【注意喚起】技法の実践において、「情報の詰め込み」が問題となる理由

前回と前々回の記事では、瞑想の第一段階にあたる「集中する瞑想」について述べました。

【第9回】「瞑想」の第一段階《理論編》|なぜいったん「自我」を強化するのか?

【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想

そこで、今回からは第二段階である「集中しない瞑想」に入っていこうかと思っていたのですが、ちょっとその前に読者の方々の注意を促しておきたいことがあることに思い至りました。

なので、今回は少しその話をさせてください。

◎続けて読むより、適度に内省してみてほしい理由

今現在、私はかなり時間の融通が利く生活をしており、毎日なかなかのハイペースで記事を更新しています。

5000文字~10000文字弱もある長文の記事を、だいたい1日に2~3本書いていると思います。

そして、こんな風に私がバリバリ更新している中、リアルタイムで同じように最新記事を読み進めている人も、ひょっとしたらいるのかもしれません。

ですが、当たり前ですけど、私の更新ペースに合わせて読み進める必要は全くありません。

むしろ、そうするのはメリットよりデメリットのほうが多いと、私は考えます。

なぜでしょう?

もちろん、続けてたくさん読んでくれる読者がいたら、私としても嬉しいです。

でも、私がいつも書いている記事というのは、基本的に理屈がかなり込み入っていたり、世間一般の考え方と真逆のことを言っていたりします。

それゆえ、続けていくつも記事を読むと、頭がグルグルしてきて、たぶん消化不良を起こすのではないかと思います。

ですので、私としては、できれば記事を読んだ後、読者の方にはすぐに次の記事は読まずに、数日間ほど「あの記事に書いてあったことって、どういうことだったのかなー?」と内省しながら過ごしてみてほしいと思っています。

実際、自分が読んだ内容をしっかり咀嚼し、他でもない自分の血肉にするためには、いくらか時間が必要なものです。

もしもそれを急ぐと、たくさん私の文章を読んでも、読者は自分の中に何も残らなかったりするかもしれません。

そもそも、私の記事は「単なる情報」として受け渡すことを目的としておらず(そういうのは、ウィキペディアとかニュース速報の仕事です)、あくまで読者の方自身に内省と実践をしてもらうことを目的として書かれています。

ですので、読者の方が、記事を読むことを通じて「何らかの既成の情報」を得ようと思っていた場合、たぶんその人は私の記事の内容を受け取り損ねてしまいます。

そうならないように、なるべく記事を続けていくつも読まずに、一度読んだらいくらか時間を空けて読んでほしいと、内心では思っている次第です(まあ、こんなに長い文章を次々読む人もほとんどいないと思いますけれど)。

◎結果をコントロールしようとする矛盾について

また、「理論的な説明」をあまり先回りして知り過ぎることは、技法の実践上も好ましいことではありません。

なぜなら、「理論的な説明」で得た「情報」に過度に囚われると、当人は自分の実践を縛り始めてしまう可能性があるからです。

たとえば、前回の記事で私は、「呼吸に意識を集中すると思考が閉め出されて内側が静かになる」と書きました。

これは確かに事実です。

集中によって思考は静まり、実際に「内的な静けさ」は訪れます。

ですが、これを実践をしないで「既成の情報」としてだけ先に知ってしまうと、時々、問題が発生します。

それは、当人が実践の結果をコントロールしようとし始めることです。

たとえば、さっきも言いましたように、呼吸に集中すると、《結果として》思考は静まります。

ですが、思考が静まるのは、当人が集中したことによる「自然な成り行き」として起こる現象であって、意図して「静けさ」を作ることは私たちにはできません。

私たちにできるのは、実践中に「呼吸へ集中しよう」と努めることだけです。

そして、もしその努力が真剣に行われれば、そのうち思考は勝手に収まっていきます。

「静かにしよう」と当人が思っていなくても、です。

しかし、「最終的に思考は静かになる」という「情報」を先に得ていると、人によっては、「聞いていた通りの結果」が起こるように、「事の成り行き」をコントロールしたくなってくることがあります。

つまり、当人が本当にやるべきことは「呼吸に集中すること」なのに、「早く静かになれ!思考!」とばかり考えて、落ち着いて内側が静かになるのを待てなくなってしまうのです。

たとえば、あなたは意図して「楽しさ」を作り出すことができるでしょうか?

「楽しさよ、起これ!」と自分で自分に命じて、内側に「楽しさ」を作り出せますか?

まさかそんな人はいないと思います。

私たちが「楽しさ」を感じるのは、「楽しいこと」をするからです。

「楽しいこと」をしたことの結果として、「楽しさ」が生じてくるわけです。

それと同じように、「静けさ」を自分で作り出すことはできません。

私たちにできることは、目の前の課題である「呼吸への集中」に力を注ぐことだけなのです。

◎技法を実践する時は、懐疑心と知的好奇心のバランスを取る

実践を始める前に「理論的な背景」を学ぶことのジレンマは、ここにあります。

もちろん、実践を進めていく上では、具体的なやり方を知らなければなりませんし、注意すべきポイントもおさえる必要があります。

ですが、そうして得た「情報」が実践に先行し過ぎると、当人は「学んだとおりの結果」以外受け付けなくなってしまいがちです。

そして、「学んだとおりの結果」がなかなか起こってくれないと、当人はそれを意図的に作り出したい欲求に、囚われていってしまうのです。

そうならないためには、学んだ内容をあまり頭から信じ込まないことです。

もちろん、「科学的な情報」などであれば、話は別です。

なぜなら、科学の世界においては、「先人が築いた知的体系」を前提として受け入れないと、何も新しいことを考えることができないからです。

もちろん、アインシュタインの相対性理論や、コペルニクスの地動説みたいに、それまでの科学体系を根底から覆すような発見もなくはないですが、そういうのはむしろ例外でしょう。

いずれにせよ、そういった「先人の言うこと」をそのまま受け入れることが前提となる科学の世界と違って、私が提唱しているような「心身を解放する技法」については、頭から信じることは推奨しません。

むしろ、「本当だろうか?」と疑ってかかったほうがいいです。

そして、「本当かどうか」が気になる人だけが、自分の心身を使って確かめてみたらいいのです。

実際、私自身も何か技法を学ぶ時には、最初、疑ってかかります。

でも、私の場合、そこから「本当かどうか自分で知りたい!」と強く思うことが多いので、実践だけはコツコツ続けてくることができました。

そういう意味では、「懐疑心と知的好奇心のバランスがいい人」というのは、「心身を変容させる技法」の実践に適しているのかもしれません。

つまり、他人に「こうなんですよ」と言われるだけだと納得しない人です。

そういう人、いますよね?

たとえば、Amazonで売っている商品について、他人のレビューも参考までに見はするけど、実際に自分で買って使ってみるまで、品質について信じない人です。

結局のところ、そういう人だけが「実践のゴール」まで辿り着きます。

つまり、「答え」を言葉で与えられるだけじゃ満足しない人です。

そういった人は、技法を実践する時も徹底的にやりますし、その結果として実践がスムーズに進みやすいです。

なぜなら彼/彼女は、他人から話を聞いただけでは満足せず、実際に自分の足で「ゴール」まで歩いていこうとするからです。

◎「追従者」ではなく「証人」として

ですので、こんな言い方をするのも変かもしれませんが、私は読者に「追従者」になってほしくないと思っています。

そうではなくて、読者には私の「証人」になってほしいと思っているのです。

私が書いた記事を読んで、それから自分でも実践してみて、その結果、「確かにこの人の言うとおりだった」と思ったなら、その時初めてその人は私の「証人」になります。

つまり、もしも私以外の人が実際に私の言う方法を実践してみて、その場合にも私の言った通りの結果が起こったのなら、その時には私が言っていることに「再現性」があったということです。

そしてその時には、まさにその人の存在そのものが、私の方法論の「正しさ」を証明してくれることになります。

私が「追従者」ではなく「証人」になってほしいと言うのは、そういう意味です。

いずれにせよ、「情報」ばかりを頭の中に入れると消化不良になりやすいですし、時によっては実践の妨げにもなります。

歩くスピードはみんなそれぞれですから、無理をして詰め込む必要はありません。

読者それぞれが、自分のペースで着実に実践をしてもらえればと思っています。

あなたには、私の言うことを信じ込むのではなく、一緒に「真実」を証明する手伝いをしてほしいと私自身は望んでいます。


ということで、今回は瞑想の第二段階である「集中しない瞑想」について書くつもりだったのですが、思いのほか話が長くなってしまいましたので、いったんここで終わろうと思います。

次回こそ、「集中しない瞑想」の内容に入っていくつもりです。

では、また次回。

⇓⇓次回の記事です⇓⇓

【第10回】「瞑想」の第二段階《理論編》|二種類の「サマーディ」を知ることの意味について