【Q&A】実践中に恐怖を感じた場合、どうしたらよいのか?

前回の記事で、PNSE(継続的非記号体験)について質問をしてくださったAさんから、また追加で質問をいただきました。

なお、前回の質疑応答の内容は、以下の記事からご確認ください。

【Q&A】「PNSE(継続的非記号体験)」についての個人的な見解

新たに頂いた質問についても、Aさんから公開の許可をいただきましたので、記事にして皆さんと共有したいと思います。

テーマは「実践における恐怖との付き合い方」についてです。

前回の質疑応答で、これから新たに公開されるPNSE習得コースへの参加に意欲的なAさんに対して、「興味があるなら、やってみるのはよいことだと思う」と私は回答しました。

その後、Aさんとの間でおこなわれたやり取りを、以下に掲載いたします。

◎Aさんからの質問メール

返信ありがとうございます。湯浅さんのブログを少しずつ 咀嚼し 腑に落としながら、PNSEの方も楽しみに待ちたいと思います。

PNSEのアクティビティは古今東西の寄せ集めとのことですから、ダグラス・ハーディングの指差し実験みたいなのもあると思うんですけど、私 これめっちゃ怖くてすぐやめちゃいました。

恐怖を覚えるアクティビティっていうのは、無理してやらなくていいのか、怖いのは効果がある証拠だから無理してでもやらなくちゃいけないのか、どう考えればいいですか?

◎筆者からの回答メール

こんにちは、湯浅です。

なるほど、恐怖を感じるアクティビティとどうかかわったらよいか、ですね。

私の個人的な意見としては、「もしも恐怖を感じるのであれば、無理してやらなくてよい」と思います。

理由は二つあります。
一つは、「それを実践することで自分の心身が損なわれる可能性があるから」で、もう一つの理由は、「恐怖に飲み込まれながら実践をしても本来の効果は得難いから」です。

まず、一つ目の理由ですが、もしも特定の技法やアクティビティの実践によって、なにかしら強い恐怖を感じるのであれば、その技法やアクティビティは、Aさんのことを損なうものである可能性が高いです。

それは「自我(エゴ)」が感じる「セルフイメージを守りたい」という自己保身的な欲求からくる恐怖とは限らず、時として、生物としての「生存本能」からくる恐怖の場合があります。

もしも「自我」が「怖い」と言っているだけであれば、その実践を断行することでかえって「自我」が消えていくかもしれません。

しかし、生物としての本能で恐怖を感じているのであれば、それは「自我」ではなくて「心身」を破壊される可能性を命が感知している場合があります。

「自我」との同一化であれば、これを破壊することで私たちは自由になれますが、もしも心身を損なってしまうと、それに引っ張られて探求が難航してしまうでしょう。

なので、それが「自我の発している恐怖の声」なのか、それとも、もっと本能的な「生命の危機」を感じた結果のものなのか、冷静に見極められないならば、無理してやらないほうが良いと思います。

前者であればいいのですが、もしも後者であった場合、取り返しのつかないことになりかねません。

また、二つ目の理由として、「恐怖に飲まれていると、適切な技法であっても効果を得られない」ということがあります。

たとえば、もしも現在の自分の課題にマッチした技法であったとしても、それを実践することで強い恐怖が発生してしまうようであれば、動揺してしまって実践に集中できないでしょう。

心(マインド)も恐怖に怯えて固く閉じていきやすくなるでしょうし、そうなると、実践の効果も出にくいはずです。

その場合は、まず自身の感情に飲まれないだけの「自己観察力」を養成するのが先だと思います。

仮に「強い恐怖」が内側に生じても、それを離れて客観視できるだけの冷静さを保つには、瞑想の実践などによって、「感情との自己同一化」を解く訓練をしなければなりません。

たとえば、内側に恐怖が発生しても、「ここに恐怖が在るな」と落ち着いて観察できるように訓練していくわけです。

これができるようになってくると、恐怖に飲まれてパニックになったりしなくて済むようになるはずです。

なので、もしも実践しようとする度に恐怖に飲まれて冷静でいられないのであれば、まず「恐怖に簡単に飲まれないだけの自己観察力」を養成してみてください。

要は、自分で自分の感情を離れて確認する練習ですね。

そうして、「自己観察力」が十分に成長して、恐怖と落ち着いて向き合えるようになっていれば、「この実践は本当に自分に必要なものだろうか?」ということも明晰に判断できるようになると思います。

ということで、もしも実践に恐怖を感じるのであれば、基本的には無理してやらなくていいと私は思います。

世の中には技法が無数にありますが、「最終的なゴール」は一つです。
どの道を通って行っても、最後は「同じところ」に出るはずです。

なので、「恐怖を感じる方法」をあえて選ぶ必要は薄いと思います。

それに、技法やアクティビティというのは最終的には捨てられるものです。
それらはあくまで、「静寂」や「幸福感」を知るための最初のきっかけとして利用するものに過ぎません。

なので、「このアクティビティをやらないと先に進めないのではないか…」と思い詰める必要も、そんなにないのではないかと私は思います。

また、もしも「ゴールを目指す過程でどうしても直面しなければならない恐怖」があったとしても、それは、先ほどもお伝えした「自己観察力」の養成によって、乗り越えられると思います。

そういった恐怖は、基本的に「自我」が消えることに対して抵抗する際に生じる「自我由来のもの」でしょうから、「自己観察力」がちゃんと成長していれば、きっと対処することができるはずです。

私からは以上です。

しかし、これはまたとても本質的で多くの人の役に立つ質問だったと思います。
この質問に関する質疑応答も、ブログで公開してもよろしいですか?
お返事いただけますと幸いです。

それでは、よろしくお願いいたします。

◎Aさんからの返信

丁寧な返信をありがとうございます。全くもって 腑に落ちました。

私の質疑応答は、今後もどうぞご自由になさってください。誰かの役に立つことがあったとしたら、すごいですね!

◎筆者からの返信

こんにちは、湯浅です。

お役に立てたようで良かったです。

ブログへの掲載も快諾していただき、ありがとうございます。

きっと同じ悩みを抱えている読者の方たちの役に立つと思います。

また何か疑問が生じましたら、いつでもご連絡ください。

それでは、今後ともよろしくお願いします。

◎皆様からのご質問をお待ちしております

以上が、Aさんとの間でおこなったやり取りです。

「実践をする時の恐怖とどう付き合うか」というのは、非常に繊細な問題ですが、これで悩んでいる人は案外多いのではないかと思います。

私の回答としては、先ほど上で引用したメールの通りです。

結論としては、「無理してやらなくてよい」ということですね。

理由としては、「無理しておこなうと心身を損なう可能性があるから」であり、「恐怖に飲み込まれていたら、そもそもまともに実践ができないから」です。

恐怖をどうにかするためには、まず自分の感情を落ち着いて観察できるようにならねばなりません。

これはもう、瞑想的な訓練を積むしかないと思います。

具体的な観察のやり方については、過去に一つ記事を書いているので、下記のリンクから確認してください。

「自分の恐れ」を恐れない|「確認できること」と「確認できないこと」を区別する瞑想的観察法

しかし、今回はAさんが追加で質問をしてくれたことで、私としても新たな視点が得られました。

「そうか、そういうことで困っている人がいるのだな」という気づきは、実際に実践をしている人たちの生の声を聞かないと、なかなか得られなかったりします。

私も、常日頃から「どういうことで困っている人がいるだろうか?」と想像するようにはしていますが、やはり個人の想像力で考えられることはたかが知れています。

なので、もしも探求を進めていく中で、困っていることや疑問に思っていることが出てきた場合には、遠慮なく質問をしてください。

あなたが質問してくれることで、私としては「新たな視点」が得られますし、あなたも何かしらの回答が得られます。

そして、もしその質疑応答を公開させてもらえるなら、同じようなことで悩んでいる他の読者の方たちの助けにもなるのです。

困っている人の誰もが質問をするわけではありません。

「思い切って声を出す人」が一人いた場合、その裏には、「同じようなことで困っていたけれど、なんとなく言い出せなくて黙っていた人」が実際には何人もいるものです。

そういった人たちの代わりに思い切って質問する人が出てくると、結果として皆の利益になっていきます。

ですので、質問をしていただくのは大歓迎です。

多くの人が様々な観点から問いを投げかけることによって、このブログはますます充実した「知のアーカイブ」となっていくでしょう。

もちろん、初めて質問する時は緊張するかもしれませんし、「こんなことを聞いて笑われないだろうか?」と不安になるかもしれません。

ですが、私はできる限り正面から受け止めるつもりですので、どんな小さな疑問でも思い切って投げかけてみてください。

そして、一緒にこのブログを「サンガ(学びの共同体)」へと育てていきましょう。

なお、質問や記事の感想などは、下記のお問い合わせフォームからお願いします。

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