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見返りを求めずに与えるために|もしも「幸福」が溢れたら、「贈与」は自然と起こり始める

とある読者の方とのやり取りで、「与えること」が話題に出ました。

その方は「与えること」が純粋な喜びであると感じるそうなのですが、人に与えていると、時々、心身共に枯れ果ててしまうことがあるそうです。

それで、「どうしてなんでしょう?」という話になったわけです。

今回は、この問いについての私からの回答をまとめます。

同じような問題で悩んでいる人は参考にしてください。

では、行ってみましょう。

◎「したくないこと」を無理にすると、人は見返りを求めずにいられない

まず、私は基本的に、他人に与える時は「見返りを求めない気持ち」が大事だと思っています。

逆に、「これだけ尽くしたのだから、これくらいはお返しが欲しい」という気持ちがあるなら、無理して他人には与えないほうがいいと思います。

なぜなら、もしも見返りを求める気持ちがあると、その人は「与えること」によって自分と相手の双方を束縛するようになるからです。

そもそも、私たちがなぜ見返りを求めるかと言うと、何かを我慢しているからです。

それはひょっとすると、「したくないこと」を我慢しながらおこなって「与える物」を用意したからかもしれません。

その「我慢の感覚」が当人の潜在意識に残っているために、その人はどうしても「これだけ我慢したのだから、お返しが欲しい」と望んでしまうのです。

たとえば、私はもともと筆が早いので、メールが来るとすぐに返事を出します。

私は無理して早く返事をしているわけではなく、単に文章がいくらでも浮かんで来るので、すぐに返事をすることができるだけです。

でも、もし私と違って筆の早くない人が、私のようにすぐメールの返事を書こうとした場合、その人は自分に無理を強いることになります。

すると、仮になんとかすぐに返事を書けたとしても、その人は無意識に「これだけすぐに返事を書いたのだから、相手からもすぐに返事が欲しい」と望むようになるでしょう。

あるいは、文章を書くのが苦手なのに、我慢して何時間も文章を考えて書いた場合、相手からの返事が二言三言の短文だった場合、きっとその人は徒労感に囚われてがっかりしてしまうと思います。

これらは、「したくないこと」を我慢してした場合に起こることです。

ここにおいて当人は、自分の「心」と「身体」に無理を強いて、「しなくてもいいこと」や、時には「したくないこと」をあえてしています。

そして、この際に「心」と「身体」が感じる「強いられた」という感覚が、相手からの見返りを求める気持ちを生み出すことになるのです。

◎相手を恨まないためにも、自分自身をまず満たす

逆に、「心」がそれをすることをそもそも望んでいた場合、たとえ相手からそっけない「塩対応」をされたとしても、当人は「まぁ、別にいいか」と思って流すことができます。

なぜなら、その人の「心」の中には不満が残っていないからです。

たとえば、相手に送るメールの文面を考えることそのものが楽しくて、時間を忘れて何時間も書いた場合、その「書く」という行為そのものが当人にとって喜びとして感じられてしまっているので、「相手の返事」という結果についてはもう気にならなくなります。

既に自分の中で満足してしまっているので、たとえ相手がそれに応えてくれなくても、気持ちの整理がつくのです。

このため、「心と身体に無理を強いない」ということは、他人に与える際には非常に大切です。

逆に、もしも眠くて疲れているのに無理して相手のために何かをし続けた場合、それに相手が応えてくれなかったら、いつか不満が爆発するでしょう。

そういったことにならないようにするためには、「自分は無理をしている」と感じた瞬間に、他人ではなく、自分のほうを優先して満たすことです。

たとえば、眠くて疲れているのであれば、我慢して起きて他人に尽くすのではなく、まず自分自身がゆっくり休むことです。

もし家族の世話などが必要でそれが難しいようであれば、他人に頼って自分の代わりにしばらくそれをやってもらったらいいと思います。

全部自分一人で抱え込んで、「自分だけ我慢していればいいのだ」と思う必要はありません。

無理なものは無理なのですから、「自分は無理をしている」と感じたなら、まずは自分を満たしてあげましょう。

そして、結果的にはそれが、「相手を恨まなくて済むこと」にもつながるのです。

◎「頭」はエネルギーを自足できない上に溜められない

とはいえ、そもそもなんでそんな風に私たちは無理をしてまで他人に与えようとしてしまうのでしょうか?

それは、私たちの「頭(自我)」が私たちの中で威張っているからです。

実際、「頭」というのは、「頭」自身を満たすために「心」や「身体」を奴隷のように使うことがあります。

「頭」は「他人からの承認や評価」を求めて、「心」と「身体」を鞭打ち、「もっと頑張れ!」と命令するのです。

でも、「心」と「身体」は、「他人からの承認や評価」といったものの価値がわかりません。

これらの「外側の価値」が理解できるのは「頭」だけです。

心と身体には「内側で脈動する生命力」しか理解できないのです。

なお、「脈動する生命力」とは、たとえば「心の震え」や「身体的な快の感覚」などです。

しかし、「他人からの承認や評価」といったものは、「心を震わせる」ということもなければ、「身体的な快」にも関係がありません。

このため、「心」と「身体」は、「自分では何の価値も感じていないもの」を得るために、「頭」によって酷使されることになります。

それでは、「心」と「身体」からエネルギーがなくなって疲れてしまうのも無理はありません。

また、これは生体エネルギー論的な理屈ですが、「頭」というのは、そもそもエネルギーを溜めておくことができません。

「心=ハート」の在り処である「胸」や、「身体の根っこ」である「下腹」にはエネルギーを溜めておける機能があるのですが、人体は「頭」にエネルギーを貯蔵することができないのです。

このため、私がかつて稽古していた合氣道の道場では、「胸」に氣を集める「中丹田の呼吸」と、「下腹」に氣を集める「下丹田の呼吸」は実施されていましたが、「頭」に氣を集める「上丹田の呼吸」というものは、そもそも存在しませんでした。

それは、「頭」にはエネルギーを溜めておく機能がそもそもないからです。

このため、「頭」というのはいつも「自分以外の外部」からエネルギーを引っ張ってこないと働くことができません。

だからこそ、「頭」は「心」と「身体」を支配して利用しようとし、他人を思い通りにコントロールすることで、称賛や評価などを集め、「頭自身」を満たそうとするのです。

なお、三つの丹田について図でまとめておきますので、どれがなんだかわからなくなってしまった人は、こちらを見て整理してください。

◎「尽くす人」がバーンアウトする仕組み

というわけで、「頭」というのはもともと「外部依存的」です。

それは、「頭」というものがエネルギーを自分で作り出すこともできなければ、それを溜めておくこともできないからです。

また、「頭」はエネルギーを溜めておけないがゆえに、せっかく外からエネルギーをひっぱってきても、それらはすぐに霧散して消えてしまいます。

「頭」主体の「達成感」が持続しないのも実はこのためです。

「頭」はいつも目標を設定してそれをクリアすることで「達成感」を得ようとしますが、こういった感覚はすぐに消えてしまいます。

あなたも経験がありませんか?

長年の夢がついに叶って「達成感」の絶頂にいたはずなのに、そういった感覚はすぐに消えてしまって、気づいてみたら何も感じなくなっている。

それで、「頭」は欠乏感に苦しみ出し、「さらに大きな達成感」を目指してすぐさま走り出すのです。

これに対して、「心」や「身体」というのは、きちんと満たしてあげることができると「充実感」が持続するようになります。

それは、「心」や「身体」が「頭」と違って、エネルギーを溜めて保持しておく機能を持っているためです。

それゆえ、「心」と「身体」がきちんと満たされると、日常的に「なんとなく良い感じ」が自覚されるようになり、これが生活のベースとなっていきます。

こういった感覚は「頭」に生じる「達成感」のような強烈さはなく、穏やかで静かなものですが、変化することなく持続するので、非常に安定性があります。

なので、他人に何かを与えようと思ったら、「頭」の言いなりになって無理をせず、まず「心」と「身体」を満たして「なんとなく良い感じ」を自分の中に作ることです。

そうして、その「なんとなく良い感じ」を維持しながらでも与えられる範囲以上は、あえて他人に与えないようにします。

なぜなら、自分の中の「なんとなく良い感じ」を捨ててまで相手に何かを与えてしまうと、「心」と「身体」が不満を言い出すことになるからです。

もちろん、「頭」はそういった不満を抑え込んで、「いいから働け!」と命令するでしょう。

でも、仮にそこで「心」と「身体」に無理を強いて相手からお返しがもらえたとしても、そこで受け取ったエネルギーは「頭」だけに流れてすぐ消えます。

せっかく受け取れたエネルギーが「頭」にみんな吸い取られてピンハネされてしまうため、「心」と「身体」のほうには流れてこず、疲労ばかりが溜まってしまうわけです。

そうして、やがては「心」と「身体」の「生命力」は涸渇することになるでしょう。

これが、「尽くす人」がバーンアウトしてしまうメカニズムです。

つまり、「頭」が「心」と「身体」に無理を強いて、外から入って来るエネルギーを独占し続けることで、「心」と「身体」が枯れてしまうわけです。

◎自分を満たして溢れた分の「幸福」が、結果としては他人を救う

これを避けるためには、繰り返し言っていますように、自分の中の「良い感じ」が消えない範囲でしか与えないことです。

言い換えれば、「自分自身の器」を満たした結果、「満たし過ぎて溢れた分」以上は他人に与えないことが大事であるということです。

そうすれば、そこに「見返りを求める気持ち」は生じないので、たとえ相手が何も返してくれなかったとしても、その人は自足していることができます。

しかし、人によっては、そもそも「良い感じ」がどんなものかがわからないかもしれません。

もしもあなたが今現在、「良い感じ」を感じること自体ができていないようであれば、「あなたの器」はまだ満ちていません。

なので、まずは「自分の器」をいっぱいにすることに集中してください。

ただし、「他人からの称賛や評価」といった「頭」にしか理解できない形で満たすのではなく、「心地よい寝床でぐっすり眠る」とか「楽しいと思うことを思い切りする」とかいった仕方で、「心」と「身体」に理解できる形の「快」を求めてください。

要は、「達成感」ではなく「幸福感」を求めるのです。

もしも「幸福」が「あなたの器」を満たし切ったら、その時には「与えること」が自動的に起こり始めます。

たぶん、その時あなたは「自分は今与えている」と意識さえしないと思います。

あなたは、ただ溢れ出します。

そして、溢れてこぼれた「幸福のしずく」は、周りにいる人たちを勝手に救い始めることでしょう。

◎もしも「幸福」が内に満ちたなら、「贈与」は自然と起こり始める

なので、とにかく「自分を満たす」ということが最優先事項です。

もしも「自分」を満たし切ったら、「他人を満たす」ということは、意識しなくても勝手に起こり始めます。

それゆえ、他人を「幸せ」にするためにも、まず自分自身が「幸せ」になることです。

自分が「不幸」であるうちは、他人を「幸せ」にすることはできません。

仮にそうしようと思っても、あなたの内に在る「欲求不満」を、相手は無意識に感じ取ります。

そうして、いつか相手はあなたの元を去っていき、あなたは「自分の欲求不満」だけを抱えて、一人で取り残されるのです。

だから、まず自分のことを「幸せ」にしてあげましょう。

別に罪悪感を抱く必要はありません。

もしもあなたがまだ満たされていないのならば、あなたは既にそれだけ我慢を重ねてきたということです。

いつも誰か他人のことを優先し、自分を後回しにしてきたのです。

だから、今度は自分のことを優先してあげてください。

あなたにはその権利があります。

思い切り「我がまま」になってください。

「我がまま」というのは、「われのまま」ということです。

「ありのままの自分」になってください。

あなたはただ、自分のことを許せばいいだけです。

怒りが湧くならノートに罵詈雑言を書きなぐって、悲しくなるなら涙が涸れるまで泣きましょう。

その時、あなたは「自分自身」を受け入れます。

そうして初めて、あなたは「我がまま」になってぐっすりと眠り、「心」と「身体」に活力を取り戻すことができるのです。

その時、眠りから目覚めたあなたの目には、きっと世界が輝いて見えます。

「世界はこのままで既に美しい」

そのように思えるようになった時、「贈与」は自然と起こります。

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