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【講話・第七回文字起こし】「真の現実」はどこに在る?

今回は、「真の実在」についての講話を文字起こししました。

瞑想をしたことのない人は、ほとんどの場合、世界や人生を「唯一のリアリティ」であると思っていますが、瞑想者はまた違った見方を取るものです。

瞑想者にとって、「意識」こそが「真のリアリティ」であり、軸足を置いていく「原点」となるのです。

本編動画はこちら⇓

以下、文字起こしした内容に、読みやすいよう手を加えたものを掲載します。

◎前置き

はい、講話の第7回ということで

今回は瞑想をある程度実践したことのある人向けに話をしようと思います

テーマとしては「真の実在は何なのか?」といったものです

たとえば、『マトリックス』という映画では

登場人物たちがもともと「現実」だと思っていた世界よりも

「さらに上位の世界」があるっていうような物語になっています

そして、この「さらに上位の世界」こそが、「真の実在」であると考えられているわけです

でも、本当にそうでしょうか?

今回の講話では、このことを深く考えていきましょう。

◎「本当の自分」は培養液の中の脳なのか?

例えば、私たちが夜眠っているときに夢を見ることがあります

夢を見ていると、時々「これは夢なんだ」って自覚することがありますけれど

多くの場合は自覚せずに、「これこそが現実だ」と思い込んで夢を見てるんですよね

でも、後で目覚めると、「あれは夢だったんだ」とわかるわけです

「本当の現実ってのはこっちだった」と、目覚めた後に思うんです

で、「それと同じようなことが、この現実世界でも実は起こってるんじゃないか?」
っていうことが想定が可能なんですよ

例えば

「本当の自分」というのは「より上位の世界」の方で培養液につけられた脳であって

その脳が電気信号を送られて、「バーチャルリアリティ」を生きてるんだ、とかね

それでその「バーチャルリアリティ」が

私たちが生きているこの「現実」である、という話になるわけです

これは、SF的な哲学のシミュレーションというか、思考実験なんですけれど

その場合、私たちが生きている「現実」は「本当の現実」ではなくて

「より上位」に、私たちが「現実」だと思っている世界を生み出している

「真の世界」があるんだっていうことになりますよね?

でもそこで、こんな風に考えてみてほしいんです

もしも何かの手違いから、培養液につけられた脳が目覚めてしまい

あなたが「より上位の世界」に目覚めることができたとします

その時、「今度こそこの世界が本当の世界なんだ」って言えるかどうか

言えると思います?

どうでしょうか?

一見すると、言えそうなんですけれど、よくよく考えるとそれもわからないんですよね

たとえば、夢を見てる時には、「これは現実なんだ」って思い込んでいて

で、目が覚めた後に「結局夢だったんだ」「現実ではなかったんだ」と思うんだけど

それと同じように、培養液の脳として目覚めて

「あれはバーチャルリアリティだったんだ」って気づいたとしても

そう気づいているその世界よりも

「さらに上位の世界」が存在するかもしれないじゃないですか?

それって、原理的に否定できないんですよ

たとえ、「自分は培養液の中の脳だったんだ」とわかったとしても

そう思っていること自体が一種の「夢」のようなものであるかもしれないんです

つまり、「自分は培養液の中の脳だったんだ」と思っているだけの「夢」を見ていて

そういう「夢」を作り出してる「さらに上位の世界」が存在しているのかもしれない

これって永遠に続くんですよ

だからね、「自分が今生きている世界が本当に本物の世界かどうか」っていうことは

問いかけてもあまり意味がないというか

結局、わからないんですよ

どこまで行っても、「さらに上位の世界」が存在するかもしれないんで

それについては結論を出しようがないんですね

◎「真の実在」は、「世界」を映している「スクリーン」である

そうなった時に

「じゃあ全ては幻かもしれないじゃないか」っていうことになるんですけど

そこで、瞑想をする人っていうのはね

「本物のリアリティというのはどこにあるのか?」ということを問うわけですね

もしもこの世界そのものが「幻」であるとするなら

「永遠に不変の実在」というのは

つまり、「真のリアリティ」というのはどこにあるのか?

そんな風に探求していくわけです

そして、そう自問していく場合において

瞑想する人というのは、その「実在」を「自己」に見出すことになります

つまり、「意識」こそが「実在」だと見なすんですね

これについては、よく「スクリーン」の比喩が使われます

「映画館のスクリーン」です

たとえば、映画館には「映画を映すスクリーン」があって

そこに様々な「映像」が映し出されます

そして、「映像」というのは目まぐるしく変化しますよね?

「面白い喜劇」が映るときもあるし、「非常に悲しい物語」が映るかもしれません

あるいは、「火事になって燃え上がる炎」が映るかもしれないし

「大波に飲まれて難破する船」が映るかもしれないですね

そんな具合で、「スクリーン」にはいろんなものが映るんですけど

それによって「スクリーン」自体は変わらないんです

「映像」はいろんな風に変わるんだけど、それに影響を受けないわけです

たとえ「難破する船」が映ろうと、「スクリーン」が濡れるわけじゃないし

「山が燃える映像」が映ろうと、「スクリーン」が燃えるわけじゃないですね

そして、そういう時、瞑想を実践する人というのは

「スクリーン」に映っている「映像」というのが「世界」である、と

つまり、私たちの生きている「人生」だという風に考える…

いえ、考えるというか、感じるわけですよ

「映像」を映している「スクリーン」こそが「自己」であって

「世界」というのは、しょせんそこに映る「映像」に過ぎなくて

現れては消えていく「幻」みたいなものであると感じるんです

なんで瞑想者がそう感じるかというと

瞑想の中で内側が静かになっていって

思考が沈静化して、感情が沈静化して、自我が黙っていって

「全くの静寂」に至った時、そこで「静寂を観ている者」を発見するからなんです

「全てを観ている者」、「ただ映像を映しているだけの者」ですね

あるいは、「在るだけの者」と言った方がいいかもしれないんですけれど

思考が沈静化して、感情が沈静化して、自我が黙って「静寂」が深まった時に

その「何もなさを観ている者」が、ただ在る

「存在」だけが残るっていうことを自覚するわけです

なので、瞑想をある程度実践している人というのは

この「スクリーン」に対して自覚を持っているんですよ

自分が生きているこの「人生」、この「世界」というものはしょせん「映像」に過ぎなくて

むしろ、「無数の映像」を映している「スクリーン」というものが

背後に常に在るんだと、確かに知っているわけです

◎人々は現れては消える「映像」に心を奪われながら生きている

例えば、夜寝ている時、夢を全く見ないときもあるじゃないですか?

そういうときって「スクリーン」に何も映ってないんですよね

映画館なんだけど「映像」を映していない

「映画がお休みの時間」ですね

夢を見ているときにも、夢はやっぱり「映像」として映っているんですけど

夢さえも見ないときは「映像」もないんですよね

でも、その間も「スクリーン」は存在してるんですよ

相変わらず「スクリーン」そのものは存在していて

だからこそ、眠りから覚めたときに

「夢を見ないでぐっすり眠っていたな」っていうんで

その感覚が残ってるんですよね

その間、「スクリーン」に何も映してなかったんですが

でも、「スクリーン」そのものは存在してたわけなんです

そんな感じで

たとえこの世界が「偽物の世界」に過ぎなくて、「より上位の世界」があるのだとしても

まるで「夢から覚める」みたいに、「この現実」を超越し

『マトリックス』みたいに「より上位の世界」に目覚めるということがあったとしても

そして、たとえそれらの世界全部が「偽物」だったり「作り物」に過ぎなかったとしても

「スクリーン」はそういったことに全く影響されず、不変なんです

結局、「上位の世界」に目覚めるっていうことは、夢から覚めるのと同じようなもので

「スクリーン」に映っているのが「夢」か「現実」か

あるいは、「より上位の世界」かっていうことは

「スクリーン」の本質とは関係ないんです

ただ「映っているもの」が変わるだけで

「スクリーン」自体はどこにいたとしても変わらないんですよ

夢の中にいても変わらない

夢から覚めても変わらない

あるいは『マトリックス』みたいに「より上位の世界」に目覚めても

やっぱり「スクリーン」はそのままなんですね

そしてそれが、「ただ在る」っていうことなんですよ

「静寂」の中にただ在る

そんな感じで、瞑想をある程度やっている人っていうのは

「世界」に対して囚われなくなっていきます

「映像としての世界」については気にしなくなっていって

むしろ、「映像を映しているスクリーン」の方に軸足が移ってくるんですね

でも、世の中のほとんどの人っていうのは、「世界」のほう

つまり「スクリーンに映っている映像」の方にのめり込みすぎているんです

「喜劇」が映ると笑い転げて

「悲劇」が映ると一緒になって泣いてしまうという形で

「自分の人生において起こること」や「この世界で起こること」に

非常に強い影響を受け続けるんです

「スクリーン」ではなく、「映像」のほうに軸足を取られているわけです

だからこそ動揺しやすいし、感情的な反応も起こりやすいんですね

でも、そういった「映像としての世界」を超えたところに

「全く変化しないスクリーン」が在るんです

そして、「ただ映像を映しているだけのスクリーン」が在るということを自覚すると

その人は「世界」に軸足を取られなくなって、感情的な動揺が起こりにくくなり

「世界は全て幻のようなものである」という実感が起こってくるんですね

◎「人生」は「一つの夢」のようなもの

とはいえ

別に、「世界は幻のようなものに過ぎない」と言ったって

「山を動かそう」と思って動かせるようにはならないわけですよ(笑)

やっぱり「現実の世界」は「現実的なルール」に則って存在しているとも言えるので

「現実なんて一切存在しないんだ」っていうふうに全否定するわけではないんです

ただ、軸足を移すんですよね

「この世界」っていうものは絶対的なものなんかじゃなくて

むしろ、「世界を映しているスクリーン」の方が絶対なんだっていうことです

そういうふうに思うと

「人生」とか「世界」っていうものが

一種の「映画」に過ぎないように感じられるわけです

例えば夢を見ているときに、「これは夢なんだ」って自覚すると

私たちは結構思い切ったことするじゃないですか?

「これはしょせん夢なんだから何したっていいや」って思ってね(笑)

それと同じで

「人生」とか「世界」っていうものも、一種の「夢みたいなもの」というか

「スクリーンに映っている映像」に過ぎないんだと感じるようになると

あんまり人生に対して深刻に考えなくなるんですよ

「これも夢みたいなものだしな」と気楽に考えるようになっていくんです

そうして

どうなるかわからない明日のことを恐れなくなっていって

否定されたりとか非難されたりとかいったことを恐れなくなっていって

たとえ「こんなことしたら社会的に孤立したりするかもしれない」と感じても

「まあ、でも別にもともと夢みたいなもんだしな」という感じで

気楽に考えて、自由に生きられるようになっていきます

心から「囚われ」がなくなるというか

徐々に徐々に、「外側の世界」から「内側のスクリーン」に軸足が移っていく

「映像」ではなくて「スクリーン」に対して軸足が移っていくわけです

それに伴って、「人生」や「世界」についてあまり深刻に考えなくなります

「これはしょせん映画みたいなものだ」と捉えるようになるからです

「どうせスクリーンに映っている映像」みたいなものであって

「夢」みたいなものなんだっていうことをね

「頭の思考」としてではなくて

もっと深い「感覚的なレベル」で感じ始めるんですよ

なので、「世界」や「人生」について深刻に考えすぎて辛くなっている人は

「スクリーン」に対して目覚めるってことが「救い」になるかもしれません

◎瞑想の実践によってこそ、「真の実在」は自覚できる

でも、さっきも言ったように、頭だけで考えてもダメなんです

「映像」しか見えていないまま、「映像」に取り込まれた状態で

「いや、自分は本当はスクリーンなんだ」って思おうとしても無理なんですよ

それに関しては

やはり瞑想を実際に実践する中で静かになっていって

「スクリーン上の映像」が消えるところまで行く必要があるんです

瞑想の中で内側が静かになっていくと

「映像」がだんだん薄くなって消えていきますから

そうすると、その奥に「スクリーン」が在ったんだってことに初めて気づくんですね

でも、多くの人は生まれてから死ぬまでずっと「映像」に心を奪われているんです

ずっと心にはいつも何かしら「映像」が映っていて

当人もそればっかり見ているものだから

その奥にある「スクリーン」に気づかないんですよ

「スクリーン」が在ることに気づかないまま

「映像こそが全てなんだ」って思って、ほとんどの人が生きてるわけです

なので、「スクリーン」の実在に気づくためには

まず瞑想で「映像」を薄めていく

そうして「映像」が薄くなった瞬間に

その奥に元から在った「スクリーン」が見えてくるようになるんですね

それで、一回でも「スクリーン」が見えるようになると

たとえ「映像」が映っていても

「その背後には常にスクリーンが在るんだ」っていうことを

分かった上で生きられるようになるんです

それって、「映像」に囚われながら生きているのとは、全然違うことなんです

「映像だけが唯一のリアリティなんだ」って思って生きてるのと

「これは映像であって、その向こうには不変のスクリーンが常にあるんだ」
「そして、そっちこそが真のリアリティなんだ」っていう風に自覚した上で生きるのとで

「生きる態度」が全然違ってくるんですね

まあ、そのためにも瞑想というのは役に立つと思いますので

人生や世界について深刻に捉えすぎて苦しくなっている人は

まず「スクリーン」の実在を自覚するということですね

内側を静かにして、「映像」を薄めていく

そうして、その向こう側にある「スクリーン」を自覚できるようにしていく

そういうことが大事なのではないかなと思いますね

はい、ということで

今回の講話はこんなところで終わろうと思います

ありがとうございました

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