前回の記事では、瞑想の第二段階である「集中しない瞑想」の実践に入る前に、まず理論的な話をお伝えしました。
【第10回】「瞑想」の第二段階《理論編》|二種類の「サマーディ」を知ることの意味について
前回書いたのは、「なぜ『集中する瞑想』から『集中しない瞑想』への移行が必要なのか?」ということについてでした。
そもそも、「瞑想」というのは、私たち自身の束縛を破壊し、「自由」を実現するためのものです。
そして、「自由」を実現するためには、「サマーディ」について理解する必要があります。
「サマーディ」というのは、「思考のない静けさの中で感じる穏やかな幸福感」のことです。
そして、「サマーディ」には、「原因のあるサマーディ」と「原因のないサマーディ」の二種類が存在するのでした。
「原因のあるサマーディ」とは、主に「集中する瞑想」の中で感じられるものです。
つまりこの「サマーディ」は、「集中する」ということが原因になって、結果的に発生するものだということです。
ここにおいて、「集中」と「サマーディ」の間には因果関係があり、「集中」がなければ「サマーディ」もありません。
それに対して、「原因のないサマーディ」には、その名の通り、原因がありません。
「何の理由もなく、存在するだけで何故か感じられる幸福感」が「原因のないサマーディ」です。
そして、人はこの「原因のない幸福感」を知らない限り、「執着」を手放すことができません。
実際、世の中のほとんどの人たちは、「何か『大きなこと』を成し遂げなければ」とか、「他の誰とも違う『特別な人間』にならなければ」とかいったことを、多かれ少なかれ考えながら生きています。
なぜなら、「何も成し遂げず、『特別な個人』にもなれなかったら、自分は幸福になれないし、人生にも意味がなくなる」と思い込んでいるからです。
ですが、実際のところ、私たちはただ存在するだけで「幸福」を感じることができます。
そのような「幸福感」こそ、「原因のないサマーディ」の中で感じられるものです。
「幸福」を感じるためには、何の原因も必要ではない。
何かを成し遂げる必要もなければ、「特別な個人」になる必要もないのだ。
「原因のないサマーディ」が自身の中に定着していくと、当人はこのことが体験的に理解できるようになります。
そして、もしもこの理解が起こったなら、当人は必要以上に名声や社会的成功を追い求めたり、「特別な個人」であろうとして苦しむことが少なくなっていくでしょう。
なぜなら、「本当に欲しかったもの(=幸福感)」は、既に手に入っているからです。
さて、前置きが長くなりましたが、今回はその「原因のないサマーディ」の入り口にあたる実践編です。
前回の「第10回」が理論編でしたので、今回の「第10.5回」とセットで理解しておいてください。
なお、この第二段階で実践する瞑想法を、私は個人的に「集中しない瞑想」と呼んでいます。
それはいったいどんなものなのでしょうか?
では、具体的な内容に入っていきましょう。
◎気づくのは「あなた(自我)」ではなくて「無意識」である
過去に、瞑想の第一段階についての解説の中で、私は「呼吸に集中する瞑想法」を紹介しました。
【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想
これは、ジッと坐って目を閉じて、自分の呼吸にひたすら集中する瞑想法です。
そして、第二段階の「集中しない瞑想」においても、基本的な部分は、これと共通しています。
まず、自宅の一室など、一人になれる静かな場所を見つけて、そこに腰を下ろしてください。
坐り方は自由ですし、足が痛くなる方は椅子を使っていただいても構いません。
ただし、椅子を使う場合は背もたれに寄りかからないようにします。
眠ってしまう可能性があるので。
さて、ここまでは「呼吸に集中する瞑想」と同じです。
ここからが違います。
「呼吸に集中する瞑想」ではここから、自分の呼吸に自覚的に意識を向けていきましたが、今回はどこにも意識を向けないでください。
「え、そんなのどうやるの?」と思うかもしれません。
そう思われるのも、もっともです。
なぜなら、私たちは「何かをすること」にかけては子どもの頃から訓練されていますが、「何もしないこと」については誰にも教えてもらったことがないからです。
おそらく、この「集中しない瞑想」を実践し始めた最初の頃は、落ち着かなくてソワソワすると思います。
きっと、何でもいいから何かをしたくなってしまうはずです。
実際、「自我」は「集中する対象」がなくなることによって、オロオロし始めます。
ですが、それについてはあえて気にせず、「ただ坐る」ということを続けてください。
すると、たぶんそのうち無自覚な思考に巻き込まれて我を失ってしまうはずです。
第一段階の「呼吸に集中する瞑想」を既に実践していれば、この体験をうんざりするほど味わったのではないかと思います。
いつの間にか思考が湧いてきて、自覚が失われてしまう体験です。
ですが、しばらくすると私たちは、自分がいつの間にか思考に巻き込まれていたことに「ハッ」と気づいて、再び呼吸へと集中し始めます。
第一段階における瞑想の実践とは、その繰り返しだったのではないかと思います。
でも、第一段階の実践をしていた時、あなたは不思議に思いませんでしたか?
あなたはどうして、思考に巻き込まれた時に「ハッ」と気づくことができたのでしょう?
だって、思考に巻き込まれている時、あなたにはその自覚がありません。
自覚があるのであれば、「おぉ、いかんいかん。ちゃんと呼吸に集中しなければ」と思うこともできるでしょうけれど、そもそも自覚がないのですから、そんなことは不可能なはずです。
つまり、思考にいつの間にか巻き込まれていたことに気づくのは、「あなた(自我)」ではないのです。
実は、私たちの「無意識」がこうした気づきを起こしてくれています。
私たちが「思考の雲」の中から戻ってくることができるのは、実のところ、「無意識」のおかげなのです。
◎「集中しない瞑想」とは、「無意識」にとっての筋トレである
そもそも、思考に巻き込まれている時、「自我」は眠りこけていて、「集中する」という自分の仕事をしていません。
ですが、「無意識」はその状態から私たちを連れ戻してくれます。
これが、思考に巻き込まれていたことに、「ハッ」と気づく体験なんですね。
この「ハッ」と気づく現象は、当たり前ですけど、意図して起こすことができません。
だって、何かを意図することが仕事である「自我」が、思考に巻き込まれて眠っているからです。
ですから、「ハッ」と気づくためには、「無意識」の協力が必要不可欠とも言えます。
そして、これも実践を続けていくとわかることですが、思考に巻き込まれてから「ハッ」と気づくまでの時間は、徐々に短くなっていきます。
たとえば、人によっては瞑想の実践を始めたばかりの頃、5分間坐っていると、そのほとんどが考え事でいっぱいだったのではないかと思います。
しかし、実践を続けていると、「ハッ」と気づくことが増えてきて、思考に巻き込まれている時間は減っていきます。
なぜそういうことが起こるかと言うと、瞑想の実践を続けることで、「無意識の力」が強化されるからです。
それは、「気づく力」と言い換えてもいいでしょう。
ここにおいて、別に「気づこう、気づこう…」と力む必要はありません。
むしろ、そんなことをしても何の意味もありません。
というのも、私たち自身が意志する・意志しないにかかわらず、「無意識」は働き続けるからです。
第二段階の実践においては、この「無意識の力」を優先的に伸ばしていきます。
いわば「無意識の筋トレ」です。
思考に巻き込まれてから「ハッ」と気づくまでの時間をどんどん短くしていき、最終的には「何の努力をしなくても無思考に留まれる状態」に至るのを目指していきます。
これが、第二段階の実践である「集中しない瞑想」の方向性です。
◎「集中しない瞑想」は、「瞑想的な日常生活」への橋渡し
ということで、もう一度、「集中しない瞑想」のやり方を確認します。
静かな場所に一人で坐って目を閉じて、そのまま何もしないでただ待ちます。
すると、遅かれ早かれ思考に巻き込まれるでしょう。
「自分から思考に巻き込まれに行こう」と考える必要はありません。
思考が無いなら無いで構いません。
そして、もしも思考に巻き込まれたら、そのうち「ハッ」と気づいて戻ってくることになります。
これをひたすら繰り返してください。
「集中しない瞑想」の目的を理解しやすくするために、「集中する瞑想」といったい何が違うのか、ここで一度、情報を整理してみましょう。
- 第一段階「集中する瞑想」
瞑想対象 :有る(呼吸など)
目 的 :「自我」を強化し、思考を静めること
サマーディ:原因のあるサマーディ(集中することで生じる幸福感) - 第二段階「集中しない瞑想」
瞑想対象 :無し(ただ坐るだけ)
目 的 :「無意識」を強化し、自然と思考から戻れるようにすること
サマーディ:原因のないサマーディ(ただ在るだけで感じる幸福感)
なんとなく整理できましたか?
このように、「集中しない瞑想」では、「無意識」が持つ「気づく力」を鍛えていって、「ハッ」とするまでの時間を短くしていきます。
なぜこれが重要なのかと言うと、次の第三段階の実践内容が「瞑想的な日常生活」だからです。
たとえば、もしもあなたが第一段階しか終わっていない場合、あなたは常に何かに集中していないと思考を抑えることができません。
もしも集中することをやめると、途端に思考が湧き出してきて止まらなくなってしまうでしょう。
しかし、それだと瞑想を日常生活の中に持ち込むことができません。
当たり前ですが、毎日起きてから寝るまでの間ずっと集中し続けていたら、どんな人でもいつかは壊れてしまいます。
そうした事態を避けるためにも、まずは「ただ坐る」というシンプルな体勢で、「無意識」がしっかり働ける基盤を作っていきます。
「無意識の力」が十分に鍛えられると、たとえば車を運転しながらでも、「瞑想状態(思考のない静かな状態)」が維持できるようになっていきます。
ここまで行けば、瞑想を日常生活の中に持ち込むことも現実的になってくるでしょう。
ですので、この第二段階では、じっくり「無意識」を育てていきます。
ですが、別に「頑張って育てよう!」と考える必要はありません。
なぜなら、「思考に巻き込まれては『ハッ』と気づいて戻ってくる」ということを繰り返し続けるだけで、「無意識の力」は勝手に鍛えられていくからです。
ただし、すぐに「無意識の力」が伸びていくということはないでしょう。
この第二段階を完了するには、いくらか時間がかかることをあらかじめ覚悟しておいてください。
ですが、もしも実践を続けていくなら、ある時にふと「そう言えば、最近思考に巻き込まれることが減ってきたな」と感じるのではないかと思います。
集中によって思考を抑え込んでいないのに、勝手に思考が湧いてこなくなっていくわけですね。
◎「集中」は最低限でよい理由|「何もしないこと」の中でリラックスする
ただしそれは、「一切集中してはいけない」ということでもないのです。
というよりも、最低限の集中力の維持は必須です。
なぜなら、まったく集中しないでただ坐っているだけだと、眠り込んでしまう可能性が高いからです。
ですから、眠り込んでしまわないでいられるだけの注意は維持する必要があります。
それでも、何もしないでただ坐っていると、「これでいいのかな?」と不安になったり、落ち着かなくてソワソワしてくることがあるでしょう。
でも、大丈夫です。
そういった状態になってしまうのは、「自我」が強く表に出てきているからです。
「自我」は常に何かをしようとし続けるので、「何もしないこと」の中では、「何でもいいから早く何かさせろ!」と叫び始めるのです。
ですが、「無意識」が育ってくるにしたがって、徐々に「自我」の主張は弱まり、「無意識」のほうが表に出てくるようになります。
言わば、「自我」が「無意識」にバトンタッチするような感じですね。
こうした変化が起こってくると、主観的にも「手持ち無沙汰で落ち着かない感じ」が、段々としなくなっていきます。
むしろ、何もせずにただ坐っていることで、深くリラックスできることさえあるかもしれません。
もしもあなたが「何もしないこと」の中でくつろげたなら、それは「無意識」が育っているということの証拠であり、実践が正しい方向に進んでいるということです。
「何もしないこと」の中でリラックスできるかどうか?
これを、実践における指標の一つとしてください。
◎第二段階の実践における「ゴール」について
さて、やり方はこれで説明できたので、最後に第二段階における「ゴール」を設定します。
今回は、第一段階の「ゴール」に比べると、達成するのがちょっと難しいかもしれません。
それは、「30分間ほぼ思考せずにいられるようになること」です。
「え、30分間も!?そんなの無理だよ!」と思われるかもしれません。
もちろん、完璧を求める必要はありません。
だいたい思考が湧いてきていなければ大丈夫です。
どのみち、第三段階以降のプロセスでも「無意識の力」は伸ばしていくので、ここで完璧を求める必要はありません。
まずは、「30分間、思考に一度も巻き込まれないこと」を目指してみてください。
思考が多少湧いてくるのは、まあOKということにして、せめて「思考に巻き込まれて我を失うこと」が30分一度もない状態を、まずは目指します。
まあ、「目指します」と言っても、仕事をするのは「無意識」なので、私たちにはこの目標を自覚的に目指すことはできません。
なので、あまり「絶対思考しないようにしなければ!」と肩に力を入れたりせず、「無意識の力」を徐々に伸ばしながら、ある時ふと「そういえばずいぶん長いこと思考に巻き込まれてないな」と気づくくらいの力加減のほうがいいかもしれません。
あなたの「無意識」が一歩ずつ成長していくことを祈っています。
ということで、今回は瞑想の第二段階における「実践編」でした。
この「集中しない瞑想」を実践すれば、次第に「無意識の力」が伸びていき、徐々に「何もしなくても思考が湧いてこない」という状態になっていくはずです。
そして、「30分間、《ほぼ》思考せずにいられること」が達成できたら、次の第三段階である「瞑想的な日常生活」に移行してもらって問題ありません。
ただ、その第三段階について説明する前に、この辺で触れておいたほうが良いトピックが一つあります。
それは「退屈」についてです。
おそらく、今回の「集中しない瞑想」を実践し始めると、ほとんどの方がこの問題に直面することになるのではないかと思います。
「退屈」とはいったい何なのか?
私たちは「退屈」とどうやって向き合ったらいいのか?
次回はそういったことを書いていきたいと思っています。
では、また次回。
⇓⇓次回の記事です⇓⇓