【次回作の構想決定】道元禅師の「現成公案」解説本を書きます

まだ自伝の校正作業中ですが、「次の書籍」のアイデアが降りてきました。

次回作は、道元禅師の「現成公案」の有名なフレーズを私なりに解説する本を書こうと思います。

非常に有名な部分なので、知っている人も多いと思います。

仏道をならふといふは,自己をならふなり。

自己をならふといふは,自己をわするるなり。

自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

悟迹ごしゃく休歇きゅうけつなるあり,休歇きゅうけつなる悟迹ごしゃくを長々出ならしむ。

道元、『正法眼蔵』「現成公案」

「仏道をならう」と書いていますが、これは道元禅師が仏教徒だからで、別に「道」は何でも同じだと思います。

なんであれ、「道」を求めて実践をするなら、その人は「自己をならう」ことになります。

これは、現代風に言うなら、「他人軸」を脱して「自分軸」を確立することです。

社会や他人の目に怯えて「自分」を放棄することなく、「我ここに在り!」という雄叫びと共に生きること。

それが「自己をならう」という段階に当たります。

しかし、もしも本当に「自己」を確立することができると、次第にそれが溶けて消えていきます。

そこには、「在る」という感覚だけが残ります。

これをゴータマ・ブッダは「空(シュンニャ)」と呼びました。

彼は「在る」という感覚の中で「無我」を観たわけですが、そこにおいてゴータマは「我が『無い』」ということのほうに軸足を置いて語っています。

だから、ゴータマからすると「自己をわすれること」は「有」ではなくて「無」として観え、それを彼は「空(シュンニャ)」と言うのです。

でも、聖書ではこれを「私は在る」と表現しています。

正確には「私は」さえも落ちて「在る」だけが残るのですが、要するに「無我」の中になおも残っている「存在の感覚」です。

この「私」が消えて「在る」という感覚だけが残っている状態が、道元の言う「自己をわするるなり」という段階にあたります。

そして、もしも当人が「自己をわすれる」と、その人は「万法によって証せられる」と道元は言います。

実際、「自己」がなくなって「在る」という感覚の中で生きるようになると、自分が「自由」を失おうとしているとすぐにそれに気づくことができるようになります。

なぜなら、もしも身体に詰まりやこわばりが生じたり、心に迷いや疑いが生じると、呼吸が浅くなって苦しくなるからです。

だから、「自己をわすれた人」は、自分が「理法」から逸脱していると、すぐにそれに気づくことができます。

当人が意識して「気づこう」と思わなくても、「この世の全て=万法」がそれを気づかせるのです。

そして、そんな風に「この世の全てによって悟らされる生き方」をしていると、その人の一挙手一投足は、そのまま「天地の理」を表現し始めます。

それゆえ、結果的にその人の表現は、自分だけでなく、他人の心身まで解放して「自由」にしていくのです。

これが「万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」という道元の言葉の意味です。

「全てによって悟らされること」を通じて、その人の言動は純化していき、最終的に、「天の言葉」を人々に向かって代弁するようなものになっていきます。

そして、人々はそんな「代弁された天の言葉」に触れることで、忘れていた「自由な呼吸」を思い出すのです。

しかし、もしもここで当人が「自分は悟った特別な人間だ」と思い込むと、「天とのつながり」が途切れます。

こうなると、もう「天の声」は聞こえてこなくなり、その人は「人々に何を伝えたらいいか」を自力で考えないといけなくなります。

この状態は、私も陥ったことがあるのでわかるのですが、なかなかしんどいものです。

なぜなら、「天からの言葉」、つまりを「天啓」を、人間である身に過ぎない自分が、全部「自力」で考えないといけなくなるからです。

それゆえ、そういった「自力の世界」から抜け出すために、道元は「悟りの跡を残すな」と言います。

それが「悟迹ごしゃく休歇きゅうけつ」という言葉の意味です。

「悟」というのはそのまま「悟り」の意味で、「迹」というのは「あと」と訓読みしますので、「痕跡」とか「跡形」とかいった意味です。

つまり、「悟迹ごしゃく」というのは「悟りの痕跡」のことで、わかりやすく言うと、いかにも「悟った人間」かのように振舞う際にその人の周りに漂う「臭み」のことです。

実際、「自分は悟った人間であり、特別なのだ」と考えると、その人の言動には「悟迹」という「臭み」がついて回ります。

そして、それによって当人は「天」から切り離され、「自力」で生きなければならなくなるのです。

だから、「その臭みを捨てろ」と道元は言います。

休歇きゅうけつ」というのは「とめる」とか「やめる」とかいった意味であり、道元は「休歇きゅうけつなる悟迹ごしゃくを長長出ならしむ」と言っています。

これはつまり、「臭みのなくなった悟りをどこまでも表現し続けろ」と言う意味です。

その時、その人の言動は常に「天の理法」に適うようになります。

当人は、自分が「天」によってどんな場所に運ばれようと、全てを受け入れることを覚悟しています。

だからこそ、その人は「天」に生かされ、「他力」によって生きながら、「自分の命」を表現することで、人々を「自由」にしていくことができるのです。

私はここに、ニーチェが説いた「精神の三段の変化」や、夏目漱石の「則天去私」などを接続し、「人間の精神的成熟の王道」を体系化したいと思っています。

もちろん、論理的な補強や身体的な裏付けはしっかり書き足します。

今回の記事では途中の論理をすっ飛ばしているので、たぶんほとんどの読者は何が何だかわからないと思いますが、その辺は本になる時はだいぶマシになっていると思います(たぶん)。

ということで、まだアイデアの段階ですが、次回作は「道元禅師の現成公案の解説本」にします。

自伝の出版が済んだら、少しずつ形にしていくつもりですので、興味のある人は楽しみにお待ちください。

ほな、さいなら。

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