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「全ての答え」は内側に在る|瞑想とは「するもの」ではなく、「起こるもの」である

とある方とメールでやり取りしていて、「本では何度か書いたけど、ブログでは書いたことがなかったトピック」の存在に気づいたので、記事にして共有しておきます。

それは、「結局全ての到達点は同じだ」ということです。

たとえば、何らかの瞑想の技法を実践している人は、頑張って「瞑想状態」になろうとします。

ですが、実のところ、瞑想というのは「するもの」ではなく「起こるもの」なのです。

たとえば、野口整体には「活元運動」というものがあります。

これは身体そのものの自発的な運動を引き出すことで、心身を整えるワークです。

「活元運動」をする時は、まず「邪気の吐出」といって、心身に溜まって淀んている気を吐き出すことをします。

そして、背骨に物理的に刺激を加え、自動的な動きが起こりやすくします。

あとは、勝手に起こってくる運動に身を任せ、動きが収まるまで背骨を動かし続けるのです。

私は整体の指導者の元でこれを実践したことがありますが、「活元運動」が終わった後は、身体はスッキリして軽くなり、頭の中は空っぽになります。

そして、心は澄んで透明になり、自然と「清々しい快さ」が生じるようになるのです。

ちなみに、この状態のことを、野口整体の創始者である野口晴哉はるちかは、「天心」と呼んでいました。

つまり、「幼な子のような無垢な心」です。

このような状態のときは、思考も感情も沈静化しており、意識は澄んで、ただ「在る」という状態に留まっています。

そして、実のところ、私がいつも「瞑想状態」と呼んでいるのは、この状態のことなのです。

それは、身体から詰まりや強張りが消えて、心が透明になっている状態です。

つまり、もし心身から「緊張」がなくなりリラックスできると、「瞑想」というのは勝手に起こるのです。

しかし、世の中の多くの人は、「心身を整える」ということをしないまま、瞑想の技法を「頭の中」だけで実践して、「瞑想状態」を作ろうとします。

指導する側も、そういうアプローチしか知らない場合が多いです。

ですが、繰り返しますように、もしも心身が整えば、「瞑想」というのは勝手に起こります。

「瞑想をしよう」という意図も要りませんし、「瞑想状態を維持しよう」という努力さえ必要ありません。

なぜなら、心身が整いさえすれば、「瞑想状態」は自然発生して持続するからです。

そして、先ほども言いましたように、このような「天心」の中にある時には、身体はスッキリしていますし、心も透明になって軽く感じられています。

だから、そこには自然と「清々しい快の感覚」が伴うことになり、それをただ味わっているだけで、その人は「幸福感」を感じることができるのです。

それゆえ、私にとって「瞑想状態」「快の感覚」「幸福感」というのは、「同じ一つのものについた別の名前」です。

人々は、これらを別々に求めますけれど、実際には、心身が整えば、これらは全部「自然発生」します。

それらについて「起こそう」と意識する必要さえありません。

心身が十分に整った時、その人は気づいたら「瞑想状態=快の感覚=幸福感」の中にいる自分を発見するのです。

それゆえ、私は瞑想会でも、機械的に瞑想の技法を実践してもらおうとは思っていません。

瞑想法のやり方だけ説明して、「はーい、じゃあ十五分だけ坐りましょう」とかいった形では実施しないです。

具体的には、まず個々の参加者の心と身体の状態をチェックして、それぞれの課題や問題に合わせて、一人ひとり別メニューを組むつもりでいます。

その上で、各自の心身を緩めていき、「瞑想状態」が自然発生し始めてから、最後に少しだけ坐る、かもしれません。

実際、全く瞑想法をおこなわない可能性さえあります。

なぜなら、大事なことは「坐る」という形を取ることではないからです。

大事なことは、「瞑想状態」を体験してもらうことです。

身体がスッキリして、心も軽くなり、頭は空っぽでポカーンとしている状態。

それが「瞑想状態」です。

そこには「なんとなく良い感じ」が伴っており、これを当人は「幸福感」として自覚します。

この感覚が体験できるのであれば、ボディワークだろうと、気功だろうと、整体の技法だろうと、使えるものは何でも使うつもりです。

その上で、もしも「瞑想状態」が体験できたなら、わざわざ坐る必要はなくなるでしょう。

逆に、何百時間、何千時間と坐り続けながら、いつまでも自分の心身と闘い続け、「本当の意味で空っぽの状態」になったことのない人も世の中には居ると思います。

そういった人たちは、「瞑想の技法を実践しないと瞑想状態には入れない」と思い込んでいます。

しかし、それは思い違いです。

大事なことは、心身を「然るべき状態」に整えることです。

それは、生まれた時のような「無垢な状態」に心身を戻してやることであり、言い換えれば、「瑞々みずみずしい柔らかさ」を心身に取り戻させることに他なりません。

これさえ実現できれば、「瞑想」は自動的に起こり始めます。

あとは、心身を整った状態に維持しておけば、「瞑想状態」も「幸福感」も、日常生活の全体に勝手に広がって定着していきます。

逆に、特定の瞑想技法に固執していると、「瞑想しなければ」という意志が絶えず心身を緊張させるため、「空っぽ」になることが妨げられます。

もちろん、坐禅などの「かた」も、心身を整える役には立ちますが、やみくもに実践していると、かえって心身を壊す元にもなります。

実際、「禅病」という言葉もあります。

これは、坐禅や瞑想法を過度に実践し過ぎて心身を壊してしまうことを意味する言葉です。

大事なことは、心と身体に「瑞々しさ」を宿すことです。

つまり、「命そのもの」に還ることこそが鍵なのです。

「ただ、生きて在る」

これこそが「瞑想の根源」です。

そこにおいて、「私たちに必要なこと」はすべて自動的に起こり始めます。

もちろん、そのためには、身体の痛みや歪みを自覚しなければならないかもしれませんし、長年抑圧してきた感情とも向き合わねばならないでしょう。

しかし、それらを抜きにして機械的に瞑想法を実践していても、「瞑想状態」は起こるようになりません。

それゆえ、「本当の苦行」とは、断食をしたり太陽の元に立ち続けたりすることではありません。

そうではなくて、「苦行」とは私たち自身の内側に埋め込まれた「混沌」と勇気を出して直面することです。

身体の中にどれほどの痛みと歪みがあろうとも、心の中にどれほどの憎悪と悲しみが眠っていようとも、それらから逃げないこと。

それこそが、「苦行」という言葉の意味するものです。

そして、この「苦行」を越えた先には、「穏やかな幸福感」が現れてきます。

それは、「私たちが産まれた時に居た場所」であり、「私たちの存在の本質」そのものです。

それさえ「思い出す」ことができれば、「瞑想法の実践」は捨てても問題ありません。

この状態さえ思い出せれば、「生きていること」それ自体が、そのまま全て「瞑想」になります。

あとは、「自然発生する瞑想状態」に導かれていくうちに、「悟り」も勝手に起こるはずです。

なので、あまり堅苦しく考えなくていいのです。

私たちが本当に向き合うべきは、内側に埋め込まれた「混沌」です。

そして、「外側の形式」は、私たちがそれらと向き合うことを代わってはくれません。

いくら外側で「坐禅の形」を反復していても、内側にある「混沌」は、手つかずのまま残り続けることが大いにあり得るのです。

「内側」を見ましょう。

そこに「全ての答え」は埋まっています。

この世に存在するあらゆる技法は、結局のところ、私たちが「内側」を観やすくするための「方便」に過ぎず、それ自体が「答え」なわけではありません。

「外側」ではなく「内側」にこそ、「自分の答え」を求めましょう。

「それ」は、そこに在ります。

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