今回はQ&A記事になります。
質問をしてくださった方は、ここではBさんと呼ばせていただこうと思います。
ただ、Bさんからの最初のメールは個人情報が満載なので、そのまま公開するのは避けようと思います。
代わりに、私のほうでBさんが置かれている状況や直面している課題について、個人を特定できない形で説明します。
では、始めていきます。
◎Bさんからの最初のメールに関する要約
まずBさんは、とても忙しい生活を送っている方です。
毎日、朝から晩までしなければならないことがあり、さらには社会的にも責任のある立場にいます。
また、周囲の人とのかかわりから人間関係の摩擦も感じており、なんとなく心が疲弊しているように、メールを読んだ私は感じました。
しかし、そんな生活の中にあって、Bさんは瞑想的な生活を実践しようとされていました。
既に「自分の本質は自我ではない」ということは感覚的に理解されており、「アーナンダ(至福)」も体験したことがあるとのことです。
探求の進度としては、もう折り返し地点を過ぎており、「あとは来た道を帰るだけ」という段階にいます。
しかし、先ほども書きましたように、Bさんは多忙な日々の中で、どうやって探求を続けたらいいかがわからなくなってしまっていました。
「意識的であろう」とどんなに意志しても、Bさんは忙しさに巻き込まれて、我を失ってしまうそうです。
それで、「これでは探求を最後まで終わらせることは絶望的なのではないか?」という風に考えられて、私に質問のメールを送られたようです。
つまり、「忙しい日々を送っていても瞑想的な生活は可能なのか?」というご質問ですね。
以下、私とBさんの間であったやり取りを掲載します。
◎筆者からの回答
はじめまして、【「存在する喜び」への道】管理人の湯浅です。
ご質問のメールをいただき、誠にありがとうございます。
Bさんは、過去に時間のゆとりがあった時期、短期間ではあったものの、「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」を経験されたのですね。
また、「観照者の目覚め」も経験済みとのこと。
ただ、このところは密なコミュニティで多忙な日々を送っており、落ち着いて真我探求をすることが難しいと感じておられるのですね。
その上で、「現状の生活を続けながらでも瞑想的な生活は可能か?」ということをお聞きになりたいとのこと、了解しました。
私の結論としては、「不可能ではないけれど、難易度は高い」ということになるかと思います。
私自身も過去に仕事がとても忙しくなった時期に、「瞑想的な日常生活」を困難に感じた経験があります。
その時は、いつも「するべき作業」に追われていて、息つく暇もありませんでした。
このため、当時は「私は在る」に留まることも難しかったですし、「ハート」を見失うことも多かったです。
ですが、私の場合はその後、ちょっとした理由から退職することになり、いきなり暇になりました。
それで、暇になったのを機に、しばらく「チット」と「アーナンダ」を中心に据えた生活を送るようになり、結果として探求がかなり進行した経緯があります。
もしも私が仕事を辞めずにそのまま働き続けていたら、おそらく探求が終わるまでにもっと時間がかかっていたと思います。
なので、多忙で精神的に揺さぶられやすい環境にある場合、探求が難しくなるのは私も事実だと思います。
しかし、だからといって、Bさんに対して「探求したければ何もかも捨てて隠遁するしかない」と言うのではあんまりですから、今の状況のままでもできることを考えてみましょう。
まず、私が提案したいことは、「瞑想的な日常生活」を送る上で、「アーナンダ(至福)」のことはいったん忘れて、「チット(意識)」に照準を合わせることです。
ご存じかと思いますが、「アーナンダ=ハート」というのは、意図的にコントロールすることができません。
むしろ、「ハートよ、来い!」と念じれば念じるほど、それは遠ざかって行ってしまいます。
なので、基本的に「アーナンダ=ハート」へのアプローチは、「何もしない手ぶらの状態で、感情をひたすら味わって溶かし続ける」というやり方になります。
そして、その結果として、「自然な成り行き」として、「ハート」というのは感じられるようになるわけです。
しかし、これは現状忙しくて「手ぶらの時間」を確保しにくいBさんには難しいでしょう。
それゆえ、もしも「アーナンダ=ハート」のほうへアプローチしようとすると、「こんな生活をしているから、至福を感じられないんだ!」という苛立ちや焦燥感を生み出すだけではないかと思います。
ですので、「アーナンダ」についてはいったん忘れてしまって、「チット」からアプローチしてみてください。
これまたご存じかもしれませんが、「チット」については「アーナンダ」と違って、ある程度主体的にコントロールすることが可能です。
「観照者の目覚め」を経験しているのであれば、思考や感情だけでなく、「自我」のことも客体化して分析できるようになっているはずです。
そして、そういった思考・感情・「自我」の理解や分析は、「0か100か」ではなく、段階的に意識しておこなうことができます。
たとえば、忙しく動き回っている時には、思考や感情が揺さぶられることがあると思います。
また、時には「自我」がコントロール欲求に駆られて暴れ出し、物事を無意識に思い通りにしようとすることもあるでしょう。
そういった時には、少しでもいいので、思考や感情から距離を取って、それらを観察するように努めてみてください。
もちろん、それは難しいことだと思います。
やることがたくさんあって、感情的な摩擦も多い日常であれば、それらに巻き込まれてしまうことは避けがたいでしょう。
ですが、「チット」については「アーナンダ」と違って、段階的に実践していくことが可能です。
逆に、「アーナンダ」については「在るか無いか」だけなので、「0点か100点か」の二極しかありません。
それゆえ、おそらく「アーナンダ」の方向からアプローチすると、「忙しさに振り回される自分」のことを、Bさんはきっと「0点の探求者」のように感じてしまうと思います。
しかし、「チット」については別に100点を目指さなくてもいいのです。
忙しい日々の中で、たとえほんの少しでも思考や感情に巻き込まれずに「意識」に留まることができたなら、それは、「瞑想的な日常生活」の実践として積み重なっていくことになると思います。
「完璧」を目指す必要はありません。
20点でも30点でも構いません。
たとえ思考や感情に巻き込まれそうになったとしても、「今、思考や感情に巻き込まれそうになっている」と気づけたなら、そのことで、自分に加点してあげてみてください。
とにかく、「アーナンダ=ハート」については、いったん忘れましょう。
そして、「チット」の理解を深めることを優先してみてください。
もしも忙しい生活の中で「チット」の理解を深めていくなら、忙しさの中にあっても思考や感情に振り回されることは減っていくかもしれません。
そうして、「チット」が十分に深まれば、時折、ほんのわずかに「自由な時間」が得られた時、不意に「アーナンダ」を感じるようになるはずです。
実際、「チット」と「アーナンダ」はお互いに影響し合っています。
「チット」が深まれば「アーナンダ」の理解も深まりますし、その逆も真なりです。
ですので、日々少しずつ、満点を目指さず加点方式で「チット」を深めていき、結果的に「アーナンダ」を取り戻していくという方向で実践をしてみることを、私としては提案したいと思います。
ただ、私も忙しい生活の中で瞑想を実践し続けたことはないので、そのアプローチが本当に突破口となり得るかは、保証できません。
理論的には、この方向性が妥当であるとは思うのですが、実際に効果があるかどうかは、Bさん自身に確かめてもらうしかないかもしれないです。
申し訳ありませんが、私の提案を採用する場合はその有効性をご自身で検証していただき、「これは無理そうだ」と感じられたら、また改めて相談してください。
一緒に「次の手」を考えたいと思います。
ひとまず、私の考えは以上です。
要点としては、以下の三つです。
「アーナンダ」を求めることはいったん忘れること。
「チット」について、満点を目指さず加点方式で実践すること。
最終的には「チット」を深めることで、「アーナンダ」を自然発生させること。
このような流れになるかと思います。
おそらく困難な実践になるかとは思いますが、Bさんの探求が着実に前進することを祈っています。
私からは以上です。
それから、できれば今回の質疑応答の内容をブログに掲載したいのですが、許可をいただくことはできますか?
掲載する場合は、Bさんの個人情報がわからないようにし、「とても忙しくて感情的な摩擦の多い生活を送っている人からの質問」という形で紹介しようかと考えています。
これについて、Bさんの意見を聞かせてほしいです。
その他、私の回答に関する追加の質問などもありましたら、遠慮なくお伝えください。
それでは、失礼します。
◎Bさんからの返信
Bです。
私の質問に対して大変丁寧な回答を送ってくださりありがとうございました。
そうですね、確かに「アーナンダ=ハート」に関しては、意識して思い出そうとすればするほど逆に自我が前に出てきてしまって逆効果になっていた、というのが今までの状態でした。
そして、湯浅さんがおっしゃるように「チット」についてですが、私もいろいろ勉強したり実践したりすることで、ある程度は客観的に思考や感情などの自我の動きを観察できることができています。
ただ、人と話している時はどうしても自我の働きが100%になってしまい、チットの存在はまったく感じられなくなってしまいます。
自我が会話や相手に集中しようとするあまり、本来の自分(チット)は全て忘れ去られてしまう、とでも言えばよいでしょうか(普通の人はこれが普通の会話の仕方だと思いますが)。
湯浅さんは人と話をしている間でも、客観的に自我を観察している状態なのでしょうか?
私の感覚ではそのような状態のときは、自分の中に2つの存在があって、一方がもう一方を観察しているので、自分が言葉を発するタイミングや相手の言っていることを理解する時間がわずかに遅くなったりすることもあるのではないかと思うのですがどうなのでしょうか。
相手から見たら、なんか会話のテンポがずれてるな、とか、この人あまり会話に集中してないな、とか思われたりしないのでしょうか。
とはいえ、チットの理解を深めるために、私の場合はこの辺から取り組んでいけばよいのかもしれませんね。
1人の時だけではなく人と関わっている間も、チットから見た自我を意識するようにするということを少しずつやってみようと思います。
これは確かに自分でやってみて有効かどうかを検証するしかない問題だと思いますので、とりあえず実践してみてまた何か進展があればご連絡します。
また、実践とはあまり関係ないのですが他にもお聞きしてみたいことがいくつかありますので、また時間があるときにメールしても大丈夫でしょうか。
私からの質問・やりとりは個人情報以外はすべてブログに掲載してもらって大丈夫です。
私のように「悟り」などといったこととは程遠い生活をしている(と思っている)人たちにも、湯浅さんや山家さんのブログをぜひ読んでほしいと思っています。
ありがとうございました。
◎筆者からの二回目の回答
こんにちは、湯浅です。
お返事ありがとうございます。
お忙しい中、メールを書く時間を確保されるのは大変だったのではないでしょうか。
言葉を届けてくださったことに、感謝いたします。
そもそも、私自身は探求を始める前の段階で、たまたま色々な巡り合わせから、仲間も家族も仕事もお金も、何もかも失ってしまっていました。
それゆえ、もうそれ以上捨てる必要があるものはなく、非常に身軽だったわけです。
その結果として、「とにかく自分一人生きていければいい」くらいに考えて、基本的にはいつも探求を優先して生活することができました。
それは今にして思うと、とても幸運なことだったのだと思います。
Bさんのように、重い責任や社会的なしがらみを抱えながら探求する人の精神的負担は、過去の私の比ではないと思います。
それにもかかわらず、「何とか頑張って実践していこう」とBさんは決意されたようにお見受けしました。
それはたぶん、私の前回のメールの表現のせいかもしれません。
私は前回のメールで「意識に留まるように」という言い方をしました。
これだとなんだか努力して意識に留まらないといけないかのようです。
しかし、実際のところ、「瞑想的な日常生活」というのは「無努力を養成すること」が目的の一つだったりします。
たとえば、坐っての瞑想の経験がない人の場合、日常生活の中で「意識」を取り戻す瞬間はほとんどありません。
当人はきっと、寝ても覚めても内側の思考や感情に巻き込まれ続け、自我の存在を自覚することさえないでしょう。
ですが、Bさんのように自分で実践を積み重ね、「チット」や「アーナンダ」を理解できるところまで来ている人は、別に意図して努力しなくても、瞑想が自動的に起こるようになっていきます。
たとえば、Bさんは普段の生活の中で、自我に巻き込まれて我を失うことがあるかもしれません。
「すること」が多くて忙しい時にはなおさら自我が前面に出てきますから、余計に巻き込まれやすいと思います。
ですが、どこかの段階でふと「ハッ」と気づいてBさんは戻って来るはずです。
「そんなの当たり前でしょ?」と思うかもしれませんけれど、先ほども書きましたように、そもそも瞑想の実践を積んでいない人は、「ハッ」と気づくことなんてないんです。
なぜなら、瞑想をやったことのない人たちは、「ハッ」と気づいて自覚を取り戻した時の感覚自体を知らないからです。
それに対して、Bさんは「あ、今、戻ってこれた」という風に気づくはずです。
それは、意識を覆っていた思考や感情が取り除かれて、自覚を取り戻した状態です。
実のところ、「瞑想的な日常生活」というのは、このような形で「何度も戻ってくる」という体験を繰り返し続けることです。
別に、生活の中で頑張って意識的であろうとする必要はありません。
自我と一体化してもいいですし、思考や感情に巻き込まれることも当然あり得ることです。
でも、どこかで「ハッ」と気づいて戻ってきます。
その戻ってきた地点こそが「瞑想状態」です。
そして、何度も何度も繰り返しこの地点に戻ってくることが「瞑想の実践」であるわけです。
実際、坐って瞑想をしていた時には、Bさんもこれと同じことをしていたはずです。
何度も何度も我を失っては「ハッ」と気づいて戻ってくる。
瞑想の実践というのは、その終わりない繰り返しです。
ですが、そうして繰り返し戻ってくることによって、「巻き込まれている状態」と「戻ってきている状態」を当人は区別できるようになっていきます。
すると、「そう言えばこのところ、『巻き込まれること』が減って、『戻ってきた状態』で在り続けてるな」と気づいたりします。
それは、無意識に瞑想が起こるようになった結果です。
山家さんが「無意識に任せる瞑想」という言葉で伝えていたのはこのことです。
念のため、記事のリンクを貼っておきます。
空白JP 無意識に任せる瞑想のすすめ【初心者にも対応】
別に意図的な努力は必要ありません。
ただ、淡々と「戻って来続けること」ができれば、それでOKです。
この時、気づくのはBさんの自我ではありません。
意識自身が勝手に気づきます。
それゆえ、この気づきは自動的に起こりますし、コントロールすることができません。
ですが、生活の中で続けられる瞑想はほとんどこれだけです。
何もしようとせず、意識それ自身が気づくのに任せること。
それによって、意識自身の「気づく力」は勝手に成長していきます。
そして、実践をしていくにしたがって、「ハッ」として戻って来るのは早くなっていきますし、やがてはそもそも我を失うこと自体が無くなっていきます。
すると、思考や感情、自我などに巻き込まれることがなくなるため、それらと自己同一化する感覚も希薄になっていくでしょう。
もちろん、これも「自然な成り行き」として自動的に起こります。
意図的に努力して「客観視しないと」と思う必要はなくて、意識自体の「自動的に気づく力」が育つことで、思考・感情・自我との同化が、勝手に破壊されるのです。
逆にここで、「もっと何かを意識的にやらないと!」と思って意図的な何かをし始めると、自我が意志として機能し始め、意識による「自動的な気づき」を阻害してしまいます。
なので、むしろ何もしないほうがいいのです。
もし思考や感情に巻き込まれるならそのままにし、自我と同化するなら、それも問題ありません。
どのみち、Bさんはやがて「ハッ」と気づいて戻って来ます。
そして、それによって少しずつ、着実に、意識は「気づく力」を培っていくのです。
なので、自我を意識的に客観視しようとする必要はありません。
私だって、人と話す時は自我と一体化して話しています。
自我は「優秀な使用人」なので、社会生活上の用事を済ます際には、とても有効に機能します。
ただ、「それでも自我は自分じゃないんだよね」と、折に触れて想起するだけでいいのです。
ということで、Bさんは特にこれ以上意識的に努力する必要のあることはないとも言えます。
たとえ努力しなくても、いえ、むしろ意図的に自我を働かせて努力をしないからこそ、意識が「ハッ」と気づいてBさんを「瞑想状態」に連れ戻してくれます。
なので、「ハッ」と気づいた時点でBさんの瞑想は成功しているのです。
なぜなら、そうして意識が自動的に気づくことによって、Bさんは「瞑想状態(気づいている状態)」に戻ってこれているからです。
もちろん、それは何の手応えもない実践かもしれません。
しかし、Bさんの知らぬ間に、意識は「気づく力」を伸ばしていきます。
そして、それによって思考や感情、自我との距離は勝手に開いていくでしょう。
Bさんはそれらと同化することが減っていき、振り回されにくくなるはずです。
もちろん、過去の私とBさんとでは、置かれている状況が全く違います。
当時の私はほとんど何も持っていませんでしたから、手ぶらで実践をすることができました。
それゆえ、何もしないでのんびり実践することもできたのです。
それに対して、Bさんは多くの責任や役目を抱えています。
そこから来るプレッシャーや忙しさは、過去の私とは比較にならないはずです。
しかし、そこで一つ発想を転換してみてください。
「自分はそれだけ負荷の高い瞑想のトレーニングをしているんだ」と。
実際、今のBさんの状況は、過去の私が置かれていた状況よりも、思考や感情、自我などに巻き込まれやすいものだと思います。
ですが、「そのおかげで、かえって意識は効率的に筋トレができる」と考えることはできないでしょうか?
Bさんは、繰り返し繰り返し我を失うでしょう。
それはBさんが、「負荷の高いトレーニング」をしているからです。
それゆえ、意識は何度も何度も「ハッ」と気づくことを繰り返します。
その回数は、過去の私の比ではないかもしれません。
すると、腕立てを5回しかしない人より20回する人のほうが筋力がつくように、Bさんの意識は「戻ってくる力」を強めていくはずです。
もちろん、その際にBさんは主体的に何もする必要はありません。
全ては意識が勝手にしてくれます。
意識が自分で「筋トレ」をして、「気づく力」を鍛えてくれるのです。
なので、Bさんはただ意識の「気づく力」を信頼して、淡々と過ごされたら良いのではないかと思います。
それが結果的には「チットの理解」を深めることに繋がりますし、そこから「アーナンダ」も紐づいてやってくるはずです。
とにかく、私が言いたいことはたった一つです。
Bさんは、もうこれ以上頑張る必要はありません。
Bさんにとって必要だった努力は、Bさんがかつて坐って自分の内側を見つめていた時に、もう終わっています。
ここからは、意識自身の力に任せてみましょう。
Bさんが何もしなくても、意識は何度でもBさんを連れ戻してくれるはずです。
そして、それ以上するべきことは特にないのです。
以上、私の方からお伝えしたいことを書かせていただきました。
それから、記事は公開してもよいとのこと、ありがとうございます。
Bさんの個人情報は特定できないようにした上で、ブログに掲載させていただきます。
Bさんのように、社会的な責任や人間関係のしがらみを抱えながら探求をしている人は、きっと他にもいるはずです。
この質疑応答は、そういった人々にとって、「自分は独りじゃないんだ」と気づくきっかけとなるかもしれません。
Bさんのご協力に感謝します。
また、他にもお聞きになりたいことがあるとのことなので、遠慮なくお聞きになってください。
回答に少しお時間をいただくかもしれませんが、なるべく丁寧にお答えしようと思います。
それでは、また。
◎過去の私が立証できなかった可能性について
Bさんとのやり取りは、今のところ以上です。
Bさんとやり取りをしたことで、私は自分がどれだけ恵まれた環境で実践をしていたかを再認識しました。
いえ、むしろ今までそのことにほとんど気づいていなかったかもしれません。
忙しい生活の中で、様々なしがらみを抱えながら、日々の実践をしている人たちの気持ちを私は想像していなかったと思います。
ですが、世の中には大変な生活をしながらでも、自分なりに真摯に進もうとしている探求者が存在するのだと、Bさんから教わりました。
そして、「そんな人にでも可能な実践とは何だろう?」ということを私なりに考えて出した結論が、二回目の私の回答メールです。
忙しい日々を送っている人は、過去の私のように探求を優先することは難しいと思います。
しかし、だからと言って探求が不可能なわけではなくて、むしろその忙しさをバネにすることで、意識の「気づく力」を効果的に伸ばせるのではないかと私は思いました。
もちろん、「そんなのは単なる気休めだ」と言われるかもしれません。
ですが、私自身も過去を振り返ってみると、結局やっていたことは、「自動的に気づきが起こるに任せ続ける」ということだったように思います。
ただ、私の場合は時間的な余裕があったので、「自我」を完全に沈黙させて、何もしない時間を過ごすこともできました。
当時は「こういう時間が探求の役に立っているはずだ」と思っていましたが、それも本当だったかどうかは怪しいものです。
なぜなら、そんなことをしようがするまいが、意識は水面下で「気づく力」を伸ばし続けていくからです。
私はどこかで、そういった意識そのものの「勝手に気づく力」を信頼していなかったようにも思います。
なまじっか時間が余っていたので、「静寂」を意図的に作り出そうとしていたかもしれません。
しかし、「静寂」というものは、別に意図的に作らなくても自動的に起こります。
意識が「気づく力」を伸ばしていくことによって、主体的に「黙っていよう」と思うまでもなく、内側に静けさが生まれるようになっていくのです。
過去の私のように、時間的なゆとりがある人は、ある意味で「余計なこと」をたくさんできてしまいます。
そうして当人は、「別にしなくてもいい努力」をするかもしれませんし、そこに「手応え」を見出すかもしれません。
しかし、忙しい日々を送っている人は、そもそもそんなことを考える余裕がありません。
「余計なこと」なんて、これ以上するゆとりがないわけです。
しかし、だからこそ、自動的に起こる「気づき」の成長に集中できるとも言えないでしょうか?
「余計なこと」を一切せず、ただただ純粋に「ハッ」と気づいて戻って来続ける日々。
そんな日々の中で、当人は「こんなことでちゃんと実践できているのかな?」と不安になるかもしれません。
ですが、本当に深い成長は「無努力」によって起こります。
それは私たちにはコントロールすることができないものであり、そうであるからこそ、私たちの自我を超えた変化を起こすのです。
いずれにせよ、Bさんの実践がこれからどのように進んでいくかを、私は見守りたいと思っています。
Bさんは、自身の実践を続けていくことで、いつかは「忙しい日々の中でも意識を目覚めさせることは可能だ」と立証してくれるかもしれません。
それは、過去の私には立証できなかったことです。
そして、このことをBさんが立証した時、Bさんは同じような問題で苦しんでいる人たちにとって、「確かな灯火」となるのではないかと私は思っています。

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