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「師」に学ぶことのパラドクス|受け取った「ツルハシ」で、ただ「自分の内側」を掘ればいい

私はよく「私の言葉に寄りかからないようにしてください」と言います。

また、「私の言葉と自分の心が矛盾する時は、自分の心に従ってください」とも言っています。

つまり、私は「最終的に、私の言葉には従うな」と言っているわけです。

でも、それならそう言われて「はい、わかりました。従いません」と答えた場合、その人は結局、私の言うことに従っていることになってしまわないでしょうか?

「弟子」が抱える逆説パラドクスが、ここにはあります。

そもそも、「マスター」というのは、みんな同じことを言うのです。

彼らは口をそろえてこう言います。

「決して何にも従うことなく、ただ自分自身で在りなさい」

それに対して、「教師ティーチャー」というのは、「生徒」に向かってこう言います。

「決して自分を信じずに、ただ私の言うことに従いなさい」

これが、「師」と「教師」の間の決定的な違いです。

「教師」は「生徒」のことを、「コントロール可能な人形」に変えようとします。

「生徒」を自分の教えに寄りかからせ、それなしではやっていけないようにしてしまうのです。

逆に、「師」は「弟子」のことを決して「人形」にしようとはしません。

「師」は「答え」を与えるのではなく、「問い」を投げかけ続けます。

そうやって、「弟子」が自分自身の内側を見ざるを得ないようにさせ、外側にあるものに寄りかからないようにさせるわけです。

私が自分のことを「補助輪」だと言うのこのためです。

そもそも、私はできることなら「教師」ではなくて「師」でありたいと思っています。

私は、このブログの読者の方が、「私の言う通りに動く人形」になってほしくありません。

なぜなら、本当は「従うべき光」を誰もが内側に持っているからです。

それにもかかわらず、私という外側の人間に従い出すと、その人は「内側の光」を見失うことになってしまいます。

じゃあ、なんで私はこんなにたくさん文章やら動画やらを提供しているかというと、
それらは全て、ブログの読者が「内側の光」を思い出すための方便なのです。

私は決して「答え」を与えているわけではありません。

それらは全て、それぞれの人が、「自分の内なる光」を思い出すための「道具」に過ぎないのです。

それゆえ、それらの「道具」は、「要らなくなったら捨てていいもの」であり、もしも「内側の光」を思い出せたなら、私の言ったことはもう忘れてしまっていいわけです。

しかし、だからと言って、最初から私の言葉に耳を傾けなかったら、それはそれで道に迷ってしまうかもしれません。

もちろん、私の他に「師」がいるなら、その「師」を「補助輪」にすることで、「内なる光」を思い出したらいいでしょう。

でも、もしも「師」ではなく「教師」しか持っていないなら、その人はそのままだと「誰かに言われた通りに動く人形」になっていってしまいます。

だから、その人が「人形」でなくなるためには、どうしても「一時的に師に寄りかかる」というフェイズが必要になるのです。

ここには三つの段階があります。

  1. 「教師」にべったり寄りかかり、「自分の光」を完全に忘れてしまっている段階
  2. 「師」のもとで「内なる光」を徐々に思い出していく段階
  3. 「師」から離れ、「内なる光」に従って生きる段階

この三つです。

最初、「教師」の言うことに盲目的に従う段階では、その人は「内側の光」を完全に見失っています。

当人は内側に「信」を持っておらず、「自分はいつも間違っていて、教師の言うことこそが正しいのだ」と考えているわけです。

しかし、そこから、何かの拍子に「師」と出会い、次の段階に進んでいきます。

そもそも、「師」というのは、基本的に独特の「魅力」と「磁力」とを持っています。

「師の言葉」は、「教師」の語る教えのように整ってもいなければ、はっきりとした権威も持っていませんが、そこには何か、人の心を惹きつけるものがあるのです。

それゆえ、「教師」の元にいた人は、次第に「師の言葉」に惹かれ始めます。

そうして当人は「寄りかかる先」を、「教師」から「師」へと変えるのです。

この時点では、まだその人は「寄りかからずに立つ」ということができません。

いまだ、「内側の源泉」は見つかっておらず、「自分自身だけを拠り所とする」ということができないのです。

それゆえ、当人はどうしても「師」に寄りかからずにはいられません。

時には、かつて「教師」に寄りかかっていた時以上に、熱烈な仕方で「師」に寄りかかるかもしれません。

しかし、それもまた一つのプロセスです。

なぜなら、たとえどれだけ寄りかかろうとも、「師」はそれに応えて「弟子」の側に寄りかかったりしないからです。

「師」は絶えず、「弟子」に向かって言います。

「決して私に寄りかかるな。ただ自分自身の内側だけを見るのだ」と。

この「教師が決して言わない言葉」に、「弟子」はかえって高揚するかもしれませんが、「師」はそこに冷や水を浴びせかけ続けます。

「お前は今、この私に向かって寄りかかろうとしている」
「すぐに私から離れるのだ」
「そうして自分の足で立ちなさい」

それが、「師」の対応です。

そもそも、「師」は既に内側に「源泉」を持っており、常に「自分の足」で立っています。

だから、「師」の側には「弟子」に寄りかかる必要性がありません。

たとえ「弟子」がどれだけ寄りかかろうと、「師」はそれを利用して「弟子」に向かって寄りかからずに済むのです。

このため、「弟子」が熱狂の中で「師」に寄りかかると、その度に冷や水を浴びせられることになります。

その時、「弟子」の側は気分が良くないかもしれません。

なぜなら、当人の主観では、「今まさに自分は真理に触れている」と感じられていたからです。

しかし、本当の意味で触れるべき「真理」は、当人の内側にもともと埋まっています。

本当は「それ」を掘り起こすべきであって、私という人間に寄りかかることは、その役に立たないばかりか、むしろ妨げになるのです。

私はあくまで、「人々が自分の内側を掘るためのツルハシ」を与えているに過ぎません。

「ツルハシ」はあくまで「道具」であって、使わない限り意味はないです。

そこで、「ツルハシ」のことを「真理」だと誤認したり、「ツルハシ」を受け取ったことで喜んで、そのまま後生大事に「ツルハシ」を抱え込んでしまったりすると、その人はいつまで経っても「内側の光」に辿り着くことができません。

大事なことは、私の言葉に従うことなく、ただそれを使うことです。

たとえ「ツルハシ」をどんなに大事に「床の間」や「神棚」に飾っておいたとしても、それは何の役にも立ちませんし、かえって「当人の魂の重荷」になってしまうでしょう。

問題は、まだ内側に「絶対的な拠り所」を持っていない人は、「他人に従うことなくただ道具だけ使う」ということができないことです。

内側に「絶対的な拠り所」を持たない人は、いつも「自分の外側」に救い主を探していて、「信頼できる寄りかかり先」を見つけようとしています。

このため、たとえ「師」であっても、ひとまず「弟子」に信頼してもらって、一時的に寄りかからせるという手順を踏まないといけません。

つまり、「この人の言うことについて行けばいいんだ」という、「弟子」の側の「誤った思い込み」をあえて利用することで、結果として「自立」に導くわけです。

このため、最後の最後においては、「この人の言うことについて行けばいいんだ」という「弟子」の中の思い込みは、完全に粉砕されることになります。

その時、その「弟子」は「自分の足」で立ち、「内側の光」をこそ拠り所にして、決して後ろを振り返らずに「師」の元を去っていくでしょう。

逆に、「師の言うことについて行くだけだった人」は、最終的に「師が本当に伝えたかったこと」を理解し損なうこととなります。

逆説的ではありますが、「師」というのは「弟子」が追従することによって、むしろその教えを裏切ってしまうような矛盾した存在なのです。

しかし、「まぁ、それも仕方ないのかもしれない」と、最近は思い始めました。

私の中に、「何が何でも読者に自分の光を思い出させねば」という想いがあると、結局それも執着となって、私と読者の双方を縛るものとなっていきます。

どのみち、私が何を言おうとも、「内側の光」に到達する人はするのだし、もともと私にできることなど、たかが知れているのです。

なので、あまり気にしないで「自然な成り行き」に任せようと思うようになりました。

もちろん、「私に寄りかからないように」とは言い続けるつもりですが、それでも寄りかかる人は寄りかかるわけですし、その人が「そういう人」であるということにも、たぶん何か意味があるのでしょう。

「存在」は、全ての人を「唯一無二ユニーク」に創りました。

仮に、その人が一生「外側の何か」に寄りかかり続けるのだとしても、その人は、そのような人生を「唯一無二の仕方」で生きたのだと、ひょっとすると言えるのかもしれません。

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