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「苦しみと同化すること」こそが、「苦しみ」を苦しまなくなるための道である

瞑想を実践している人の中には、「どんな思考や感情が湧いてきても、それから離れて立っていないといけない」と考えている人もいます。

私も過去にはそのように考えていました。

ただ、今は少し違う立場を取るようになっています。

今回はその話をしたいと思います。

そもそも私が違和感を持ったのは、呼吸を使った瞑想を実践していた時の苦しみがきっかけでした。

当時、私は深い苦しみに囚われていて、しばしば苦悩するようになっていました。

「こんなことになったらどうしよう…」という未来への不安や、「あんなこと言わなければよかった…」という過去への後悔によって、私は苦しんでいたのです。

それで、私は瞑想に希望を見出しました。

瞑想を実践して心を強く持てるようになれば、苦しみに囚われなくなると思ったからです。

そうして私は必死で実践を積んでいきました。

つまり、意識を何度も呼吸に定め直し、一瞬も呼吸から意識が逸れないように固定しようとしたのです。

ちなみに、こういった「一点集中」は、ヨーガでは「ダーラナ」と呼ばれていて、瞑想の最初の段階とされています。

そして、この「集中」が深まることで思考や感情が沈静化し、最終的に「サマーディ(三昧)」という「穏やかな解放感」に至るのが、ヨーガの瞑想修行です。

しかし、しょせん「凡夫」に過ぎない私には、集中力をそこまで持続させることができませんでした。

呼吸への集中は何度も途切れ、その度に私は自分を責めました。

「こんなことじゃ瞑想を実践できているとは言えない」と思ったからです。

そして、日常の中でも、「苦しみ」に襲われる度に、私はわらにでもすがるような気持ちで呼吸に集中しようとしました。

確かに、時には、それによって一瞬だけ「苦しみ」から気を逸らせることもありました。

でも、先ほども書きましたように、私には「いつまでも集中し続ける」ということはできなかったのです。

そうして、「呼吸への集中」が途切れると、まるで待ち構えていたように「苦しみ」が再び私に襲い掛かってきました。

私はそれでまた、必死になって呼吸にすがりついて、何とかして「苦しみ」から目を逸らそうとしていたのです。


確かに、瞑想に熟達してくると、「苦しみ」と同化しなくて済むようになります。

つまり、「苦しみ」から離れて立っていることができるのです。

でもそれは、「そもそも苦しみを感じない」ということではありません。

それは、「苦しみ」をありありと感じてはいるけれど、そんな「苦しみ」をあたかも「自分の心に訪れたお客さん」みたいに思って眺めている状態です。

別に「苦しくない」わけではなくて、それは「苦しんでいるけれど、こだわってはいない」と言うような状態なのです。

しかし、過去の私は、「そもそも苦しみを感じなくなること」を求めていました。

だからこそ、「苦しみ」を感じる度に、そこから意識を逸らそうとして、必死に呼吸に集中しようとしていたのです。

ですが、いくら目を逸らしても、それで「苦しみ」が消えるわけではありません。

むしろ、目を逸らされた「苦しみ」は、余計に大きくなって戻って来ます。

そして、それが恐ろしいものだから、過去の私はますます呼吸にすがって怯え続けていたのです。

そんなことを何年も何年も続けた果てに、ある時、私は観念しました。

そして、あえて「苦しみ」を味わうことにしたのです。

つまり、私は「呼吸に集中する瞑想」をやめて、「苦しみに集中する瞑想」をするようになったわけです。

言い換えれば、「苦しみを忘れようとして瞑想する」のではなく、「苦しみをとことん観察するために瞑想する」ということをし出したのです。

なお、この瞑想の詳しいやり方は、下記の記事を参考にしてください。

【関連記事】
【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について

そもそも、それまでの私は「思考や感情と同化してはいけない」と思っていました。

でも、それならどうして「呼吸と同化すること」は問題ないのでしょうか?

結局それもまた「同化」の一つです。

もちろん、呼吸と「同化」することによって、一時的に「苦しみとの同化」は切り離されます。

でも、それによって「苦しみ」がなくなるわけではなく、「呼吸との同化」が解ければ、自動的に「苦しみとの同化」は復活してきます。

結局、過去の私には「何とも同化しないこと」なんてできなかったのです。

だったら、「あえて苦しみと同化する」ということを試みても、何の不都合もないはずです。

実際、当時の私にもう逃げ場なんてなかったのですから。

そうして、思い切って「苦しみ」について瞑想をしていると、案の定、私は「七転八倒」しました。

その時は、胸をかきむしって苦しみ抜いたのを今でも覚えています。

でも、一時間くらいそうしていたら、急に楽になり出したのです。

「苦しみ」が薄らいでいって、内側に「穏やかな感覚」が発生し始めました。

「なんだ、この感覚?」と思ったのですが、私はだんだん呼吸が楽になっていって、気持ちが落ち着いていったのです。

それ以来、私は「苦しみ」を恐れることがなくなりました。

なぜなら、「もし仮に『苦しみ』がやってきても、その都度味わって溶かせばいいだけだ」と肚が決まったからです。

そうして、一つ一つ「苦しみ」を溶かしていくうちに、私は自分の心が徐々に軽くなっていることに気づき始めました。

実際、「苦しみ」を溶かせば溶かすほど、日常的に「穏やかな解放感」が自然と持続するようになっていきました。

そして、このことに気づいてから、私はむしろ「苦しみ」を歓迎するようになっていきました。

なぜなら、「新しい苦しみ」を溶かすことができれば、それによって自分の心がより「自由」になると、私は経験から学び始めたからです。

しかし、そんな風に私が「苦しみ」を歓迎し始めたあたりから、逆に、「苦しみ」は発生しなくなっていきました。

私はそれを惜しみましたが、でも、「苦しみがそもそも発生しない」ということは、「現に今の自分の心がそれだけ自由だ」ということでもあるのだろうと思い、私は「苦しみが発生しない」ということについても、徐々に気にしなくなっていきました。

このため、それからは、仮に「苦しみ」がやってくることがあっても、私はそれを拒まなくなりました。

たとえ「苦しみ」が私の心の扉をノックしても、私は「おぅ、久しぶり!」と挨拶をして、ひとしきりそれが溶けるまで味わうだけです。

それをして、「苦しみと同化していない」と言えばそうなのかもしれませんけれど、私の主観から言えば、むしろ「苦しみ」と積極的に同化しに行っています。

なんせ、自覚的に「苦しみ」を味わっているのですから。

しかし、結果的には、そうやって「積極的に苦しみと同化すること」を続けたことで、私は「苦しみ」から「自由」でいられるようになりました。

でもそれは、「苦しみが一切発生しない」ということではありません。

それはただ、「苦しみと敵対しなくて済む」ということです。

そして、「苦しみから離れて立つ」ということの本当の意味は、きっとこういうことなのだろうと、私は今になって思うのです。


もしもあなたが瞑想を実践していて、必死で「何か」から目を逸らすために呼吸や眉間などに集中しているなら、あなたはいつかその「何か」によって追いつかれるでしょう。

もちろん、「今すぐ死にたくて仕方ない!」「今夜を生き延びられる自信がない!」というくらい切羽詰まっているのであれば、「時間稼ぎ」も意味があります。

そういう場合は、自殺対策の窓口に電話して気を紛らわせてもいいですし、とにかく何でもいいから胃に詰め込んで寝てしまってもいいでしょう。

「とにかく今夜だけ乗り切る」ということに集中すれば、そうして寝て起きた時には気分も変わっているものです。

しかし、もしも「そんな夜」そのものをなくしたいのであれば、どこかで自分の内側に埋め込まれた「混沌」と向き合うしかありません。

もちろん、それは「今すぐ死にたい!」というくらい切羽詰まった時ではなく、いくらか気持ちが落ち着いている時にやったらいいと思います。

でも、どこかで「それ」はする必要があると私は思っています。

なぜなら、「苦しみから徹底的に目を逸らす」ということは、いつまでも続けることができないからです。

なので、たとえ瞑想を実践していても、「苦しみから離れて立とう」と意識する必要はありません。

というのも、そうした実践はむしろ、「苦しみからの逃避」につながりがちだからです。

「苦しみから離れて立つ」というのは、「頑張って実践するもの」ではなくて、何度も何度も「苦しみ」を溶かす経験を積むことで、自然と体現するようになる「一つの境地」です。

その時、その人は「苦しみに自分を破壊することはできない」と、自分の経験から深く知っています。

そして、その人の目には、「苦しみ」というのは「巨大な怪物」ではなく、「小さなお客さん」に見えているものです。

また、だからこそ、その人は「頑張って苦しみから離れていなければ」とわざわざ考えることはなく、ただリラックスして、ありのままに「苦しみ」を迎え入れることができるのです。

「ようこそ、よく来たね」と。

「苦しみ」を根絶しようとするのは、その人が「苦しみ」をまだ恐れているからです。

でも、「苦しみ」というのは「私たちの人生」という料理を味付けする「スパイス」の一つです。

もちろん、それは「苦い」のですが、だからといって「苦味」を完全に取り除いてしまったら、出せない「味」もあるものです。

「苦しみを愛しなさい」なんて私は言いません。

「お客さんだと思わなきゃ!」なんて思い詰める必要もありません。

「苦しみへの愛」も、「苦しみのお客さん化」も、いつか勝手に起こります。

だから、今はそんなことは気にせずに、ただ「内側の苦しみ」を見つめることです。

「それ」はずっと、あなたに見てもらえるのを待っています。

そして、もしもあなたがそれを見つめれば、「苦しみ」はやがて満足して消えていくでしょう。

それによってあなたは「苦しみ」を恐れなくなり、「人生の主導権」を取り戻し始めます。

もはやあなたは「苦しみ」を前にしても取り乱さず、進路を変えてUターンすることもなくなります。

そうしてあなたは、「苦しみ」という波を乗りこなして前へと進む、一隻の船になるのです。

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