「至福」と「エクスタシー」の違いは何か?「エクスタシー」という名の「悟りの一瞥」について

世の中では、「薬物を使用することによって、『悟り』と同じ精神状態を作り出すことができる」と言われることがあります。

私自身はドラッグなどを使った経験はありませんが、「強烈な歓喜」のような激しい感情を味わうことで、一時的に解放感を感じることができるのは知っています。

それはいわば、「内的な爆発」のようなものによって「エクスタシー」に達している状態です。

たとえば、ずっと想い続けていた人と結ばれた瞬間であるとか、長い間目指し続けていた夢が現実になった瞬間などには、人は深い充実感と解放感を味わうものです。

このような状態に至ると、確かに「悟り」と似たような感覚になることがあります。

しかし、そこには決定的な違いも存在してます。

今回の記事では、いったいそこにどんな違いがあるのかを考察してみるつもりです。

そして、「薬物」とまではいかなくても、なんらかの「エクスタシー」によって「悟り」に到達しようとしている人には、「その方向で実践を積むのは、ほどほどにしておいたほうがいいですよ」とお伝えしたいと思います。

もちろん、「エクスタシー」も探求の過程における一種の「突破口」としては有用なのですが、それにいつまでも頼っていると、どこかの段階でそれ以上進めなくなってしまうと思います。

ともあれ、前置きはこれくらいにして、具体的な話に入っていきましょう。

では、始めます。

◎OSHO考案の「ダイナミック・メディテーション」全プロセス

私自身は、かつてまだ本格的に探求の道に入っていない時、「エクスタシー」を経験したことがありました。

それはOSHOという覚者が考案した「ダイナミック・メディテーション」という瞑想法を実践していた時のことです。

知らない方のために説明すると、この瞑想法はOSHOの「活動的瞑想法(アクティブ・メディテーション)」と言われているものの一つで、その中でも特に激しい行為を伴うものでした。

たとえば、最初はまず「鼻からひたすら息を吐き続ける」ということをします。

「吸う息は身体が面倒を見てくれるから、とにかく身体の中に残っている息を出し続けるように」と指導されるのです。

しかも、激しいドラムの音が鳴り響く中でそれをおこないます。

必死になって息を吐き続けていると、軽くトランスに入りそうになるほどです。

そうして鼻から息を吐き続けていると、鼻水がダラダラ垂れてくるので、人によっては前もってテッシュを何枚か持っておくこともあります(少なくとも、私はそうしていました)。

そして、それを10分間続けたら、急に音楽が変わります。

今度は、どことなく「テクノ」っぽい音楽が流れ始め、実践者は狂ったように叫び始めます。

なぜなら、自分の中にある感情を、何でもそのまま表現するように促されるからです。

私が実践していた時は、OSHO瞑想会のグループで防音施設を借り切っていて、10人ほどの人々がそれぞれに言葉にならない雄叫びを上げていました。

座布団を床に叩きつける人もいれば、獣のように這いずり回っている人もいました。

私もまた、オオカミのように雄叫びを上げ、かつて親から受け取れなかった愛情を求めるように、「なぜ愛してくれなかったんだ!!」と、のどが裂けそうなほどの大声でひたすら叫んでいたものです。

そんな混沌とした状態が10分間続くと、また音楽が変わります。

今度は何かボールが同じリズムで弾み続けるようなシンプルな曲調になり、実践者は両手を上げてひたすら跳ね続けます。

着地するごとに口から「フー!」と息を吐いて、踵から下腹部に衝撃が突き上げてくるのを感じるようにします。

正直言って、この3番目のフェイズが一番きついです。

ここまでの過程でみんなへとへとになっており、人によっては足元に当人の汗が水たまりのように集まっていました。

そんな状態で、手を上げっぱなしにしてずっとジャンプしていなければならないのですから、本当にしんどいのです。

ですが、この地獄のような10分を乗り越えると、次の15分間はまた違う世界が開けてきます。

OSHOの「ストップ!」という声とともに、音楽が一切なくなり、実践者はピクリとも動かなくなるのです。

この15分間は、汗を拭くことも姿勢を変えることもしてはいけません。

ただただ、身体の動きを一切止めて、内側を観察し続けるのです。

それまで必死に動き回っていたところから、急に身体の動きが止まるので、内側の動きがいつもよりよく見えるようになります。

「身体が止まっている」ということと、「内側がまだわずかに動いている」ということとの間で、静と動のコントラストが生じ、自己観察力が冷たいほどに研ぎ澄まされるのです。

そうして「静寂」の15分間が経過したら、最後の15分間は「祝祭の時間」です。

突然、笛の音が聞こえてきて、まるで「神聖なお祭り」をしているかのような音楽が流れ出します。

そうしたら、実践者たちは思い思いに「祝いの踊り」を踊ります。

「うまく踊ろう」と考える必要はなく、ただ身体が動くままに任せて、そのまま15分間踊り続けるのです。

これで全1時間の「ダイナミック・メディテーション」は終了です。

◎身体に「生気」を失った現代人に対する、OSHOからの処方箋

ちなみに、私は現地に行ったことがありませんが、インドのOSHOコミューンでは毎朝この「ダイナミック・メディテーション」を実践していたそうです。

とてつもない騒音が発生するので、近隣住民とはよくトラブルになっていたそうですが、OSHOはこの瞑想法をとても重視していたように思います。

なんでOSHOがこんな「激しい瞑想法」を推奨していたかと言うと、「現代人は頭と身体に無数の『ゴミ』を溜め込んでいる」と、彼が考えていたからです。

そもそも、現代人は昔の人類に比べて文明的には発達しましたが、その分だけ「頭でっかち」になってしまいました。

誰もが「道徳」や「社会のルール」に縛られていて、言いたいことも満足に言えません。

そうして抑圧された思考や感情は、身体に蓄積されて「ブロック」を作り出します。

たとえば、常日頃から「怒り」を抑え込んでいる人は、それが爆発しないように無意識に身体を硬直させています。

そうした「身体の硬直」が何度も繰り返されていけば、それは慢性的なものとなり、当人の身体の動きをぎこちないものに変えてしまうでしょう。

また、「悲しくても泣いてはいけない」と思っている人は、涙をこらえるために顔の筋肉を引きつらせます。

それが日常的なものになってしまうと、顔が強張って無表情になっていき、当人はたとえ「悲しい出来事」に遭遇しても、「悲しさ」を感じることができなくなってしまうのです。

このような形で、私たちが「円滑な社会生活のために」と言って、自身の思考や感情を押し殺してきた結果、私たち現代人の身体は「生気のないもの」になってしまいました。

確かにそれによって「社会的なトラブル」は避けられるようになったかもしれませんし、業績を上げるための「計算高さ」も身に着いたかもしれません。

しかし、結果的に私たちの身体はガチガチに硬直しており、感受性はすっかり鈍ってしまっています。

OSHOはそういった現代人に特有の「病理」に対して、「活動的瞑想法(アクティブ・メディテーション)」を処方しました。

実際、「現代人はあまりにも多くの思考や感情を抑圧し過ぎているので、坐禅のように『何もしないでただ坐る』ということは非常に難しいだろう」とOSHOは考えていたようです。

だから、激しく身体を動かして、自分の中の抑圧された思考と感情を解き放つためのフェイズを、OSHOはあえて瞑想法の中に取り入れていたのです。

◎「悟りの一瞥」をもたらしてくれた、たった一度だけの「エクスタシー」

そして、そのOSHOの目論見は、私に関して言えば、確かに成功しました。

なぜなら、私は「ダイナミック・メディテーション」を何度か繰り返すうちに、徐々に自分の中に埋め込まれていた「古い感情」を掘り起こすことに成功したからです。

私はそれらの感情を、文字通り「叫び」とともに解放していきました。

自分の中でずっと目を向けられていなかった感情たちが、そうやって「叫ぶ」ことによって成仏していき、私は深い「解放感」を感じたのです。

すると、「ダイナミック・メディテーション」の最後に位置する「祝祭のパート」で、私の身体は自動的に動き出しました。

まるで何かが自分に乗り移りでもしたかのように、身体は自然と軌跡を描き、滑らかに踊り出したのです。

その時の私は確かに「エクスタシー」の中にいました。

「そうだ、何もかも間違っていない。これで全ていいのだ」という安心感を覚え、私は15分間踊り続けたのでした。

しかし、瞑想の実践が終わって1時間も経つ頃には、私は元の自分に戻っていました。

もう「何もかもこれでいい」とは感じることができず、私は「自分の人生に対する欲求不満」と、「安らぎに対する渇望」に囚われていました。

「エクスタシー」は、確かに私に「悟りの一瞥(いちべつ)」を与えてはくれたのですが、それは全く定着しなかったのです。

それ以来、「もう一度、あの『エクスタシー』を味わいたい!」と思うようになった私は、何度か「ダイナミック・メディテーション」を試みました。

しかし、「『エクスタシー』をもう一度体験したい!」という以前はなかった欲求が邪魔して、私は前より実践に集中できなくなってしまっていました。

時には、「今回は『エクスタシー』に至れなそうだ」と感じた時点で、実践をさっさと中断してしまうこともあったほどです。

結局、そのあと私は一度も「エクスタシー」を体験することはありませんでした。

それは決して戻ってくることはなく、コントロールすることもできなかったのです。

◎「自我」によって囚われている人の意識状態

こういった時、もしも「この薬を飲めば、あの感覚をもう一度味わえるぞ」と誰かにそそのかされていれば、私はそれに乗ってしまったかもしれません。

それほどまでに、私の「エクスタシー」に対する渇望は大きかったのです。

しかし、幸いにもそういうことはなかったので、私は地道に瞑想の実践を積み重ねることで、探求を進めていったのでした。

そして、かつて「エクスタシー」を体験した時と同じ、「全てこれで良い」という感覚に到達することのできた今の私は、「確かに『エクスタシー』と『悟り』には似たものがある」と思っています。

ですが、もちろん違うところもあります。

以下、図でそれぞれの違いを示してみましょう。

まずこれ(A)は、通常の人の意識状態です。

図にも矢印で示されていますが、多くの人は「自我」によって外界との交流が制限されています。

たとえば、「自我」が「自分は温厚な性格の人間だ」というセルフイメージを作り上げている場合、当人は自分の中に「怒り」が湧いてきてもそれを認知することができません。

仮にその存在に気づきそうになったとしても、「自分が怒るはずがない!」と考えて、これを無意識に抑圧します。

すると、怒りの感情は外に出ていくことができず、「自我」のところで弾かれて跳ね返ってきます(中心から「自我」へ向かっていって弾き返される矢印)

また、たとえば「自我」が劣等感を抱えて苦しんでいる場合、当人は自分より成果を上げている人のことが妬ましくて仕方なくなります。

すると、その相手の取っている言動を何でも「嫌味な当てつけ」として当人は認知するかもしれません。

実際には相手にそんなつもりはなく、他の人の目にはそう見えていなかったとしても、当人は「自分への当てつけ」のように感じてしまうのです。

そうなると、外からやってくる情報も、「自我」のところで弾かれて、当人の元までそのまま入ってこなくなります。

仮に情報が入ってきても、それらは絶えず「自我」によって歪められてしまうため、当人はありのままに現実を見ることができません(外側から「自我」に向かってきて弾き返される矢印)

そして、こういった形で内外の交流が絶えず「自我」によって阻害されるために、当人は「閉塞感」「束縛感」を覚えます。

自分が世界から隔てられているかのような「分離感」を感じる人もいるでしょう。

そして、そうした人は「何かが自分には欠けている」という「欠落感」にも苛まれます。

そのため、その「欠落感」を埋めてくれるものを当人はいつも探すことになり、社会的な成功を追い求めたり、他人からの愛情を得ようとしたりして、走り続けることになるわけです。

これが、世の中で生きている多くの人の意識状態です。

◎「自我」が一時的に圧倒されている人の意識状態

次に、「エクスタシー」の中にある人は、下図のような状態にあります。

この場合(B)は、「自我」によるフィルター機能はそのままの形で残っています。

しかし、「エクスタシー」が強烈であるがゆえに、一時的に「自我」を圧倒してしまいます。

その結果、当人は自分の思考や感情をそのまま解放することができます(内から外への矢印)

また、「自我」によるフィルター機能が一時的に突き破られたことで、外界の情報もそのまま流入してきます。

実際、「エクスタシー」の中にある時、当人は視界が急に「ビビッド」になったように感じるものです。

世界が突然「サイケデリック」に見え始め、感覚が解放されていきます。

ドラッグによって「エクスタシー」に達した人が恍惚とするのも、半分くらいはこのためではないかと思います。

つまり、「エクスタシー」の中で当人は、「目の前の世界の色鮮やかさ」に一時的に酔ってしまうというわけです(外から内への矢印)

しかし、先ほども書きましたように、この状態は長く続きません。

持っても数時間と言ったところではないかと思います。

そして、「エクスタシー」の状態が終わると、当人は元の「閉塞感」「束縛感」の中に戻ってしまいます。

一時的に、一切の束縛が破壊され、「解放感」を味わうことができたわけですが、それは跡形もなく消えてしまうわけです。

すると、当人は往々にして、前以上に「自我」によって自分が束縛されていることに息苦しさを感じてしまいます。

一瞬とは言え、「自我」によるフィルター機能が無効化した状態を体験したがゆえに、その時の「解放感」を渇望するようになるのです。

しかし、多くの場合、当人は「前にエクスタシーを感じることができた時と同じこと」を繰り返すようになりがちです。

たとえば、ドラッグで「エクスタシー」を感じられた人はますますドラッグに依存するでしょうし、セックスで「エクスタシー」を感じられた人はセックス依存症になるかもしれません。

しかし、そうして求めれば求めるほど、「エクスタシー」は感じにくくなっていってしまいます。

実際私も、「ダイナミック・メディテーション」をその後も何度も試みましたが、結局、同じような「エクスタシー」には到達できませんでした。

なぜかと言うと、一度でも「エクスタシー」を経験すると、慣れて耐性がついてしまうからです。

それは、アルコール依存症の人の酒量が徐々に増えていくのと同じメカニズムです。

最初のうちは少ない酒量でも酔えていたのに、ずっと飲み続けていると、身体が徐々に刺激に慣れていってしまいます。

そうして身体に耐性がついてしまうと、前と同じ酒量では酔うことができなくなるので、飲む量がどんどん増えていってしまうわけです。

「エクスタシー」によって「悟り」を目指す際の問題点はここにあります。

人は何にでも慣れてしまう生き物なので、「エクスタシー」を感じ続けることはできません。

もちろん、一度や二度なら「エクスタシー」を感じることができるかもしれませんが、それを日常的に定着させることは無理があります。

それだと、当人はある意味でずっと狂っていなければならなくなるからです。

しかし、そもそも「悟り」というのは「正気の極致」とでも言えるような側面があります。

なので、もしも本当に「探求のゴール」に辿り着こうと思うなら、「エクスタシー」に依存して進むことはどこかで諦める必要があるでしょう。

◎「自我の透過性」が高くなった人の意識状態

最後に、瞑想などの実践によって「自我」によるフィルター機能が弱まった人の状態が下図(C)になります。

さっきの「エクスタシー」の中にある人(B)とほとんど同じですが、唯一違うのが「自我の透過性」です。

瞑想の実践(「エクスタシー」を引き起こす傾向の強いダイナミック・メディテーションではなく、「静寂」そのものを重視する通常の瞑想の実践)によって、「自我」の働きは弱まっていきます。

「自我」そのものがなくなるわけではないのですが、「自我」が当人の思考や感情に干渉してこなくなるのです。

そのため、自分の思考や感情を外側に表現する時にも、それはとてもストレートに表出されます(内から外への矢印)

まあ、この状態に至っている人はあえて思考や感情を外側に表現せず、自分の内側でそれらをただ観察するだけの場合も多いですが、もし外に出すとしたら、彼らはとても素直に表現します。

また、「自我」が外から入ってくる情報を検閲することもなくなっていくので、外界を認識する際にも、彼らはありのままに世界を見ることができます(外から内への矢印)

つまり、内向きにも外向きにも、たいへん「風通しの良い状態」になるわけです。

このようにして「自我の透過性」が高くなると、「自分が狭いところに閉じ込められている」という「閉塞感」がなくなるため、当人は「穏やかで解放的な気分」になります。

これは、インドで「アーナンダ(至福)」と呼ばれているものであり、仏教で言えば「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」です。

この「至福感」の中で、当人は深くリラックスしており、「全てこれで良い」と感じています。

しかも、「自我」の働きそのものが弱まっているため、「エクスタシー」の時のように、時間が経過することで再び「閉塞感」を感じるようになったりもしません。

また、この場合に当人が感じる「至福感」は、「エクスタシー」のように強烈なものではなく、とても穏やかで安らかなものです。

それゆえ、日常的にその中に留まっても、「刺激で神経がやられて反応しなくなる」ということが起こりません。

つまり、人は「エクスタシー」には飽きるのですが、「至福」には飽きることがないのです。

こうした事情があるため、「至福」に留まっている人は、「穏やかな幸福感」の中で生きていくことができます。

それと比べると、「エクスタシー」というのは「山の頂上」に向かって大岩を押し上げていくようなものです。

人は「エクスタシー」を味わうためには苦労して大岩を押し上げなければならないのですが、いざ「頂上」に達すると、次の瞬間には大岩が反対側の斜面を転がり落ちていってしまいます。

しかも、「エクスタシー」は体験するたびに耐性がついて感じにくくなってしまうため、次回はもっと高くまで岩を押し上げなければならなくなるのです。

それに比べると、「至福」は「エクスタシー」のような「興奮の絶頂」ではありません。

それは「とても穏やかな幸福感」であり、当人を確かに満たしてくれます。

そして、このような「穏やかな幸福感」に留まることが呼吸をするのと同じくらい自然になった人のことを、「覚者」と言うのです。

◎「悟りの一瞥」を「ゴール」であると教えることの問題点

このように、「エクスタシー」は「悟りの一瞥」をもたらしてはくれます。

それは「自我」という牢獄から当人を一瞬だけ解放してくれるでしょう。

しかし、それも長くは続きません。

「エクスタシー」は次の瞬間にはもうなくなっていて、当人は再び「自我」によって囚われてしまうのです。

それにしても、どうしてOSHOはこのような「エクスタシー」を引き起こす傾向の強い瞑想法を推奨していたのでしょうか?

これは私の感覚ですが、OSHOは弟子たちに「最終的な悟り」まで到達することを、そもそも求めていなかったのではないかという気がします。

つまり、「『至福』が呼吸と同じくらい自然なものとなる状態」までは求めておらず、「悟りの一瞥」を得られれば、それでもう「あなたは悟った」とOSHOは弟子たちに言い渡していたように、私には感じられるのです。

実際に、彼の講話を読んでいると、「え、そんな中途半端なところで悟ったことにしていいの?」と思うような話がちょくちょく出てきます。

「至福」をちょっと体験できただけの段階の弟子に対して、「そこがゴールだ」とも取れるような発言をOSHOは度々しているのです。

ですが、実際のところ、「至福」を内側に定着させるまでには年単位の時間がかかります。

ちなみに、私は初めて「至福」を体験してから、それを日常生活に十分定着させるまでに約2年かかりました。

人によってはもっと短い人もいれば長くかかる人もいると思いますが、いずれにせよ、「至福の一瞥」「ゴール」とすると誤解の元になります。

「至福」をちょっと体験しただけの段階で「自分の旅はここで終わりだ」と思った人は、きっと日常に帰っていくでしょうけれど、十分に定着していない「至福」は何の役にも立ちません。

それはちょっとした日常のトラブルでどこかへと消え去ってしまい、当人は慌てふためくでしょう。

もちろん、悟った後もずっと「至福」の中に留まっていられるわけではありません。

たぶん、「至福」に留まっている時間は、起きてから寝るまでの間の90~95%くらいだと思います。

実際、突発的な事件が起きたり、感情のブレが一時的に大きくなったりすることがあれば、覚者であっても一瞬だけ「至福」を見失うことはあります。

ですが、「それでもまた自分は『至福』に戻っていくことができるだろう」という圧倒的な信頼感が、覚者の中にはあります。

それは、何年にも及ぶ生活の中で、「至福はいつもここに在る」ということを当人が数えきれないほど確かめてきたからです。

この「地道な確認作業」をしないうちから、「自分の本質は『至福』だ」と思おうとしても、たぶん失敗します。

そのような「至福」は、一時的な「エクスタシー」と同様、簡単に消え去ってしまうでしょう。

なので、私はOSHOには大変影響を受けているのですが、彼の「悟りの定義」にはいささか不満があります。

と言うのも、「エクスタシー」を体験できた人に対しては、「そこで終わりだ」と伝えるのではなく、今度は日常的に定着させることが可能な「至福」を教えるべきだと思うからです。

そして、弟子が実際に「エクスタシー」ではなく「至福」に到達することができたなら、「ここからが本当の修行である」と告げるべきです。

実際、そうなのですから。

「至福」を一度でも体験すると、それで舞い上がってしまう人も多いですが、そこは探求の道における「折り返し地点」です。

長年の実践によって「至福」に到達することができたなら、後は「日常に帰っていく道」が残っています。

次は、「至福」という「非日常」を、日々の「日常」の中に溶け込ませ、呼吸と同じくらい自然なものにしていく必要があるのです。

そうして初めて、当人の「至福」は本物になります。

そこまで至らない限り、本当の意味で当人に自由が訪れることはないと、私自身は思っています。

◎終わりに

いかがでしたでしょうか?

今回は、「エクスタシー」と「至福」を対比させて、それぞれの違いについて論じてみました。

もちろん、「エクスタシー」は「閉塞感」を打ち破る突破口にはなりえます。

実際、「エクスタシー」の体験は、「こんな世界が実在するのか!」という驚きと発見を、当人にもたらしてくれることでしょう。

しかし、「エクスタシー」はその性質上、日常生活に根付かせることができません。

どうしても「一瞬だけのきらめき」のようなものになってしまいがちなのです。

ですから、「エクスタシー」の体験を通して「悟りの味」を知った後は、もっとマイルドな「至福」へと向かっていく必要があります。

なぜなら、「至福」だけが、日常の中に定着させることのできるものだからです。

そして、実際に「至福」が日常に定着する頃には、当人の「自我」はザルのように透過性が高くなり、息の詰まるような「閉塞感」もなくなっていることでしょう。

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