ついさっき、新しい講話動画を撮ったのですが、その内容をブログでも文章化してみようと思います。
テーマは「思考はどうして湧いてくるのか?」ということです。
瞑想をしていると、無自覚な思考が湧いてきて、気が付くと我を失っていることが多いものです。
というか、「我を失っては戻ってくる」ということを終わりなく繰り返すことこそが、瞑想の実践というものです。
でも、どうしてこんなにも考え事が浮かんでくるのでしょうか?
私の観察したところ、「無自覚に浮かんでくる思考」というのは、主に二つのパターンに分類できます。
つまり、「未来についてのシミュレーション」か「過去についての反芻」か、どちらかです。
そもそも「無自覚な思考」においては、落ち着いて現状分析したりとか、深く物事を熟考したりとかいったことは起こらず、だいたいにおいて、条件反射的な「心の反応」として生起してきます。
そして、瞑想中に起こる「心の反応」はだいたいにおいて上記の二つに分類できると思うわけです。
それで、さらにこういった思考の根を辿っていってみると、「未来のシミュレーション」は「不安感」に、「過去の反芻」は「悔恨」につながっていることがわかります。
たとえば、翌日にある会議のことを何度も考えてしまう時、私たちは無意識に「こういう場面ではどう言おうか?」という「予行演習」を頭の中で繰り広げ始めます。
様々なケースを想定し、「こうなったらどうしよう」「ああなったらどうしよう」と考え続けてしまうのです。
もちろん、事前準備をすることは大切だと思います。
でも、別に「準備をしよう」を思っているわけでもないのに、気がつくと頭の中で「予行演習」を繰り返してしまうという場合、そこには「未来に対する不安感」が存在していると見たほうがいいでしょう。
実際、「まぁ、なるようになるだろう」と思っていると、こういった思考が無意識に浮かんでくることはありません。
だいたいにおいて、「本番」の時まで忘れています。
でも、「どうしても忘れていられない」というのであれば、そこには「不安感」があるはずです。
それに対して、「過去の記憶を反芻する」ということが起こるのであれば、きっとその過去に対する執着があるのだと思います。
「こうするべきだったのに」
「こうであるべきだったのに」
そういう想いが内側にこびりついている時に、私たちは無意識に過去の記憶を反芻しては、それを理想通りに変えようとしてもがきます。
そしてそれは、そうした過去の積み重ねとして現れている「今ここの自分」への不満足にもつながっています。
つまり、「あの時ああしていれば、今頃はこうなっていなかったのに」というわけです。
そんな風に「過去への悔恨」と「現状への不満」が混ぜ合わされた状態で内側に存在している時、私たちは無意識に過去の記憶を反芻してしまうものなのです。
であるならば、「未来への不安」と「過去への悔恨(現状への不満)」が払拭されれば、無意識の思考は格段に湧いてきにくくなるはずです。
つまり、未来については「まぁ、なるようになるべ」と楽観的に構え、過去については「今のまんまでも別にええんちゃうか」とそのまんま受け入れることができれば、思考に巻き込まれて無自覚になることは減るはずなのです。
とはいえ、それができたら苦労はしません。
やっぱり人は未来に不安を持つものですし、現状をそのまま受け入れられないからこそ、多くの人は瞑想を実践しているのだと思います。
でも、こんな風に思考を読み解いてみるだけでも、意味があると私は思っています。
なぜなら、多くの瞑想実践者は、「無自覚な思考」というだけでこれを完全に敵視してしまい、無理やり抑え込もうとするものだからです。
別に、思考は「悪者」ではありません。
思考がもしも浮かぶなら、そこには何か原因があるのでしょうし、思考もまた、私たちに見てもらいたがっているものです。
たとえば、もしも「未来についての思考」が絶えず浮かぶなら、それは「内側に不安がある」というメッセージです。
だとしたら、それを力ずくで抑え込もうとする前に、「そうか、自分の中には不安があるんだな」と認めることが大事だと思います。
また、「過去について記憶」が何度もよみがえってくるのなら、きっと内側には「執着」があるはずです。
「過去を理想通りに変えようとする想い」や、「現状に対する不満」があるのです。
なので、無意識に湧いてくる思考もまた、私たちに何かを気づかせてくれる「メッセージ」です。
それは、私たちの無意識が送ってくる一種の「お手紙」であるわけです。
それを「読まずに焼き捨てる」ということはせず、「どういうメッセージなのだろうな?」と思って眺めてみると、自分自身の思考とも、また違った付き合い方ができるのではないかと思います。

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