今回もQ&A記事となります。
今回の質問のテーマは「欲望と快楽」です。
《警告》
今回の記事には一部、「性的な欲望」について言及する部分が出てきます。
ただ、筆者の意図は、あくまでも「欲望と向き合うことで自己と和解し、自由に至るための道筋を示すこと」です。
ですが、もしも「性的な表現」が苦手な方は、読む場合にご注意くださいませ。
今回の質問をしてくださった方のことは、ここではCさんとお呼びしようと思います。
Cさんは自身の欲望とどう向き合ったらいいのかがわからなくなってしまっていたようです。
欲望に溺れることを止めたい。
でも、どうしても抗いがたくそこに巻き込まれてしまう。
そんな状況の中で、「悟ると欲望に耽溺せずに済むのかどうか?」という疑問を持たれたようです。
以下、Cさんと私との間のやり取りを掲載します。
◎Cさんからの質問
初めましてCと申します。
まず始めにお礼申し上げます。
普段から湯浅さんのブログを拝見させていただき、とても探求の参考になっております。
ありがとうございます。
そしてお聞きしたい質問なのですが、悟りを得ることができれば欲望への耽溺はなくなるかどうか、あるいは可能であれば欲望や恐怖に捉われない方法をご教授いただきたいです。
といいますのも、僕は探求を進める中で、アーナンダは確実に、チットはおそらく体解したと思うのですが、それでも情けないことに性欲や食欲に溺れてしまうことが少なくありません。
サットを体解すれば欲望への耽溺もなくなるのでしょうか?
それともこの問題意識を持つ自我自体を観照するに留めれば良いのでしょうか?
観照者が何も問題視をしないということは知っていますが、できれば、いい加減に性欲や食欲に溺れるのを止めたいです。
この自分が性欲や食欲に溺れないようにしたいというコントロール欲求を手放す方が良いのでしょうか?
僕はどうすれば良いのでしょうか?
要領を得ない質問で申し訳ありません。ご回答よろしくお願いいたします。
◎筆者からの回答
はじめまして、【「存在する喜び」への道】管理人の湯浅です。
ご質問いただき、ありがとうございます。
私のブログも読んでいただき、探求の参考になっているとのこと。
私としても喜ばしく思います。
さて、さっそくご質問の件にお答えしていこうと思います。
まず、Cさんも気になっておられるであろう、「サットを理解すると欲望への耽溺がなくなるかどうか」ということについてですが、欲望に無暗に溺れることは確かになくなると思います。
しかし、欲望そのものがなくなるわけではありません。
ただ、欲望に振り回されることがなくなって、「自分が欲望を抱いている」ということを罪悪視しなくなるのです。
そういう意味では、「野生の動物」に近くなるような感じかもしれません。
食べたいと思ったら食べて、寝たいと思ったら寝ます。
性的な欲求も特に罪悪視して押し込めませんし、そのことを問題視したりもしないです。
ただ、探求の過程においては、欲望に振り回されてしまうこともあると思います。
自分でも制御が利かなくなって、欲望が暴走してしまうわけですね。
そうすると、当人は後になって自己嫌悪に陥ったりします。
「自分は何て意志の弱い人間なのだ」と感じて、自分を責めてしまうわけです。
しかし、「欲望が強い」ということは、それだけ「当人がもともと持っている生命力が強い」ということでもあります。
実際、年を取って体力が衰えてくると、欲望も自然と沈静化していきやすいです。
なので、「欲望が強い」というのは、それだけ「生物として強い」ということでもあるので、別にそれを「悪」だと考える必要もないのではないかと私自身は思っています。
ちなみに、欲望への耽溺が問題となる場合、そこには二つのパターンがあると私は思っています。
一つは「身体的な快楽に依存してしまっているパターン」であり、もう一つは「欲望を罪悪視して抑圧してしまっているパターン」です。
ただ、実際にはこの二つはきっちり分けることはできなくて、お互いに混ざり合っていることも多いです。
しかし、この二つの側面にあえて分けて考えることで、問題の本質が理解しやすくなると思います。
まず、「身体的な快楽に依存してしまっているパターン」についてですが、「身体的な快楽」にはどれも大なり小なり依存性があります。
たとえば食欲も性欲も、それを満たす過程で「身体的な快楽」が発生するため、人によっては、これを求めて依存的になることがあるわけです。
この場合の問題点は、依存していく過程で当人の感受性が麻痺して鈍ってしまうことです。
実際、何らかの依存症である人は、だいたいにおいて「身体的な快楽」を大量に取らないと満足できなくなっています。
それは、あまりにも強い「快楽の刺激」によって当人の感覚が麻痺してしまい、少しの量では満足を感じられなくなっているからです。
こういった状態にある人に対しては、「量」から「質」への転換を図る必要があります。
つまり、「質の低い快楽を大量に浴びる」のではなく、「質の高い快楽を味わって噛み締める」という方向に舵を切るわけです。
これを、Cさんが直面している食欲の耽溺で説明してみましょう。
たとえば、もしCさんの感受性が鈍ってしまっている場合、食事の量が少ないと満足できないと思います。
こういった時にもし満足しようと思った場合、Cさんはボリュームが多くて安い食事を機械的に胃へ流し込むことになるかもしれません。
しかし、そういった「粗雑な食べ方」をしてしまうと、心と身体は満足感を覚えることができません。
なぜなら、味もよくわからないまま、「量」だけを機械的に流し込んでいるからです。
そうすると、満足できない心と身体は「もっと欲しい」と言ってきます。
そして、これが主観的には食欲として感知され、空腹であるわけでもないのに、さらに「量」を流し込むことになっていくわけです。
このような傾向に歯止めをかけるには、一回一回の食事を味わうことが大事です。
「量だけ多くて味が雑なもの」で空腹感を誤魔化すのではなく、「今の自分が本当に食べたいと感じるもの」をこそ、丁寧に味わって食べるのです。
たとえば、手近なコンビニなどでインスタントに食欲を満たそうとせず、ちょっと手間やお金がかかっても、心から「食べたい」と感じるものを用意した上で食べるわけですね。
そうすると、自然と一口一口の味わいが「深い体験」になっていきます。
機械的に食事を済ませることにもなりませんから、心と身体も満足するでしょう。
それゆえ、「本当に欲しかったもの」を丁寧に味わうと、心と身体は「もっと欲しい」とは言わなくなります。
結果的に、自然と欲望が暴走することはなくなっていき、心や身体に対して無理やり抑え込むような姿勢を取ることもしなくて済むようになるのです。
しかし、このような仕方で「量」から「質」への転換をするためには、食欲を罪悪視しないことが必要になります。
お気づきかもしれませんが、「食事を味わって食べること」は、見方によっては「耽溺」です。
なにせ、欲望を一切否定することなく、むしろ積極的にそこへ飛び込んで思い切り楽しむわけですから。
このため、自身の欲望を罪悪視していると、「丁寧に味わい尽くす」ということができなくなります。
これが先ほど上で挙げた「欲望への耽溺が問題となる二つ目のパターン」と絡んできます。
つまり、自身の欲望を罪悪視すると、当人はこれを抑圧して自分自身と闘うことになってしまうのです。
こうなると、抑圧された欲望は、心と身体の深いところで「反撃の機会」をうかがうようになっていきます。
それはいつ「噴火」するかわかったものではありません。
結果的に、自我は欲望を鎮圧しようと躍起になるでしょうし、心と身体は自我をひっくり返そうとして暴れ回ります。
そうならないようにするためには、「欲望は悪ではない」と認めることが必要です。
欲望と闘うのではなく、逆にそれを受け入れて丁寧に味わうわけです。
そうすることで、心と身体は満足し、「もうたくさん」と言うようになります。
すると、心と身体は「反乱」を起こそうとはしなくなり、大人しくなっていくわけです。
しかし、そのためには自我が「自分は欲深い人間だ」ということを受け入れなければなりません。
つまり、自我が心と身体の欲望を肯定する必要があるのです。
これはつまり、自我が心と身体を一方的に抑圧している「独裁制」から、自我が心と身体の権利を認める形の「共和制」に移行するような変化です。
もちろんそれは、支配欲の強い自我にとっては受け入れがたいことです。
しかし、もしこの変化を経ることができると、心と身体は「あるがまま」の状態になっていき、むやみやたらと暴れ回ることはなくなります。
そして、自我もまた「心と身体を支配しよう」という理想を手放すことで、束縛から解放されるのです。
それは、長い目で見ると自我自身にとっての救いでもあるでしょう。
さて、次にこれを今度は性欲で考えてみましょう。
性欲もまた「量」ばかりが増えてしまうと「質」の側面が欠けてきます。
そういう人は、いくらセックスをしても満足できませんし、毎日のようにマスターベーションをしても足りなくなってしまいます。
それは当人の感受性が鈍ってしまっているためです。
少しの「量」だと何も感じないので、たくさん「性的な快楽」を得ようともがくのです。
ここでも、「量」から「質」への転換が大事になります。
たとえば、パートナーとセックスをする時は、すぐに挿入しようとせず、前戯にたっぷり時間をかけます。
そして、挿入してからもすぐに射精をしようとせず、二人がつながった状態を深く味わうようにします。
こうすることによって、「性的な感覚」が性器だけに限定されなくなり、全身がセックスに巻き込まれるようになります。
逆に、もしも射精だけを求めると、セックスは性急なものとなり、たとえ回数をこなしても満足できなくなるでしょう。
また、もしも一人でマスターベーションをする場合であっても、事情は同じです。
「性的な感覚」を性器だけに限定すると、その満足感は「質」の低いものになってしまいます。
なので、マスターベーションをする時も、性器だけを刺激するのではなく、全身を触っておこないます。
自分の身体を抱きしめてもいいでしょうし、腕や足を優しく愛撫してもいいでしょう。
あたかも自分で自分の身体を愛するように、丁寧に愛情深く触れるのです。
もちろん、性器への刺激もおこないますが、それに固執することなく、全身がその行為に巻き込まれるようにしていきます。
また、呼吸は決して止めたりせず、むしろ深く息をするように意識します。
そうして吸った息が骨盤の下側を打つくらい深く呼吸し、「性的な高揚感」を全身に行き渡らせるのです。
その上で、AVやポルノ雑誌のようなものはあえて使わず、イマジネーションと身体的な感覚を楽しみながら、たっぷり時間をかけてマスターベーションをします。
なぜなら、AVやポルノ雑誌などを使うと、「性的な感覚」を身体で感じないまま、脳だけで視覚的に興奮して終わってしまいがちだからです。
しかし、これでは心と身体が十分に満足できなくなってしまいます。
なので、視覚には頼らず、あくまで触覚をメインにおこないます。
自分と触れ合う相手をイメージし、その肌触りや体温を想像します。
もしその想像が深まると、本当にリアルな感覚がしてくるはずです。
このように、徹底的に性欲に耽溺し、その体験の「質」を高めるために努力します。
こうすることで、一度のセックスや一度のマスターベーションから得られる満足感が向上し、心と身体は「もう満足だ。しばらく要らない」と言うようになるわけです。
言うまでもありませんが、このようなことをするためには、自分の性欲を罪悪視しないことが必須です。
自分の性欲と闘わず、むしろそこに積極的に飛び込んでいき、心の底まで楽しむことで欲望というのは「浄化」されます。
それは一見すると「悟り」とは逆方向に進む道に見えるかもしれません。
しかし、古い瞑想の技法にはセックスを用いたものがたくさんあります。
実際、ヒンドゥー教の古い技法である「タントラ」には、セックスを利用した瞑想技法が多く存在しています。
もちろん、それを単に「性的な放縦」のために使えば、ますます当人は「悟り」から遠ざかるかもしれません。
しかし、もしもセックスを意識的に味わい尽くすなら、むしろ「欲望への耽溺」がそのまま「欲望の浄化」につながるのです。
そうして、心と身体が深く満足するようになると、心身は「もっと欲しい」と強くは要求してこなくなります。
そうすると、「アーナンダ」のような穏やかな心地よさに留まることも容易になるでしょう。
結局のところ、「アーナンダ」に留まることが難しいのは、心と身体が深く満足していないがために、際限なく欲望を訴え続けるからなのです。
心と身体が「もっと欲しい」「まだ足りない」という飢餓感に衝き動かされてしまうので、当人は「ただ在るだけの心地よさ」に魅力を感じないわけです。
逆に、もしも心と身体をしっかり満たしてあげるなら、それらはむやみやたらに暴れ回ったりしなくなります。
心と身体が既に深く満たされているがために、当人は「アーナンダ」の中に満足して収まっていられるのです。
これによって、《結果的に》禁欲的になる探求者も中には居るかもしれません。
心と身体が満足したことで、「アーナンダ」だけで十分事足りてしまう場合ですね。
しかし、最終的にそうなるかどうかは、人によるのではないかと思います。
たとえ「サット」まで理解しても、もともと食べることが好きな人は、「食べたい」という欲求を大事にし続けるでしょう。
また、セックスを深く楽しむことを知っている人は、悟った後もセックスをおこない続けるかもしれません。
ですが、基本的にそうした人たちの心と身体は十分に満足しているので、心身を壊すほどまで極端な仕方で快楽に依存したりはしないと思います。
この場合、欲望は残ったままだとしても、それに支配されることはなくなり、当人はただそれを楽しみます。
そこには、欲望を罪悪視する観念はありませんし、それゆえに当人の心が束縛されることもないのです。
以上が、私の考える「欲望との付き合い方」です。
途中でも言いましたが、それはある意味で「耽溺」です。
しかし、あくまでも「意識的な耽溺」です。
そして、もしも意識して深く心身を満たすならば、欲望は「浄化」されていき、暴れ回らなくなっていきます。
逆に、無感覚に快楽へ溺れれば依存的になってしまいます。
そうすると、いくら得ても満足できなくなるでしょう。
ただ、だからと言って依存しないように欲望を罪悪視して抑圧すると、自分の心身と敵対することは避けられません。
結果的に当人は内側で分裂してしまい、その分離感によって苦しみ続けることになってしまうわけです。
そもそも、自分の心と身体というのは、「探求を共に進めるパートナー」のようなものです。
もしも敵対すると前に進むことができません。
しかし、もし心と身体を相手に協力することができるなら、それらは当人が欲望を超えていく助けになります。
なので、要点は次の二つです。
一つは、欲望を意識的に味わって深く耽溺すること。
もう一つは、欲望を罪悪視しないで受け入れることです。
それによって欲望は沈静化していきますし、たとえ欲望があっても、それを当人は束縛だとは感じなくなっていくでしょう。
私からお伝えすることは以上です。
ちなみに、この質疑応答をブログで公開してもよろしいでしょうか?
Cさんの個人情報は特定できないよう加工するので、ご許可をいただけますと幸いです。
それでは、また何かお聞きになりたいことがあればいつでもご連絡ください。
◎Cさんからの返信
Cです。
ご丁寧にお答えいただきありがとうございます。
「サットを理解すると欲望に無暗に溺れることはなくなる」ということですが、そこを確認できて良かったです。安心しました。
ありがとうございます。
湯浅さんが仰るように、「欲望への耽溺が問題となる二つのパターン」にどちらも完全に当てはまっていると思います。
僕は強い快楽(食欲や性欲などの身体的な刺激、音楽や読書、創作などの精神的な刺激)に依存しており、常に刺激を欲する傾向があるので「アーナンダ」に留まり続けることができないのもまさに仰る通りです。
正直なところ「アーナンダ」や「チット」を理解しても物足りなさを感じています。
そして、欲望の罪悪視についてもそうですが、僕には欲望を抑圧する傾向が確かにあります。
10代の頃から禁欲主義的な思想や哲学に触れていたので自然とそのような観念を持つようになったのだと思います。
実際、食欲や性欲などの感覚的な欲望と真理への欲望は相容れないように感じられましたし、より高きもののために低きものを捨てることは善であるという思いもありました。
成功はしませんでしたが、不必要な食欲や性欲を抑圧して完全に根絶しようと試みた時期もありました。
しかし、今回湯浅さんに「欲望を抑圧せずに受け入れて質の高い快楽を味わうことで浄化する」という別の方法を提示していただいたので、そのように試してみようかと思います。
欲望を敵視している僕では思い付かなかったと思います。
ありがとうございます。
質疑応答のブログでの公開の件ですが、僕のメールは全て公開していただいて問題ありません。
他の探求者の方々にも役立つようでしたら、幸いです。
よろしくお願い致します。
◎筆者からの返信
こんにちは、湯浅です。
お返事をお読みしました。
私が指摘したことについて、思い当たる部分があったとのこと。
その上で、私の提案した「欲望を敵視せず、深く味わうことでそれを超えていく」というアプローチを試してみられるのですね。
もしも快楽を味わう上で、「どうも深く感じられないな」と思ったり、「欲望が暴走しそうで怖い」と感じたりされた場合は、下記のリンク先の記事を参考にしてみてください。
既にお読みかもしれませんが、当ブログで「感覚の深化」について解説した時の記事となっています。
【自分の呼吸を感じられない人へ】感覚を深め、感情を解放する二つのステップ
「身体的な快楽」に依存しないために|「目」を通じて内側へと潜る「内観法」
これまで欲望を抑圧してきていた場合、Cさんの感受性は弱まってしまっている可能性が考えられます。
そうなると、最初のうちは「味わう」ということに困難を覚えるかもしれません。
感受性が弱まってしまっているために、「味わおう」と思っても、深く感じることができないわけです。
しかしそれでも、意識的に「味わうこと」を実践し続けていくならば、感受性は徐々に育っていくと思います。
ただ、そうして感受性が深まってくると、心や身体に長年抑圧されてきた感情が一気に飛び出してくる可能性があります。
たとえば、突然怒りっぽくなったり、深い悲しみに囚われるかもしれません。
しかしそれは、心と身体が感受性を取り戻し、「それまで感じられなかった感情」を受け取れるようになった結果です。
なので、もしもこれを抑圧してしまうと、せっかく深めた感受性にもう一度ふたをすることになってしまいます。
とはいえ、怒りや悲しみなどのネガティブな感情を受け止めるのは難しいものです。
それゆえ、上記の記事では「誰も見ないノートを作り、そこに感じたことをひたすら書きなぐって感情を成仏させる」という方法を提案しています。
これは精神科医の泉谷閑示さんという方が推奨している方法で、私も過去に実践していたことがあります。
この方法は、手軽に実践できる割に効果が実感しやすく、心身への危険も少ないと思います。
もし今後、Cさんが感受性を深めていく過程で、「抑圧していた過去の感情」が噴き出してきた際には、この方法を思い出してください。
もちろん、山家さんが提唱されているような「苦しみを味わう」という方法で感情を成仏させることもできますが、抑圧されていた感情が噴出する時は、なかなか「落ち着いて味わう」ということも難しいと思います。
なので、どうしても感情が強すぎて直面できない場合には、「感情のままに書き殴っていい」という上記の方法が有効だと思います。
質疑応答のブログへの掲載も了承していただき、ありがとうございます。
きっと欲望との付き合い方で悩んでいる人は潜在的にかなりいるはずです。
しかし、いささかセンシティブな話でもありますので、ほとんどの人はなかなか勇気を出して聞くことができないのではないかと思います。
Cさんが率先して質問してくださり、公開を了承いただいたことで、この質疑応答はきっと誰かの役に立つと思います。
あらためて感謝申し上げます。
それでは、また何か疑問などが浮かびましたらいつでもご連絡ください。
もちろん、私が提案した実践のその後の経過の報告なども大歓迎です。
Cさんが欲望を乗り越えていけることを願っています。
それではまた。
◎覚者もまた欲望を抱いて生きている
私とCさんとのやり取りは以上です。
なお、Cさんとはその後も他のテーマで質疑応答が続いていますが、それは今回の記事とは関連性が低かったため、あえて省いております。
今回のテーマはあくまで「欲望と快楽」についてです。
これについては、読んでいてショックを受けた人もいるかもしれません。
実際、覚者というものに対して「禁欲的なイメージ」を持っている人は多いでしょう。
覚者自身も、欲望についてはどちらかと否定的だったり、あるいはあくまで抽象的な語り方しかしなかったりすると思います。
ですが、私は「欲望を抑圧せず、あえて耽溺して超えていくこと」は重要な探求のプロセスであると考えています。
このへんは20代の頃にOSHOの本を読んでいろいろと自分で実践を重ねた経験が大きいかもしれません。
また、過去にダンスや合気道を長年稽古していて、身体感覚を深めることの重要性を肌身で感じていたことも関係あるでしょう。
なので、私の欲望に対するアプローチは、他の覚者とはいくぶん違うかもしれません。
しかし、別にデタラメを言っているつもりはありません。
欲望というのは、抑圧すると束縛になってしまいます。
そして、当人はその束縛と闘い続け、次第に消耗していってしまうのです。
そうなるのはたぶん、「悟るには欲望を根絶しないといけないに違いない」と多くの人が思っているからでしょう。
しかし、質疑応答の中でも書きましたが、覚者だって生きた人間です。
別に欲望が全くなくなるわけではありません。
ただ、覚者は欲望に振り回されることがなく、それに依存することがないだけです。
そしてまた、覚者は自身の欲望について罪悪視したりもしないので、「こんな欲望を持っていてはダメだ!」と考えて、自分のことを束縛したりもしないわけです。
◎「射精というゴール」を追い求めないこと
それから、「性的な感覚」について、もう少し付け加えて言っておきたいことがあります。
特に男性の探求者に対してです。
もしも男性の探求者で性的な欲望に振り回されている場合、今回の質疑応答の中で説明したように、「性的な感覚を全身に広げて深く味わう」ということを試してみてください。
ただし、その時に決して「射精」を追い求めないよう注意することが重要です。
もしも「射精」を追い求めてしまうと、「早く『ゴール』に到達しなければ!」という観念が邪魔になって、思う存分「性的な感覚」を楽しむことが阻害されます。
その点、おそらく女性は「性的な感覚」を楽しむのはそれほど難しくないと思います。
なぜなら、女性の場合、男性における「射精」のような「わかりやすいゴール」が存在しないからです。
「ゴール」がそもそもない以上、「早く『ゴール』まで行かないと!」と急ぐ必要もなくなります。
結果的に、女性は男性に比べて「今ここの感覚」をリラックスして味わうことができ、非常に満足感のある「質の高い性的体験」ができるようになる傾向があるでしょう。
反対に、男性の場合は「射精」という「わかりやすいゴール」が最初から視界にちらつくので、「今ここ」に没入して深く楽しむことが難しい傾向があります。
なので、もしもうまく「性的な感覚」を楽しめないように感じたら、とにかく「射精」のことは忘れることです。
実のところ、「射精しないと終われない!」というのは単なる思い込みだったりします。
今回の記事の内容を実践するといずれ理解できるようになると思いますが、「性的な体験」の質が十分に高まっていると、「射精」をしなくても性行為を終えることが可能になります。
というのも、もし深くセックスやマスターベーションを楽しむと、「性的な感覚」が性器に限定されず全身にくまなく広がるようになるため、性器だけで完結してしまえる「射精」というものに依存しなくても満足できるようになるのです。
実際、本当に好きな人とセックスをしたことのある人は、そのことを知っているのではないでしょうか?
そういう場合、パートナーとただ触れ合っているだけで全身が温かくなり、深くて持続的な快楽が得られます。
そして、その「心地よさ」の中に留まっているだけで、当人は深く満足できるのです。
もちろん、「全身に広がる性的な感覚」は、「射精の感覚」とは違っています。
前者は深く持続的であり、後者は浅くて瞬間的です。
しかし、「快感の強さ」だけでいうと、前者の方が小さく、後者の方が大きいのです。
このため、多くの人は「瞬間的な強い刺激」を求めて、「射精」に向かって走って行ってしまいます。
ただ、それによってセックスやマスターベーションは機械的で性急な作業になってしまいますし、そうなると心と身体を深く満足させることはできないのです。
なので、男性はとにかく「射精というゴール」を追い求めることを思い切って放棄することです。
それが「今ここ」を深く楽しむ秘訣と言えます。
そして、もしも「今ここの性的な感覚」を長い時間をかけて深く味わい尽くすことができたなら、たとえ「射精」に至らなくても不満を感じることはなくなります。
もちろん、「性的な体験」が深まっていく中で、結果として自然発生的に「射精」に至ることもありますが、別に「射精」は満足するための必須事項ではありません。
「ホントかよ?」と思うかもしれませんが、「ホント」です。
「嘘」だと思ったらぜひ試してみてください。
そして、もし実際に試したら、その結果をこっそり私に教えてほしいと思います。
◎抑圧すると「束縛」となり、理解することで「自由」になる
ということで、今回は「欲望と快楽」がテーマでした。
これはきっと多くの人が直面している問題でもあるでしょう。
でも、なかなか思いきって話題にするのも勇気が要るものです。
それゆえ、誰にも相談できずに一人で抱え込んで悩んでいる人は、けっこういるのではないかと思います。
そういう人たちに私が言いたいことは、「自分の欲望を『悪』だと考えなくていいんだ」ということです。
もしもあなたに欲望があるのなら、それはあなたが生きている証です。
それを否定したら、「自身の生命」そのものが否定されてしまいます。
それに、別に欲望を否定しても悟れるようにはなりません。
むしろ、欲望を抑圧することで、「余計な問題」が増えてしまいます。
もちろん、最初のうちは欲望を受け入れるのが怖く感じるかもしれません。
ですが、欲望は決してあなたの「敵」ではありません。
もしも欲望を積極的に迎え入れるなら、いつかあなたはそれを超えていくでしょう。
抑圧したものは束縛となり、理解したものだけが乗り越えられます。
欲望を抑圧する限り、「自由」は遠のくばかりです。
欲望と決して敵対せず、その中へ思い切って飛び込んで、それがどういうものなのかを理解した時、もうあなたは欲望に支配されなくなります。
その時、欲望はもはやあなたを束縛しなくなり、あなたは「自分の自由」を表現し始めることでしょう。

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