「我」が強いと探求はできないのか?探求を始めることができるのは「強固な自我」の持ち主だけ

私はいつも、「『自我』の言うことを信用してはいけない」とか、「探求の過程で『自我』は希薄化していく」とかいったことを書いています。

こういった話を聞くと、人によっては「『自我』が強い人は探求に向いていないのかな?」と思うかもしれません。

「自分は昔から『我が強い』とよく言われてきたし、探求はきっと無理なんだろう」と考えてしまう人さえいるかもしれません。

しかし、別に「我が強い人」に探求ができないわけではありません。

と言うよりも、ある程度以上の「我の強さ」がないと、探求を始めること自体ができません。

今回の記事では、「どうして探求の開始において『強い自我』が必要になるのか」について説明し、その後、探求が進むにつれて「自我」がどのようにして消えていくかをお話ししたいと思います。

「『我』の強い自分は、探求に向いていないんじゃないか?」と思って悩んでいる人は、ぜひ最後まで読んでみてください。

では、始めていきましょう。

◎たとえ何を手に入れたとしても、「欠乏感」は消えはしない

まず最初に、真理の探求を始める人が何を考えているかを、想像してみましょう。

本当に真摯に探求をしようとしている人は、そもそも「この世の価値」では満足できないと既にうすうす気づいているものです。

「たとえ社会的に成功しても、どんなパートナーと巡り合っても、金銭をどれだけ蓄えても、それによって本当に自分が満たされることはないだろう」と、当人はもう気づき始めています。

おそらく、そういう人は生まれつき観察能力が高いのだと思います。

彼/彼女は、人生を俯瞰的に眺めた時、そこに「絶対的な幸福」というものが見つけられないと気づくのです。

実際この人生では、たとえ何を得ても、心が満たされるのは一時的であり、すぐにまた欠乏感がやってきます。

人生というのは、「努力する➔達成する➔一時的に満たされる➔再び欠乏感に囚われる」というパターンの終わりのない繰り返しです。

そこには、真の意味での安らぎというものはなく、もしも自分を満たそうと思ったら、絶えず何かを達成するために走り続けねばなりません。

そして、もしも全てを手に入れることができたとしても、当人はすぐにそれに飽きてしまいます。

「夢にまで見た生活」であっても、それが実現してしまうと、もう「ありきたり」にしか感じられなくなるのが人間というものなのです。

かつて、ゴータマ(ブッダ)はそのことを深く理解し、人生がすっかり虚しくなってしまいました。

王子として生まれ、何不自由なく育ち、日々贅沢な暮らしをしていたにもかかわらず、彼の心は満たされなかったのです。

それどころか、むしろ彼の心は苦しみに囚われていました。

人は老い、病み、死んでいく。

その事実に直面した時、彼は深く苦悩し、「生きることは苦だ」と考えました。

そして、妻をめとり、子どもが生まれたその時に、彼は城を去って出家したのです。

でも、周りの人の目には、彼の人生は順風満帆に見えていたことでしょう。

王子としての地位があり、ゆくゆくは王位を継ぐことになっていたはずです。

当時の贅を凝らした衣服や食事に囲まれて、しかも未来の跡継ぎまで生まれていました。

でも、彼は「人生は苦だ」と考えて、探求の旅に出たわけです。

「人生というのは同じパターンの繰り返しだ」ということに既に気づいている人は、たぶんゴータマの気持ちがなんとなく想像できるのではないかと思います。

たとえ何を手に入れていても関係ないのです。

王子として生まれて全てを手に入れたとしても、それによって心が満たされるわけではありません。

なぜなら、自分の心の中にある「欠乏感」そのものが問題だからです。

◎探求を始めるためには、「強固な自我」が必要不可欠である

しかし、そうは言っても、誰もがゴータマのように探求の道に入れるわけではありません。

特に、ゴータマほど多くのものを持っていると、それらを捨てるのにはそうとうの勇気が要るはずです。

まあ、本当はゴータマもそれらを捨てる必要はなかったんですけれどね。

実際、探求が後半戦に差し掛かる頃には、そのことが自然と理解できるようになっていきます。

どこに居て、何を持っているかが大事なのではなく、ただ、そういった周囲の環境と自分を同一化しなければいいだけのことなのです。

しかし、そういうことは、探求の最初の段階ではわかりません。

だから、探求を始めるその時は、これまでの人生を一度リセットするかのような覚悟が必要になったりします。

それは、「これまで一度もやった事のない試みを、これから始めるのだ」という覚悟です。

そのような「試み」は、ある意味で希望に胸が膨らむことでもあるでしょう。

しかし、一度始めてしまえば、もう後に引くことはできません。

なぜなら、「もしこれを試みてもダメだったら、この人生で自分が真に満たされることはあり得ない」という結論を引き受けざるを得なくなるからです。

そういう意味で、「真理の探求」というのは「最後の賭け」なのです。

そもそも、探求を始める段階の人は、「真理」があるのかどうかをまだ自分自身では知りません。

私みたいに、「『真理』というのは確かに在る。あなたの存在そのものが『至福』なのだ」と語る人間はいますけれど、それが「本当」である保証はないわけです。

その「本当かどうかわからない話」を信じて、とにかく歩き出そうとする人だけが、探求者になります。

この試みには「中途半端な結果」はありません。

「真理に到達する」か、それとも「死ぬまで苦しみの中に留まる」か、二つに一つです。

こうなると、最初の一歩を踏み出す段階で、「必ず『ゴール』まで歩き切ってみせる」という覚悟がどうしても必要になります。

逆に、「自分にそんなことが可能だろうか?」と思って尻込みしてしまう人は、いつまで経っても「最初の一歩」が踏み出せなくなってしまいます。

このように、「真理の探求」というのは、いかなる保証もないままスタートし、最後まで自分の足で歩き切らねばなりません。

そのため、探求の最初の段階では、どうしても「強い自我」が必要になるのです。

「自分は絶対に真理を理解したい!」という強烈な欲求を持ち、「そのためなら、できることは何でもやってみせる!」という固い意志が必要になります。

なので、「我が強い人」は探求に向いていないどころではありません。

むしろ、「強い自我」の存在は、探求における必須事項です。

実際、「強固な自我」を持っていない人は、探求の旅を最後まで歩き切ることはおろか、「最初の一歩」を踏むことさえできないでしょう。

◎「自我(塩の像)」が海に消えることで、「悟り」は結果的に成就する

しかし、もしも探求の旅が進んでいくならば、「自我」というのは次第に希薄化していきます。

それは、しばしば「塩で作られた像」の比喩で説明されることがあります。

実際、「自我」というのは、「塩で作られた像」のようなものです。

なぜなら「自我」は、確固とした実体があるわけではなく、人格や自由意志などを雑多に寄せ集めてくっつけただけの一種の「構築物」だからです。

しかし、そんな「自我(塩の像)」は、ある時にこんな噂を耳にします。

「どうも海の底に『悟り』という名の宝物があるらしい」という噂です。

「もしもその宝物を手に入れることができれば、『無条件の幸福感』が現れて、永遠に苦しみから解放されるということだ」と、「自我(塩の像)」は小耳に挟みます。

「本当だろうか?」と思った「自我(塩の像)」は、海に跳びこんで宝を探しに行くことを考えます。

しかし、もしそんなことをしたら、「塩」でできた自分が溶けてしまうことは目に見えています。

それは一種の自殺行為です。

でも、「何とかして海底まで辿り着いて、『悟り』というものを手にしたい」という渇望に身を焼かれた「自我(塩の像)」は、ある時に思い切って海に跳び込みます。

このようにして、「自我」にとっての探求の旅は始まるのです。

そして、実際に海の中を泳いでいくにしたがって、「自我」は少しずつ溶けて消えていきます。

なにせ「塩」でできているのですから、海の中で形を保っていることはできません。

そこには、実際に溶けていくことによる「苦痛」もあるでしょうし、自分が消えてなくなってしまうことへの「恐怖」もあります。

でも、今さら元の世界には帰れません。

「自我」は、「苦痛」と闘い、「恐怖」と向き合いながら、少しずつ海底に近づいていきます。

ですが、「もう少しで海底が見えてきそうだ」というところで、「自我(塩の像)」は完全に溶け切ってしまいます。

そこにはもう何も残っていません。

「塩」は海全体と一つになり、「自我の不在」が広がっています。

そして、その時に何故かそこには「安らかな幸福感」が存在しています。

「自我の消えた後の海」には、「穏やかな解放感」が満ちており、「苦しみの気配」はもう見えません。

でも、それを感じているのはいったい誰なのでしょうか?

「自我(塩の像)」はもう消えているのに、それでも「至福」を感じている者が存在しています。

この「自我が消えた後の幸福感」を観ているものこそが、「観照者」です。

それは、私たちの存在の根源であり、「自我」が消えた時に表に現れてくるものです。

そして、それから時間をかけて「観照者」が「至福」にはっきり定まっていくことによって、結果的に「悟り」は成就されます。

「悟り」という宝物は、別に海底になどなかったのです。

それは、「自我」が溶けて消えた後で、結果的に成就されるものです。

つまり、「宝物は海底にある」というのは「嘘」なのです。

しかし、その「嘘」は「いったんは信じてもらう必要のある嘘」です。

きっとこの「嘘」をついた人は、「真実」を知っていたはずです。

「悟り」は海底に在るわけではなく、それは「自我」が「海全体」と一つになった後に自動的に起こるものであると、知っていて「嘘」をついたのです。

なぜなら、そうでも言わないと、「自我(塩の像)」は海になんて跳び込まなかったはずだからです。

「『悟り』を得るために海底を目指して潜り続ける」という「誤った行動」をあえて取り続けることによって、跳び込んだ当人は、海底にこそ辿り着きませんが、結果的に「悟り」には辿り着きます。

覚者は、こういったカラクリをよく理解しているので、多くの場合、探求の初心者に「嘘」をついて、事実をでっちあげるのです。

それはともかく、海に跳び込んで海底を目指していくためには、「強い自我」が必要です。

実際、「たとえ自分が消えても構わない」という覚悟がなければ、怖くて海になんて跳び込めません。

探求が進んでいけば、最終的に「自我が消えても自分は死なない」ということが理解されるのですが、探求を始めたての人にとっては、「自我」こそが「自分自身」です。

それゆえ、「自我を溶かす」ということは、主観的に「自殺行為」に思えてしまうものなのです。

この「消滅の恐怖」を乗り越えるために、どうしても「強固な自我」が必要になります。

最終的に海で溶けて消える定めにあるとはいえ、探求の最初においては、「自我」が強くないといけないのです。

◎「渇望」に焼かれている人のことを、止められる人間は存在しない

と、長々書いてきましたが、もしもあなたがまだ探求の初期段階にいるのであれば、今回私がした話はほとんど理解できないのではないかと思います。

ただ、それでも私が現時点で理解しておいてほしいのは、「『自我の強さ』は決して探求における足かせではない」ということです。

むしろ、「探求の前半戦」において、「我」が強いのは非常に良いことです。

「『我』が強い自分は、探求に向いていないのだろうか?」と考える必要は一切ありません。

そもそも、探求における前半戦では、「真理」に対する焼けつくほどの渇望がぜひとも必要です。

反対に、「今の自分はそんなに『我』が強くないし、探求に向いていないのだろうか?」と思うのであれば、まず「集中する瞑想」を試しに実践してみて、「自我」を強めるのも一つの手です。

詳しい手順や理屈は下記の記事でまとめているので、興味のある人は見てみてください。

【第9回】「瞑想」の第一段階《理論編》|なぜいったん「自我」を強化するのか?

【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想

もしも「集中する瞑想」を実践していくなら、徐々に「自己コントロール感覚」が強くなっていくでしょう。

言い換えれば、「自分の意志」で自分の道を選び取る力が強くなっていくのです。

そうなれば、「探求の道へと思い切って踏み出していこう」と、勇気をもって決断できるようになるでしょう。

ただ、たとえ「自我」を強化したとしても、「絶対に『真理』を理解したい」という「渇望」自体が無かったらどうすることもできません。

「真理への渇望」がないまま「自己コントロール感覚」だけが強くなっても、当人はきっとその「強くなった自我」を活用して、ますます社会的な成功や金銭の獲得に邁進することにしかならないでしょう。

結局のところ、内側に「真理への渇望」がある人だけが、探求を始めることができます。

そういう意味で、この「渇望」を内に持っている人は、「神に選ばれた人」です。

「焼けつくような『真理』への渇望」によって現に激しく苦しんでいるなら、それは「神の恩寵」と言っていいと思います。

なぜなら、この「渇望」は意図的に作り出すことができないからです。

このような「渇望」に焼かれている人は、遅かれ早かれ「海」に向かって跳び込むでしょうし、やがては「宝物」を見つけることになると思います。

それは結局のところ、「時間の問題」に過ぎないのです。

いずれにせよ、この世の誰にも探求を他人に強制することはできません。

むしろ、他人が束になって止めても一人きりで探求を断行するような人こそが、「真の探求者」というものです。

実際、ゴータマは生まれたばかりの自分の息子に「ラーフラ」という名前を付けました。

「ラーフラ」という名前の由来には諸説ありますが、一説では「障害」という意味だと言われています。

たぶん当時のゴータマは、「この子の存在は、出家しようとする自分にとっての大いなる障害だ」と感じていたのではないかと思います。

生まれたばかりの我が子を置いて出家することは、きっとゴータマだって気が咎めたはずです。

でも、最終的に彼はその「障害(ラーフラ)」をかなぐり捨てて、城から飛び出していってしまいました。

そうして彼は、「解脱」を求めて自身の探求を開始したのです。

「ひどいことをするもんだ」と多くの人が思うでしょうけれど、内側に「渇望」を抱えている人は、誰にも止められないのです。

あなたはどうですか?

誰かに「探求をやめろ」と言われたら、あっさりやめてしまうでしょうか?

もしも誰かに止められて止まるような旅路であるならば、きっと最後まで歩き抜くことはできないでしょう。

もちろん、誰もが最初からそんなに覚悟が決まっているわけではありません。

でも、長く生きるにしたがって、「やっぱりもうこの道を行くしかない」と覚悟が決まる瞬間がどこかで来ます。

ゴータマが出家したのは29歳の時でしたが、私が本当に覚悟を決めたのは、30代も後半になってからでした。

それまでは、「何か他にも良い方法があるのではないか?」と思っていて、なかなか覚悟が決まらなかったのです。

でも、自分の人生についてひたすら観察していると、「結局他の道は全部ダメだ。もうこの道しかない」という風に感じる瞬間が、いつかやってきます。

そうしたら、その時こそが「探求を始めるべき時」です。

その時、当人を止められる人間はどこにも存在しません。

たとえ誰に止められたとしても、当人は探求を断行するでしょう。

このように、もし「人生というもののパターン」について丁寧に観察し続けるならば、遅かれ早かれ、人は探求に向かっていくものではないかと思います。

それは誰にも強制できませんし、誰にも止めることはできません。

「始めよう」と決意した人が、自分の足で歩き出すのです。


あなたはいつ、「それ」を始めるのでしょうか?

「海」に跳び込んで消え去る準備はできていますか?

もしも覚悟が決まっているなら、「次に自分がやるべきこと」もきっとわかっているはずです。

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