「個人の幸福」に敵対する社会|「幸福」を選び取る勇気と、やがて巡り合う仲間たち

今回は、「幸福を選択することの難しさ」について書こうと思います。

ただしそれは、「現代社会は複雑なので、幸福な社会生活を送るのは難しい」といったような話ではありません。

確かに、今の日本は価値観の多様化が進んで、「どう生きるのが幸福なのか」ということの一般的解がなくなっています。

「みんなと一緒」でも特に不満を感じずに生きていられた牧歌的な時代とは違うわけです。

しかし、問題の本質は、そういった時代的な変化にあるわけではありません。

問題の本質は、「幸福な人間を社会はそもそも欲していない」ということにあります。

もしもあなたの探求が進んでいくと、あなたはどこかの段階で、きっとこの問題にぶつかります。

なので、まだ問題意識を持っていなかったとしても、あらかじめ知っておいたほうがいいかもしれません。

ただ、探求が進むことによって、別に人は「反社会的」になる訳ではありません。

むしろ、探求が進んで「内側の幸福」が豊かに花開いてくると、当人は利他的になっていく傾向があるように、私自身は感じています。

なぜなら、探求によって自分自身が深く満たされるようになることで、隣人に何かを与えずにいられなくなってくるからです。

しかし、そんな風に「幸福」が実現し始めると、あなたが社会に背かなくても、社会のほうがあなたと敵対し始めることがあります。

これが恐ろしいがゆえに、探求を途中でやめる人さえいるのではないかと思います。

しかし、なぜ「幸福」を実現すると、社会が敵対してくるようになるのでしょうか?

以下、説明していきます。

◎「内側の幸福」は条件の要らない「絶対的なもの」である

まず、私たちの不幸の「本当の原因」は、物やお金がないことではありません。

もちろん、生きていけるだけの物やお金がなくて死にそうな人も世の中には居るでしょう。

しかし、今の日本において、「今日食べる物さえない」という人はむしろかなりの少数派のはずです。

ほとんどの人は衣食住に事欠いていないでしょうし、生存そのものはおびやかされていないと思います。

それにもかかわず、「自分は不幸だ」と思っている人は世の中に溢れかえっています。

反対に、「自分は本当に幸福だ」と心の底から思っている人を見つけるのは至難の業でしょう。

誰もが「満たされなさ」を内に抱え、「苦しみ」と闘いながら生きています。

しかし、もしも探求の旅が進んでいくと、その人はやがて「アーナンダ(至福)」を知るようになります。

それは「無条件に感じることのできる幸福感」であり、無根拠に持続する性質を持ちます。

この「アーナンダ」を知るようになると、当人は「幸福であるためには、何の条件も要らなかったのだ」と理解するようになっていきます。

実際、「幸せ」になるためには、これといって「特別な功績」を残す必要はなく、「傑出した何者か」になる必要もありません。

また、「どこか遠くに行く」必要もなければ、「手間のかかる何か」をする必要さえないのです。

ただ「あるがままの自分」に留まれば、それで何の問題もありません。

このことが理解できるようになると、当人は自然と「幸福」に生きることができるようになっていきます。

それは「絶対的な幸福感」であり、外側の状況に左右されません。

「何かを得たから幸福である」というわけではなく、「とにかく自分は幸福だ」というところから、当人の「幸せ」は始まっていくようになるのです。

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◎「不幸な人々」は、「幸福な人」の存在を許容できない

このように書くと、「別に何の問題もないじゃないか」と思うかもしれませんが、この後に「ちょっとした試練」が当人のことを待っています。

それは、「社会が『幸福な人』の足を引っ張ろうとする」ということです。

これには二つの理由があります。

一つは「不幸な人たちの嫉妬」であり、もう一つは「支配者層の中にあるコントロール欲求」です。

「不幸な人たちの嫉妬」についてはわかりやすいかもしれません。

実際、今まさに「苦しみ」のただなかにある人は、何の問題も感じず幸せに生きている人のことが許容できません。

そういった人たちからすると、「自分はこんなに苦しんでいるのに、なんであいつはあんなに楽しそうなんだ?あいつも、もっと苦しめばいいのに…」と思わずにいられないわけです。

また、そういう人の目からは、「幸福な人」は傲慢な人間に映ってしまうことがあります。

なぜなら、「幸福な人」は空気を読んで他人に合わせるよりも、自分の気持ちを優先するからです。

そもそも、「幸福な人」は「自分の内側の幸福感」を大事にしているため、それを失ってまで他人に忖度したり、自分を押し殺したりしようとはしません。

言うべきことはきちんと言いますし、「自分の幸福」を守るために、拒否する時にはきっぱり断ります。

しかし、別にそれは「『幸福な人』はみんな傲慢なエゴイストである」という話ではありません。

むしろ、「幸福な人」は「自我(エゴ)」による影響が弱まっていることが多いので、冷静で客観的な判断をすることが多いです。

しかし、冷静で客観的な判断をするがゆえに、多くの人が無批判に従っているルールから当人は自然と外れることになってしまったり、時にはあえて空気を読まずに行動することになったりしがちなのです。

そういうことをする人というのは、見る人によっては「超然」としているように映ります。

そして、そのような目で「幸福な人」を見る人たちは、「こいつはなんて偉そうなんだ…」と思って、無意識に反感を持つのです。

ただ、「幸福な人」は「自分自身」であるだけであり、実際には偉そうにしているわけではありません。

しかし、自己否定や劣等感で苦しんでいる人からすると、そういう「あるがままの姿」からは、思わず目を背けたくなるものです。

なぜなら、「幸福な人」の存在は、彼らの中にある「実現できていない可能性」をまざまざと暴露してしまうからです。

そもそも「幸福な人」というのは、多くの場合、別に大富豪ではないでしょうし、社会的な成功者でもないでしょう。

あくまで市井に暮らす一般人でありながら、なぜか「幸福」いっぱいに生きています。

であるならば、その「幸福」は「外的な条件」のおかげではないのです。

実際、そのような「幸福」は、現に自己否定や劣等感に苛まれている人にとっても、実現することが可能なはずです。

しかし、苦しんでいる当人からすると、その可能性は直視したくはありません。

というのも、もしもそれを直視してしまうと、当人はまるで自分自身が否定されたように感じてしまうことになるからです。

もしも「幸福」に条件が必要であるのであれば、彼らも傷つかないでしょう。

なぜなら、いくらでも言い訳ができるからです。

「自分はたまたま生まれた家が悪かったから」
「自分はたまたま職場に恵まれなかったから」
「自分だって運よく成功で来ていたら今頃は…」

そんな風に、「自分が不幸である理由」をいくらでも見つけてくることができます。

しかし、自分と大して違いもないはずの「何でもない普通の人」が見るからに「幸福」そうに生きていると、こうした言い訳が一切使えなくなってしまいます。

つまり、「自分の不幸の原因」を外側に作ることができなくなってしまうのです。

その時、当人は「自分の不幸の原因」を内側に求める以外になくなります。

つまり、「自分が不幸なのは、他でもない自分のせいなのだ」と認める他になくなってしまうというわけです。

ですが、人は誰でも「原因が自分にある」とは考えたがりません。

そのため、「自分の内側」を見ないで済ますために、「幸福な人を敵視する」という仕方で、自分自身の気を逸らすのです。

これが、「幸福な人」の足を社会が引っ張る一つ目の理由です。

人々は「不幸な人」だったら「仲間」として認めてくれますが、「幸福な人」のことは無意識に「敵視」する傾向があります。

それゆえ、もしもあなたの中で「幸福」が花開き始めると、それまであなたのことを「仲間扱い」してくれていた人たちの何人かは、あなたを毛嫌いするようになるかもしれません。

そういう人たちもまた、「内側の幸福」を見出すことができれば、考え方が変わると思いますが、この世の誰も他人に「内的探求」を強制はできません。

当人が「自分の内側に本当の原因が在るのだ」ということを受け入れない限り、他人が何を言っても無駄なわけです。

なので、ひとまず人間関係の断捨離だと思って、たとえ離れていく人がいても、それを惜しまないようにしてください。

もしもあなたの「幸福」が本物であれば、「あの人たちの心にもいつか安らぎが来ますように」という祈りと共に、離れていく人たちの背中を無心で見送ることができるのではないかと思います。

◎「社会的な上位者」は、「人々の不幸」をテコにして支配しようとする

さて、これで一つ目の理由は終わりです。

次は二つ目の理由ですが、これは今まで書いていたような「隣人たち」の問題ではなく、あなたの上に存在する「支配者たち」の都合です。

「支配者」というと、なんだか「陰謀論」めいていますが、これは純粋に「社会的な力学」の話です。

それは、「幸福な人は外から操作することができない」ということに起因している問題です。

これは、「幸福な人」とは逆のケースを考えてみればよく分かるでしょう。

たとえば、もしもある人の内側が自己否定や罪悪感でいっぱいであれば、その人を操作するのは簡単です。

たとえば、「そんなことをしたらみんなに嫌われるぞ」ということを、ちょっとその人に匂わせればいいのです。

そうすれば、当人は自分を責め苛んで、「自分の何がいけなかったのだろう?」と自問し続け、「きっと自分が悪いんだ!何でも相手の言う通りにしなければ!」と考えるはずです。

これは一見すると「自分に原因がある」と考えているかのようにも見えますが、実際のところ、当人には物事がまともに見えていません。

その人は、「自分は社会から受け入れられるだろうか?」ということばかりを考えてビクビクしており、「悪いのは常に自分であり、自分の悪いところを直さないと誰にも認めてもらえなくなる」と思い込んでいます。

それは、決して冷静に自己観察された結果もたらされた考えではなくて、むしろ恐怖に飲まれて我を失ったことの結果です。

当人には、「自分の内側」がよく見えておらず、むしろ「内側に存在する恐怖」から必死で目を逸らし続けています。

「恐怖」と直面することを避け、「自分を支配している相手」の意向に無批判に従うことを、当人はあえて選んでいるわけです。

なぜなら、そうすれば波風が立たないからです。

少なくとも、そうやって「全部自分が悪いのだ」と考えている限り、その人に対して影響力を持っている人間というのは悪い顔をしません。

きっと「よしよし、こいつは本当に扱いやすい」と思って、その人のことを道具のように利用するでしょう。

反対に、「幸福な人」の場合、他人はこれを外から思い通りに操作することができません。

なぜなら、劣等感や罪悪感を刺激して屈服させる手が使えないからです。

「幸福な人」は既に「幸福」の中にいるので、「こちらに従わないと不幸になるぞ」と言ったとしても、それが脅しとして機能しません。

「幸福な人」はあくまでも「内側の幸福感」を大事にするので、たとえ何らかの社会的な影響力を持つ人間が相手であっても、無批判に従うということはしませんし、言うべきことはちゃんと言います。

むしろ、「幸福な人」はそうした「上位者」が内に抱えている欲望や恐れを冷徹に見通していたりします。

「幸福な人」を支配したい側からすると、操作できない上に反対意見を言ってきて、しかも「内側の本心」まで見通されてしまうわけですから、厄介なことこの上ないです。

それゆえ、社会的な影響力を持っている人間は、「幸福な人」を敵視して、なんとかこれを抑え込もうとするのです。

たとえば、政治家は「国民の幸福」を語りながら、多くの場合、本心では「盲目的に従う大衆」を欲しています。

また、上司は「揺るがぬ自分」を持っている部下よりも、ビクビクしながら言うことを何でも聞く部下のほうが都合がいいでしょう。

そして、教師は生徒の自主性を重んじているようでいながら、実際に生徒たちが一斉に「自分のしたいこと」を優先し出したら、それを慌てて押し留めるのではないかと思います。

世の中の多くの親は「あなたが幸せならそれでいい」と言いつつも、子どもが「この生き方を自分はしたい!」と親の意向と真逆の道を打ち明けてきたら、気分を害することがあるはずです。

このように、私たちの社会は「自分の幸せを優先する人」を持て余します。

そういう人は、外からコントロールすることができず、罪悪感を持たせることもできません。

それでも社会は、「そんな自分勝手なことは許されない」と言って「幸福な人」を非難するわけですが、もし当人が「内側の幸福」を本当に大事にするのであれば、「『幸福』を捨ててまで社会に迎合する必要はない」という風に、その人は結論付けるのではないかと思います。

◎「苦悩」という重力を振り切ったら、その生き方が周りの人を変え始める

しかし、だからといってそれは、「社会を捨てて隠遁するべきだ」と言うような話ではありません。

私自身だって、日本社会の中であいかわらず生きています。

実際、社会の中で生きながら「内側の幸福」を保つことは可能です。

ただ、それは人によると、「ちょっと変わった生き方」になるかもしれません。

もしもあなたの中で「幸福」が花開き始めると、あなたの元を離れていく人がきっといます。

場合によっては、あなたを抑え込もうとする人も現れるかもしれません。

でも、別にそういった人たちと積極的に戦う必要はありません。

ただ、「内側の幸福感」だけを大事にしていれば、去っていく人は去っていくし、支配しようとする人も、そのうち諦めてどこかに行ってしまいます。

そして、その時にあなたの周りになおも残っている人たちは、きっとあなたのことをきちんと理解してくれることでしょう。

また、そのままあなたが「幸福」を振りまきながら生きていたら、遅かれ早かれ、あなたの「仲間」になろうとする人たちが現れ始めます。

そういった人たちは、あなたのことを理解してくれますし、あなたの「自由」を尊重してくれるはずです。

そうすると、「束縛の多い社会」の中にいながらでも、けっこう「自由」に生きていけたりします。

もちろん、自分を売って媚びへつらうことで出世したりはできなくなるでしょうけれど、「内側の幸福」を知っている人は、それを惜しいとは感じないでしょう。

確かに、「幸福」を選択することは、社会的にはリスキーなことです。

あなたが「幸福」を選択し、「自由」に向かって歩き出す時、あなたに敵対する人がきっと現れます。

ですが、もしもあなたが戦うことなく、ただ「自分自身」に留まるならば、その「試練」を通り抜けることができるはずです。

あなたは「揺るぎない幸福」を内に持ち、「理解のある仲間」と巡り合います。

そうしてあなたの人生は、「不幸」という大地を離陸して、「幸福」という空を飛び始めます。

もうあなたは「苦悩」という名の重力から自由です。

あなたは飛び続ける中で、多くの人に自分の「幸福」を分け与えるでしょう。

あなたの持っている「内なる光」が、目が見えずに苦しんでいる人たちの中に、「確かな灯り」をもたらすのです。

「不幸」という大地で生きる限り、人は「苦悩」という名の重力によって縛り付けられています。

しかし、「幸福」を体現する人は、「そこから抜け出すことは可能なのだ」ということを示す「先例」となっていくでしょう。

あなたが選択する「幸福」が、いつかは多くの人にとっての「希望の灯り」となるのです。

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