【第12回】「瞑想」の第四段階《理論と実践》|「自我」は「虚構」に過ぎないと理解する

前回の記事では、「瞑想的な日常生活」を実践することで、「非常に大きな気づき」が起こるという話をしました。

その「気づき」とは、「『自我』と『自分』とは別のものである」という気づきです。

【第11回】「瞑想」の第三段階《理論と実践》|「自分は観察者だ」という錯覚に気づく方法

この気づきが起こる前までは、おそらくほとんどの人は、「『自我』こそが『自分自身』である」と信じて疑っていないでしょう。

しかし、ある瞬間に、それまで「主体」だと思っていた「自我」が、「意識(本当の自分)」によって客体化されてしまうという体験をします。

たとえば、自分の顔を自分の肉眼で見ることができないのと同じように、自分で自分のことを対象として客体化することは、そもそも私たちにはできないはずです。

にもかかわらず、「自我」が対象として客体化してしまった。

ということは、「自我」は「本当の自分」ではなかったのだ、ということになります。

初めてこのことに気づくと、当人は大きな衝撃を受けるでしょう。

なぜなら、それまで「自分だ」と信じて疑ていなかったものが、実は「自分」ではなかったわけなのですから、自然と物の見方や考え方が当人の中で大転換していきます。

では、いったいここからどのような変化が起こるのか?

今回は、連載第三部「瞑想の実践」の最終回として、このことを書いていこうと思います。

では、始めていきましょう。

◎この世界は「自我」が仕組んだ「ゲーム」の舞台である

先ほども書きましたように、「瞑想的な日常生活」を続けていると、どこかのタイミングで「『自我』は『自分』ではない」ということを当人は不意に悟ります。

その時、「自分」というもののアイデンティティが大きく揺れることになります。

というのも、もしも「自我」が「自分」でないのなら、これまで生きてきた人生において「自分のもの」だと思っていた、人格や性格、個性や価値観といったものが全て、「自分」とは実は関係なかったということになってしまうからです。

ですが、もしも私たちが誰かに自己紹介をする時には、私たちは当たり前のように自分の性格や個性について語るはずです。

たとえば、「自分はこういうことが好きで、こういったことが得意です」などといったように、「自分という人間」について語るわけです。

しかし、上記のような「『自我』は『自分』ではない」という気づきが起こると、当人はもうこのような自己紹介にリアリティを感じることはできなくなります。

なぜなら、「自分」というものは本質的に、「人間である」ということとも関係がないからです。

実際、「意識(本当の自分)」にはいかなる属性もありません。

それはただ純粋な「観る者」であり、「観照者」です。

それゆえ、「意識」には人格も個性もありませんし、「人間」という形にも限定されていません。

たとえば、夢の中で蝶々になることがあったとしても、「意識」はやはりそこに在ります。

もちろん、夢から覚めれば人間の身体に戻るわけですが、それはあくまでも「たまたま」のことであって、「意識」が必ずしも人間の身体の中に入っていなければならない理由は、特にこれと言ってないのです。

こういったことに気づくようになると、自分の人生のあれやこれやに「執着」することが、当人は徐々に難しくなっていきます。

なぜなら、あらゆることが、「自分」とは本質的に関係ないことのように思えるようになっていくからです。

たとえば、それまでは「自我」を喜ばせることが、「自分」を幸せにすることだと当人は信じていたはずです。

しかし、いったん「自我」と「自分」とが別々のものとして識別されるようになると、「『自我』を喜ばせても意味はないのではないか?」という疑いが生じ始めます。

実際、それは本当のことです。

むしろ、「自我」を満足させるために生きることによって、多くの人はかえって苦悩しています。

「もっと成果を上げて評価を得なければ」
「もっと名声を獲得しなければ」

こういった想いに囚われて苦しんでいる人は、世の中には大勢います。

それは、「自我」と「自分」が一体化してしまっているがために、「自我」の欲求を満たすことが、「自分自身」を満たすことに他ならないと思い込んでしまっているからです。

また次回以降に詳しく書いていくつもりですが、「自我」の目的は「世界という舞台を存続させること」です。

「自分はこの世界という大きな舞台で演じる役者であり、絶えず『特別な個人』となるべく努めねばならない」

「自我」は私たちにこのような信念を植え付けています。

それゆえ、誰もが生きている間は「特別な個人」となるべく奮闘します。

人によっては社会的な成功を追い求めるかもしれませんし、また別の人は職場や家庭で一目置かれることを求めるかもしれません。

逆に、社会的な落伍者になってしまったり、金銭や他人とのつながりを失って孤立すると、「自分には生きている価値はないのではないか?」と思えてきたりもします。

これらの私たちの反応は、全て「自我」が仕組んで発生させているものです。

「自我」は絶えず「この世界において『特別な個人』であれ」と命じ続けます。

そして、この声に衝き動かされるように、私たちは「特別な個人」を目指して奮闘します。

もしもこの「戦い」に勝てば「自我」は一時的に満足しますが、すぐにまた「もっともっと」と欲求し始めます。

「自我」はどこまで行っても真に満足することがありませんし、どんな「勝者」もいつかは負けてしまうでしょう。

なぜなら、たとえ最後の最後まで全ての他者に勝ち続けたとしても、結局は「死」がそれら全てを流し去っていってしまうからです。

逆に、もしも人生の途中でこの「戦い」に負けてしまうと、「自我」は深く傷ついて、私たちは「生きることは無意味だ」と感じるようになります。

人によっては自殺願望を抱くほどまで深く落ち込んでしまうかもしれません。

ですが、実際のところ、これらはみんな「自我」が作り出している「ゲーム」です。

「自我」はこの「ゲーム」に勝つことで喜び、負けることで傷つきます。

だから、もしも「自我」を「自分」であると錯覚し続けていると、この「ゲーム」の中から抜け出すことはできません。

私はいわゆる「輪廻」というのは、この「自我が仕組んだゲーム」のことではないかと思っています。

実際、この「ゲーム」の中に囚われている限り、人は「喜びと悲しみの円環」の中をグルグルと回り続けます。

人生で起こるあらゆることに一喜一憂し続け、真の意味での安心には至らず、無自覚に自分で自分を束縛し続けます。

もしもこの「終わりのない円環」から外に抜け出そうと思ったら、「自我」との一体化を打破しなければならないでしょう。

つまり、「この世界の中で『特別な個人』を目指す」という「ゲーム」の否定です。

そして実際、私たちはみんな「特別な個人」ではありません。

私たちの本質は全てを観ているだけの「意識」であり、私たちはいかなる意味でも決して「個人」ではないのです。

◎「『自我』は『虚構』である」という理解はすぐには根付かない

しかし、上記のようなことをすぐに理解できるようになるわけではありません。

実際、「観照者の目覚め」が起こり、「自我」と「自分」を同一視する錯覚が解けても、あいかわらず「自我」は働き続けます。

それはたとえ「悟り」と呼ばれる現象が起こった後であっても、です。

覚者であっても、「自我」が全くなくなっているわけではありません。

悟った後も、「自我」は人生における判断を下し続け、「意識」に方向性を与え続けます。

ですが、覚者は「自我」というものが「虚構(フィクション)」であることをはっきりと見抜いています。

「『自我』はあくまでも『よくできた作り物』であり、『真の実在』ではない」

このような理解があるために、覚者はたとえ「自我」が存続していても、「自我」による束縛を受けないのです。

ただ、そのような理解がすぐに根付くわけではありません。

「観照者の目覚め」を体験しても、「自我」と「自分」を同一視する錯覚は、すぐには解けないでしょう。

おそらく、何度も何度も、「『自我』こそが『本当の自分』である」という思い込みが復活してくるはずです。

ですがそれは、あくまで「これまでの人生の名残り」みたいなものです。

何十年もの間、「自我」をこそ「自分」であると思い込んで生きてきたため、そのように考えることが「根深い習慣」になってしまっているだけなのです。

この「習慣」を取り除くには、いくらか時間がかかります。

そして、そのための過程が、今回のメインテーマとなる、瞑想の第四段階です。

◎「私は在る」という感覚の中で沈黙すること

瞑想の第四段階は、実践の最終段階に当たります。

この後も、もう少しだけ探求は続きますが、意識的に実践することができるのはこれが最後になります。

と言うのも、この第四段階から先は「意図して目指す」ということができなくなり、「神の恩寵を信じて待つ」という以外に当人にはできることが一切なくなるためです。

ただ、それについてはまた次回以降に書いていこうと思います。

今は、瞑想の第四段階について話しましょう。


この第四段階においては、「私は在る」という感覚が鍵となります。

「私は在る」という言葉は、探求の道を歩んだ経験のある人なら、どこかで一度は聞いたことがあるかもしれません。

とても有名な言葉ですね。

ですが、自分自身の体験を通して理解している人は、それほど多くないかもしれません。

この言葉はもともと聖書に出てくる言葉で、「純粋な意識として留まっている状態」を意味しています。

たとえば、私たちが無自覚な思考に巻き込まれる時、私たちは我を失ってしまいます。

「意識」は思考に覆い隠され、私たちは「自分」を見失うわけです。

もちろんこれは、「私は在る」という状態ではありません。

そこ在るのは「私は在る」という感覚ではなく、むしろ「思考が在る」という感覚でしょう。

また、私たちは怒りや悲しみなどの感情によって、心を激しく動揺させられることがあります。

そういう時、やっぱり「意識」は感情によって覆い隠され、私たちは冷静でいることができなくなります。

この場合も、当人は「私は在る」とは感じられず、「感情こそが『自分』である」と感じるのではないでしょうか?

つまり、激しい感情に取り込まれることで、怒りそのもの、悲しみそのものになってしまうわけですね。

では、「自我」はどうでしょうか?

ここが一番の難関です。

というのも、「自我」は「私は在る」を偽装するのが非常に上手いからです。

実際、瞑想の中で思考や感情が沈静化すると、「自分は存在している」という内的な感覚が強くなってきます。

思考や感情といった「自分でないもの」が取り除かれたことで、その奥に在った「自分」という存在が表に出てくるわけです。

しかし、こういう場面で「自我」はすぐに手柄を横取りしていきます。

つまり、「この『在る』という感覚の源泉は『自我』なのだ」と言って、「自我」は私たちのことを惑わせてくるのです。

ですが、実際にはそうではありません。

「在る」という感覚の源泉はあくまで「意識」に属するのであり、「自我」は一時的にそれを「自我自身のもの」ででもあるかのように偽装しているだけなのです。

「自我」はしょせん「虚構」であり、そこに実体はありません。

ですが、「自我」はあたかも「在る」という感覚の源泉が己にあるかのように、私たちを錯覚させて惑わしてきます。

また、もしも本当に「私は在る」に留まるなら、当人の内側において全ての言葉は失われます。

いつもはおしゃべりな「自我」さえもが沈黙し、その「静寂」の中で「在る」という感覚だけが残るわけです。

ですが、多くの探求者はこういう時に、「今、私は在る!」と自分の内側で言ってしまいます。

そうして自分で「私は在る」と言うことによって、せっかく訪れた「静寂」を破壊し、「私は在る」を台無しにしてしまうのです。

非常に多くの探求者が、このジレンマに直面します。

なぜなら、ほとんどの人は、どうしても「私は在る」の中に無言のまま留まれないからです。

言い換えると、「自我」が黙っていられないわけです。

また、「自我」はあらゆるものを所有しようとします。

それは「私は在る」さえも例外ではありません。

「私は在る」というこの体験を、「自我」は自分の手柄として我が物にしようと画策します。

だから、「私は在る」を初めて体験したばかりの頃は、「今、確かに私は在る!私はついに真理を悟ったぞ!」と当人は思いがちです。

そうして「自分は選ばれた『特別な人間』なのだ!」という発想が生まれ、「自我(エゴ)」が肥大化していくのです。

ですが、「意識(本当の自分)」はそんなことはいちいち言いません。

これらの想念はあくまでも「自我」が生み出すものであり、この「自我」の声に掻き乱されてしまうことによって、当人は「私は在る」を取り逃し続けてしまうことになります。

なので、もしも「私は在る」の中に留まろうと思ったら、思考や感情だけでなく、「自我」にも沈黙していてもらわなければいけません。

そして、これこそが、瞑想の第四段階における実践となります。

つまり、「沈黙の中に留まること」です。

◎「人生」という「ゲーム」から自由になる時

もしも私たちが「沈黙」の中に留まり続けるなら、「自我」と「自分」を同一視する「私たちの根深い習慣」は、徐々に力を失っていきます。

「自我」を「自分」と取り違えることはなくなっていき、「『自我』とは結局『虚構(フィクション)』である」という理解が根付いていくでしょう。

それと同時に、「自我」を満足させるために走り続ける「ゲーム(輪廻)」からも抜け出すことができるようになっていきます。

そして、当人にとって人生とは「自分のとっての一大事」ではなくなり、「単なるゲーム」のようなものになっていくはずです。

この「ゲーム」で勝つのも負けるのも、同様に大した意味はありません。

なぜなら、もしも「沈黙」に留まり続けるならば、この「ゲーム」を根底から支えていた「自我」が力を失っていくからです。

◎「知る」ということは、自分自身で体験すること

以上で、瞑想の実践における四段階の説明が全て終わりました。

だいぶ長い話になってしまいましたが、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

ただ、くれぐれも注意してください。

私はあくまでも「自分自身で体験したこと」を語ったにすぎません。

ですから、それを何か「既存の情報」のように考えて、頭でだけ理解しないようにしてほしいと思っています。

実際、「この世界はしょせん『虚構』であり、人生は勝っても負けても同じようなものだ」といくら唱えてみたところ、現実に人生の諸問題にぶつかると、そういった言葉は何の力も持たないものです。

大事なことは、私がこれまで語ったことを、あなた自身が自分で確かめてみることです。

私の言ったことは本当なのか?

本当にこの世界も、人生も、「私」という観念も「虚構」に過ぎないのか?

もしこれを自分で確かめたなら、その時、当人は本当に「生きることはまるで『ゲーム』のようなものだ」と感じ始めるのではないかと思います。

でも、そのように実際には感じていないのに、頭の中だけで「人生はしょせん『ゲーム』に過ぎない」といくら繰り返しても、そんなことで自分は欺けません。

瞑想の実践とは、決して自分を欺くことではなく、むしろ「世界も人生も『虚構』である」ということを感覚的なレベルで深く納得するためにおこなうものです。

そして、それこそが、本当の意味で「知る」ということなのではないかと思います。

少し厳しい言い方にはなりますが、「情報」をただ頭に詰め込んでわかったつもりでいることは、決して「知っている」ということを意味しておらず、むしろ「自身の無知に気づいていないだけ」である場合が多いものです。

知的な認識には何の「味」もありません。

私たちを本当の意味で変えるのは、体験的な理解が持っている「深い味わい」だけです。

私はそのような「味わい」を持った水が流れる川の前まで、あなたを連れてきました。

この水を飲むか飲まないかは、あなた次第です。

そして、他でもないあなた自身が自分で「それ」を体験する時、初めてあなたの世界は変わるのです。


これで、第二部の「純粋な喜び」についての理解と、第三部の「意識」についての理解が説明し終わりました。

これからは、最終章として、第四部が始まります。

といっても、ここから語れることはそう多くありません。

なぜなら、探求における「最終的な目的地」というのは、意図して目指すということができないためです。

つまり、主体的にできることを全てやったら、あとは「最後の悟り」が起こるのを信じて待つ以外にないということです。

ですが、そうして待つ際に知っておいたほうが良いこともあると思いますので、そういったことを次回から書いていこうと思っています。

この連載のフィナーレも近いです。

では、また次回。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第13回】どちらか一つの理解では足りない|「意識」と「純粋な喜び」の関連性について