人々に捨てられた「命」をリサイクルし続けることが私の仕事

ついさっき、ふと思ったのですが、私はひょっとするとこの社会において「リサイクル業者」のような立ち位置にいるのかもしれません。

なぜなら、私は多くの人々が「ゴミ」だと思って捨てるものにこそ「価値」を見出して、それに再び「命」を吹き込もうとするからです。

世の中の人々は、怒りを抑圧し、悲しみを避けようとし、恐怖から逃げ出そうとしています。

それらは彼らにとって「捨てるべきゴミ」であって、「在ってはならないもの」なのです。

しかし、私はむしろ、そういったものの中にこそ、その人自身の「命」は宿っていると思っています。

実際、もしも怒りを捨てるなら、その時その人は、「大切なもの」を守るために戦う力も失うでしょう。

また、もしも悲しみを捨ててしまうなら、その時その人は、「大切なもの」を失った喪失感を、深く泣くことで乗り越える力を失うでしょう。

そして、もしも恐怖から目を背け続けるならば、その人はいつまでも「自分の足」で立つことができず、何かに寄りかかり続けることになってしまうのです。

怒りがあるからこそ、人は「理不尽な暴力」を前に戦うことができます。

悲しみがあるからこそ、人は「喪失の痛み」を乗り越えられます。

そして、恐怖と自覚的に対峙するからこそ、その人の「気骨」は育つのです。

だから、私はそういったものを「ゴミ」と断じて捨てることには反対です。

もしもそれらを捨てる人がいたら、私はそれをもう一度「本当の使い方」ができるように修理する方法を伝えようとするでしょう。

そして、そのために書いた本が『「自由」とは、深く息ができるということ』です。

私はこの本の中で、抑圧された感情を解放し、「生命力」を深めるワークを提示しています。

そもそも、たとえどんな感情であっても、それは「その人の生命」に根差しているものです。

無関係にどこかからやってきたわけではありません。

その「種」は当人の中に元から在ったものなのです。

なので、そこから目を逸らすことは、「自分の命」を誤魔化すことに繋がります。

つまり、「自分の命」を深く生きるためには、感情を直視することは必要不可欠なのです。

だから、たとえどれだけ多くの人たちが「自分の感情」を「ゴミの山」に捨てていこうとも、私はそれを「リサイクル」し続けます。

それらの感情が「本当の姿」を取り戻し、もともとあった瑞々みずみずしさとほとばしりとで、誰かの心を打つように、私は「ゴミ」に「命」を吹き込み続けます。

それがおそらく、私に与えられた「仕事」なのだと思います。

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