あいかわらず、新しい本である「自伝+社会論の書」を書いています。
今のところ70ページくらい書けているのですが、まだ自伝全体の構想の1/3くらいです。
このままのペースで書き進めると、あと一週間くらいで自伝は書き終わりそうですが、自伝だけで200ページを超えそうです。
それに対して、社会論はまだ全然構想が練れていなくて、どんな構成にするかアイデアが湧いてきません。
このままいくと、自伝がメインの本になる可能性もあります。
まあ、それならそれでいいのですが、あまりにもバランスが悪くなるようなら、社会論はもう少しアイデアを温めて、それ一冊で本にできるぐらいに練れてから書くのも一つの手だと思い始めました。
しかし、自伝というのは不思議な表現形式です。
そこには「一人の人間が生きた軌跡」が描き出されるわけですが、読者は「誰かの自伝」を読むことによって、その人生を疑似的に追体験することができます。
それゆえ、「偉人の伝記」なんかを読むと、なんだか自分まで「人間的に成長した気」がしてくるわけです。
でも、私はそういう「成長した気」にさせる本を書こうとは思っていません。
私はただ、「泥臭く生きた一人の人間の記録」を形にしたいと思っています。
なぜなら、私は「誰も『綺麗な人生』なんて送る必要はない」と思っているからです。
一昔前までは、「いい大学に進学して、いい会社に入って、相性のいいパートナーと結婚して、そこそこの規模のマイペースを買って定年まで働き、子や孫に見守られながら死ぬ」というのが、「人生の黄金ルート」でした。
でも、今の時代は「価値観の多様化」と「格差の拡大」によって、このルートは実質的に「標準的な目標」として機能していません。
たとえば、今は一つの会社で勤め続けるよりも、適宜転職してキャリア・アップしていく生き方のほうが「普通」だと考えられていますし、なにかしらの「ハンディ・キャップ(貧困や障害など)」を負っている人は、上記の「黄金ルート」を目指すことが最初から「ムリゲー」です。
このため、「綺麗な人生」なんてそもそもほとんどの人にとって「現実味のない夢物語」となっており、人々はそんなものを目指そうとも思っていませんし、そういったものを語る人の話にもリアリティを感じなくなっているのです。
そういえば、私はこのブログを開設する前は、noteというプラット・フォームで文章を書いていたのですが、noteには実に様々な書き手がいました。
多種多様な分野の情報発信をしている人がいて、自作の小説を記事にして連載している人もいましたし、何でもない日常の一コマを文章にして投稿している人もたくさんいました。
ただ、私自身は昔から「他人の書いた文章を読む」というのがあまり得意ではなく、noteで記事を書いていた時も、いつもなるべく他の人のnoteは読まないようにしていました。
なぜなら、読むと影響を受けてしまいやすかったからです。
今だったらそういうこともないと思うのですが、当時の私はまだ「自分」を十分に確立できていなかったため、他人の意見を頭に入れてしまうと、それに影響されてうまくものが考えられなくなることが多かったのです。
それゆえ、私は人の記事は読まないで、ひたすら書き続けていました。
でも、時々、チラッと他人の書いたnoteを読みに行くことがあって、そういう時はだいたい「個人の日記」のようなものを読んでいました。
「学術的な専門情報」とか、「見識のある人間の一家言」とかではなく、「どこにでもいるような一般人の日々のつぶやき」を好んで読んでいたわけです。
そこには押しつけがましい説教もないし、他人に影響を与えようとする自己顕示欲もなく、ただ純粋に表現された「ある一人の人間の日常」が切り取らていたものです。
そして、そういう文章を読んでいると、私は不思議と「おし!自分も頑張ろう!」と思えました。
別に「自己肯定感をアップさせる秘訣」を教えられたわけではないし、「マインド・セットを変えるためのハウツー」が書かれてあったわけでもありません。
ただ、「そこで生きている人のありのままの姿」に触れることで、自然と私の背筋は伸びたのです。
私たちの背筋を伸ばしてくれるのは、「正当な説教」や「的確なアドバイス」だけとは限りません。
なぜなら、たとえどんなに「正しいこと」を言われたとしても、その相手のことを深く信頼していないと、私たちは素直にそれを受け取ることができないからです。
そして、私たちの信頼の根底にあるのは、「この人もまた、自分の人生を生きている一人の人間なのだ」という事実への気づきだと、私は思うのです。
「自分の人生」を背負って歩くことは、時としてひどくしんどいものです。
しかし、誰もそれを代わりに背負ってはくれません。
だから、「自分の人生を生きるのは、自分にしかできないことなのだ」ということを深く自覚している人は、自然と愚痴や言い訳を口にしなくなっていきます。
なぜなら、「そういったことをいくら口にしても、『自分の人生』は良くならない」と、その人には痛いほどわかっているからです。
反対に、「自分の人生」をどこか他人事のように考えている人は、その責任を他人のせいにしようとし、愚痴や言い訳が増えていく傾向があります。
そういった人が書く「日常の記録」や「自伝」には、「瑞々しさ」や「風通しの良さ」がありません。
それらの文章は、読む人の呼吸を浅くしてしまい、かえって読者を重苦しい気分にしてしまうものです。
そこには、長年「生ゴミ」を放置した時のような「腐臭」が漂っており、他人はその文章を避けて通ります。
でも、書いている本人は必死です。
「自分はこんなに苦しかったんだ!これだけ自分は不幸なのだ!」と訴え続け、誰かにそれを聞いて欲しいと思っています。
しかし、本当に話を聞いてあげるべき相手は、実のところ、その人自身の心だったりします。
実際、心は「何か」を語っているはずです。
そして、もしも「自分の心の傷」と向き合い、「失ったもの」について深く泣き、「溜め込まれた憎悪」を直視して受け入れるなら、その人の心は「浄化」されます。
そうして「誰かにわかってほしい」という渇望は消えていき、「少なくとも『自分の心』を自分はわかってあげることができた」という実感を、その人は内側に得ることができるのです。
逆に、このプロセスを経ることなく外側の誰かに「自分の心」を受け止めてもらおうとしても、その試みはきっと失敗します。
なぜなら、他人は決して「その人の人生」を代わりに背負うことができないからです。
「良い部分も悪い部分も含めて、100%まるごと受け入れてくれる他人」というようなものは、この世のどこにも存在しません。
誰もが、必死で「自分の人生」を背負って生きています。
もちろん、「他人の人生の一部」くらいなら手伝って背負える人もいるでしょうけれど、何もかも本人に代わって背負えるほど余裕のある人など、この世には一人もいないのです。
だからこそ、私たちはみんな「孤独」です。
「自分の人生」を生きるのは、どこまでも「自分自身」でしかないからです。
このため、「生きること」を恐れる人もいます。
「自分の人生の責任を負うこと」が怖いのです。
それで、「自分のことを受け入れて守ってくれる他者」をその人は探し続けます。
でも、先ほども言いましたように、そんなことができる人は存在しません。
それゆえ、この「存在しない人間」を探し続ける人の期待は、必然的に裏切られ続けます。
それはあたかも「ユニコーン」を探し続けるようなものです。
それはこの世に実在しておらず、当人はその「実在しないもの」を求めることによって心を束縛されており、「失望」と「幻滅」が宿命づけられることになるのです。
でも、当人は「今度こそ上手くいく」と期待します。
「この人は今までの人たちとはどこか違う…」と思うからです。
しかし、最後には決まって「失望」と「幻滅」がやってきます。
「結局、この人も他の人間と同じだった」と感じ、その人は深く傷ついてしまい、ますます心を頑なに閉ざしていってしまうのです。
「心を柔らかく開くこと」は、時としてとても難しいものです。
それはある意味で「他人に期待しないこと」です。
言い換えるとそれは、「自分の人生を生きるのは自分の仕事だ」と覚悟して、愚痴も言い訳もしないで、ただただ愚直に生きることです。
そうした人だけが、心を柔らかく他人に向かって開くことができます。
逆に、他人に対して「救い」を求め、「代わりに自分の人生を背負ってもらうこと」を期待している限り、その人の心は「他人を利用すること」に向かっていかざるを得ません。
その人にとって他人はいつも「利用価値があるかどうか」で計られており、「相手と心を通わせること」は自分の利益になる可能性がある場合にだけ取られる、あくまで「戦略的な身振り」に過ぎないのです。
他人を自分のために利用しないでいることができて初めて、その人の言葉は相手に響きます。
逆に、他人を利用しようとする人の言葉は、誰の元にも届きません。
そういった言葉は誰の心も震わせることなく流れ去って消えていき、世の中に充満する「雑音」の海にそのまま埋もれていくだけです。
「自分自身と向き合うこと」によって、初めてその人の心は「浄化」されます。
そして、その人はやっと他人を利用することなく、相手とかかわることができます。
その時、その人の言葉は相手の心を震わせることができるようになるでしょう。
別に、「役に立つ情報」を発信する必要なんてないのです。
なぜなら、「自分はこうして生きている」という、その人自身の「素朴な生の物語」が、そのまま相手の心には届くからです。
さっきも言いましたが、私は「どこにでもいるような人が書く日記」を読むのが結構好きです。
なぜならそこには、その人自身の「責任の背負い方」が深く刻印されているからです。
「他の人はどうか知らないけれど、他でもない自分はこうやって生きています」という、その人の静かな「独立宣言」がそこには刻まれているのです。
別に「特別なこと」をする必要なんてありません。
ただ、「自分の生」を深く生きればいいだけです。
心を込めて丁寧に料理を作ったり、風を感じながら散歩したり、庭の掃除をして身体を動かすことに清々しさを味わったり、そうやって「自分の生」をそのまま表現すればいいだけなのです。
私はそういった「平凡さ」にこそ、最大限の敬意を払います。
なぜなら、そこにこそ「神聖さ」は宿ると思うからです。
「自分の人生」を背負う覚悟をした人にとって、日々の一挙手一投足が「祈り」になります。
その人が何の「神」を信じていようと関係ありません。
なぜなら、その人は他でもない「自分の人生」を生きることを通して、「自分の心」を表現しているのだからです。
そして、それこそが「最も価値ある祈り」なのです。
また、私自身にとっては、こうして文章を書くことが「祈り」の表現です。
それは私が「自分の命」を通して日々「自分の人生」に捧げている「供物」です。
それがもしも誰かの心を震わせるなら、その人は「祈り」の意味を知っているはずです。
なぜなら、「祈る」というのは「生きる」ということだからです。
それゆえ、「祈り方」を知っている人は、「自分の人生を生きる仕方」を知っています。
逆に、「作法として決められた祈り方」を頭に入れていても、「自分の人生を生きる仕方」を知らない人は世の中にたくさんいます。
ですが、それは「本当の祈り」ではありません。
そもそも、「祈り」はどんなルールによっても限定されないものです。
なぜなら、「祈る」とは、「その人の心と身体が導くままに生きる」ということだからです。
このため、「生き方」に「正解」がないのと同じように、「祈り方」にも「正解」というものは存在しません。
しかし、それは良いことです。
なぜなら、「正解」が存在しないからこそ、誰もが「自分なりの仕方」で「祈り」を表現することができるからです。
私たちには、「欠けているもの」など何もありません。
内側に「表現すべき光」は既に在ります。
必要なことは、その「光」を覆い隠しているものを取り除き、「自分の祈り」を表現できるようにすることだけです。
そして、「正解」がないのですから、「間違い」も存在していません。
つまり、もしもその「内なる光」を当人が表現するならば、それが「間違い」であるということは、そもそもあり得ないのです。
「自由」であること、深く息をして生きること、それだけが大事なことです。
その時、その人のすることは何であれ、他人の心を震わせる「祈り」になります。
私はただ、そのような仕方で「自分の祈りを表現できる人」が、世の中に一人でも増えてほしいと願っているだけに過ぎないのです。

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