みたいなもので覆われていました。

ちなみに、私がこれまでに見た人の中で一番光っていた人は、私の合氣道の師の師にあたる「多田ひろし師範」という人でした。

この人は「光ってる」という次元じゃなくて、もう「ビカビカと発光して」いました。

そして、多田師範の近くで呼吸法をしていると、多田師範のほうを向いている身体の前面だけが妙に温かくなり、自然とポカポカしてきたものです。

だから、私からすると「内なる光」というのは別に何かのメタファーとかじゃないんです。

本当に人というものの本質は「光」なのです。

でも、頭だけで思索する人たちは、「幸福の味」も知らなければ、「自由の旨さ」も知らないでしょう。

そうして「光なんて非科学的な妄想だ」と断じるはずです。

でも、私からすれば、彼らが現実(リアル)だと思い込んでいる「自我」や「世界」のほうこそが「虚構(フィクション)」です。

これに関しては、瞑想の実践を突き詰めていった古今東西の聖者や賢者たちの全員が私の証人になってくれるでしょう。

実際、「自我」というのは「本当の自分(意識)」の上に、後になってからくっついた付属物に過ぎません。

それは人格や自由意志を混ぜ合わせて固めただけの「実体のないフィクション」なのです。

そして、「世界」という観念もまた「虚構」です。

人々は「世界というものが自分の外側に存在していて、その中に自分が生きている」と思っていますが、本当は違います。

実際には、「世界が実在するから自分が存在する」のではなくて、「自分(意識)が実在するからこそ、その心の反映としての世界は存立できる」のです。

だから、「世界」が私たちを創造したのではありません。

そうではなくて、むしろ私たちのほうこそが、「世界」を創造したのです。


こうした点において、身体の感覚を伴わないまま書斎で思索し続ける哲学者たちの見解は、私の考えと見事にひっくり返っています。

頭でっかちになっている思索家は、「幸福」と「自由」をあくまでも「知的な概念」としてもてあそび、当人はそこから「思想のようなもの」を練り上げることでしょう。

しかし、私からするとそれは、「概念」という空疎な材料で作った「夢想」です。

こういった場合、思索している当人は実際には「幸福」でないことが多いでしょうし、知識や権威に縛られて、「自由な呼吸」とは縁遠い生活をしているはずです。

そして、そのような「空疎な言葉」は、人の心を震わせることもできなければ、その実存を揺るがすこともできないのです。

「自分の実存」をそのまま表すことができた時、初めてその人の語る言葉は、人々の信じる「虚構」を打ち壊す「弾丸」に成り得ます。

逆に、「自身の存在」を賭けないまま語られる言葉は空疎であり、それはむしろ、人々の中にある「虚構への盲従」を助長するだけでしょう。

しかし実際には、人々が盲従している「自我」も「世界」も「幻」です。

実在するのは「幸福」や「自由」のほうであって、人は本来的に「光」なのです。


たぶん、私は自分に賛成してくれる人が世界に一人もいなくなっても、同じことを言い続けていると思います。

なぜなら、それが「私にとっての真実」だからです。

でも、きっと頭でっかちな思索家自身も、心のどこかでわかっているはずです。

自分の思索は、しょせん「安全圏」でおこなわれている「空疎な遊戯」に過ぎないと。

それゆえに、考えれば考えるほど、当人の思想は地に足のついていない浮ついたものになり、「現実」の中に根を張ることができなくなっていくのです。

「自身の内なる空虚」を見つめた時、「その人の瞑想」は始まります。

そこには「空虚さ」が在るはずです。

「無いもの」が在るんです。

だとしたら、それは実際のところ「無」なのでしょうか?

それともそれは「有」でしょうか?

その答えを、自分自身で身をもって確かめない限り、知的な思索は「空疎な概念の迷路」から、抜け出すことができないでしょう。

コメント