OSHOが語る二つの「知」|自分の内側を掘り続けることで「普遍的な智慧」にアクセスできる

昔、OSHOという覚者が「『知』には二つのタイプがある」と言っているのを、どこかで読んだ記憶があります。

前の引っ越しで本を処分してしまったので、確認することができないのですが、たしかOSHOは「知」を「池のようなタイプ」「井戸のようなタイプ」に分けて説明していました。

それを読んだ当時は、「へー、そういうものなのかな?」と思っていたのですが、その後、何年もかけて探求を終えたことによって、「確かにそうかもしれないな」と思うようになりました。

ということで、今回はOSHOが語る「知の二つのタイプ」について、私なりの解釈を書いてみたいと思います。

「知的な人間になりたい」と思って、本をたくさん読んだり、講座をいっぱい受けたりしている人も世の中にはいますが、それには本当に意味があるのでしょうか?

一緒に考えてみましょう。

では、始めます。

◎「池のようなタイプの知」とはどんなものか?

完璧に正確には憶えていませんが、私がかつて読んだ本の中でOSHOが言っていたことの骨格を、まずは示そうと思います。

先ほども書きましたように、OSHOは「知」を「池のようなタイプ」「井戸のようなタイプ」とに分けました。

「池のようなタイプの知」というのは、こんなイメージです。

人はまず「池」を作るために、地面を少し掘って「水」を入れる枠組みを作ります。

「水」というのが、つまりは知識や情報ですね。

当人は、「池」を立派に見せるために、たくさんの「水」を外から持ってきて蓄えます。

なぜなら、「池」そのものには「水」を創り出す力がないからです。

「水」はいつも外から持ってこなければいけません。

しかし、そうして「水」を蓄えても、それが循環しないとすぐに淀んで腐ってしまいます。

そのため、当人は「池」の鮮度を保つために、絶えず「新しい水」を外から持ってきて中身を入れ替えなければならず、一時も休むことができません。

しかし、そうかといって、他人が「池の水」を持っていこうとすると、それに対しても当人は抵抗しようとします。

なぜなら、「池の水」を他人に持っていかれると、「自分の知」が減ってしまうように感じるからです。

それゆえ当人は、せっかく一生懸命に蓄えた「水」がありながら、それを他人に気前よく与えることができません。

というのも、もしも他人に与えて「水」が減ったら、また「新しい水」をどこかから苦労して持ってこないといけないことが、当人にはわかっているからです。

「『この池の水』は私のものだ!勝手に持っていくんじゃない!」

「池のような知の持ち主」は、そんな風に「池の中の水」について、「これは自分の所有物だ」と言って、他人に主張するのです。

これが、「池のようなタイプの知」についてのイメージです。

◎「井戸のようなタイプの知」とはどういうものか?

それに対して、「井戸のようなタイプの知」のイメージはこんな感じです。

「井戸」を作ろうとする人は、ひたすら地面の下を掘っていきます。

そして、どこまでも掘っていくことで、ある深さまで行ったときに「水脈」へと到達します。

そこからは、次々に「新しい水」が湧いてきます。

放っておいても、「水」が湧いてくるので、「新しい水」をどこか外から補充する必要はありません。

そしてまた、当人は「井戸」から出てきた「水」を他人に気前よく与えます。

なぜなら、他人に与えて減った分だけ、「新しい水」が湧いてくることを当人は知っているからです。

むしろ、他人が「水」を持っていってくれることに対して、彼/彼女は感謝さえします。

実際、そうして他人が「井戸の水」を持っていってくれることによって、「井戸の中の環境」は循環し、「より新鮮な水」が湧き出してきます。

そのような「水の好循環」が現れることがわかっているからこそ、「井戸のような知の持ち主」は、他人が「水」を持っていってくれることを喜ぶのです。

しかし、当人は「井戸の水」のことを「自分に属するもの」だとは考えません。

というのも、それらの「水」は、地下深くに張り巡らされた「大いなる水脈」に由来するものだからです。

実際、それらの「水」は全て「水脈」から溢れてきたものであって、「井戸を掘った人自身」に由来するものではありません。

だから当人は、「この井戸の水は自分のものだ」とは主張しません。

そうではなくて、「あくまでも自分は『大いなる水脈』と人々とを結びつけるための仲介人に過ぎないのだ」と思っています。

それゆえ、「井戸のような知」を内側に持っている人は、謙虚な場合が多いです。

「自分の井戸」を他人に自慢しようとはせず、ただ「多くの人にこの井戸で喉の渇きを癒してほしい」とだけ、その人は願っているのです。

これが、「井戸のようなタイプの知」についてのイメージです。

◎「人類が抱える普遍的な問い」に届くまで掘り抜くこと

以上が、私が記憶している限りでの、OSHOの発言の骨子です。

記憶はいくぶんあやふやですが、だいたいこのようなことをOSHOは言っていたように思います。

それにしても、OSHOらしい、なかなか皮肉の効いた対比ですね。

ともあれ、両者の違いを決定づけているのは、「自分の内側をしっかり深くまで掘っているかどうか」ということに尽きるのではないかと思います。

もしも「自分の内側」をどこまでも掘り下げていくと、どこかで「巨大な水脈」に人は突き当たります。

なぜなら、人間存在が抱える問題意識や苦悩については、「歴史を超えた普遍性」が在るからです。

実際、古代ギリシャの哲学者たちや、大昔のインドの修行者たちが向き合っていた諸問題は、現代社会にもほとんどそのまま残っています。

もちろん、文化も文明レベルもまったく違いはしますけれど、それによって全ての問題が乗り越えられたわけではありません。

「人はなぜ苦しむのか?」
「幸せとはいったい何なのか?」
「人生に意味は存在するのか?」

今も昔も、人が直面する問題は同じです。

だからこそ、「自分が抱えている問題」をどこまでも深掘りしていったら、最終的には、歴史上のあらゆる賢者や哲人たちが直面していたのと「同じ問題」に帰着するのです。

それゆえ、その問題と向き合うことによって当人が出した答えというのは、「個人性」を帯びていながらも、「普遍性」まで兼ね備えています。

そうして当人は、「普遍的な智慧」に自由にアクセスすることができるようになるので、そこから様々な知見を汲み出すことができます。

つまり、ちょっと言い方や視点を変えるだけで、「普遍的な智慧」は無数のバリエーションを生み出すのです。

それはいわば、「あらゆる料理を作れる万能の食材」のようなものです。

その「食材」だけで、和食も洋食の中華もカバーできて、煮ても焼いても美味しく調理できます。

「食べる人の好み」に合わせて、いくらでもアレンジ可能なわけです。

そして、そのような「臨機応変なアレンジ」ができるのも、当人が他でもない自分自身でその「井戸」を最後まで掘り抜いたからです。

つまり、他人に代わりに掘ってもらったわけではなく、自分で時間をかけて掘ったからこそ、その過程における「試行錯誤」や「知的な格闘」が、全て当人の血肉となっているわけです。

当人は「自分がどこでつまづいたか」を覚えていますし、「どこでどういう誤解が発生しやすいか」もわかっています。

それゆえ、「普遍的な智慧」の内容を、聞く相手に合わせて柔軟に表現し分けることができるのです。

◎「与えること」と「蓄えること」の間で引き裂かれる「池」の持ち主

これに対して、自分の内側をそれほど掘らないで、外から知識や情報を取り入れる人は、「相手に合わせたアレンジ」はできません。

当人は、入れたものをただそのまま出すことしかできず、「とにかく自分はこうだと聞いた」としか言えないのです。

そういった人たちは、「外から借りた知識や情報」によって自分を大きく見せようとしますが、それらを他人に披露してしまうと、ネタが尽きて飽きられてしまいます。

それゆえ、他人からずっと注目され続けるために、彼らは次から次に「新ネタ」をどこかから仕入れてこないといけません。

しかし、そうやって自転車操業するのは手間がかかって大変です。

当人も、できることなら「新ネタを仕入れること」はやめたいのです。

ですが、それをやめてしまうと、他人から飽きられて自分の存在を忘れられてしまうので、当人は必死になって「新ネタ」を探し続けます。

そうして、「人々から忘れられたくない」という執着と、「新ネタを探し続けるのは疲れたからもうやめてしまいたい」という欲求との間で、当人は引き裂かれ続けます。

やがては、それが「苦しみの元」となり、当人は次第に「何のために何をしているのか」がわからなくなっていくのではないかと思います。

「自分が何を求めて何から逃げ続けているのか」が、当人にはわからなくなってしまうわけですね。

そういった人は、すがるように「新しい知識や情報」を求めるでしょうし、それを他人に与える時には、内心で未練を感じながら与えるでしょう。

「与えただけ自分の蓄えが減ってしまう」
「常に新しいネタを手に入れ続けなければ」

それらの思考はやがて強迫観念となって、当人を追い詰めていってしまうのではないかと思います。

◎人々の内側に存在する、汲めども尽きせぬ「智慧の源泉」

私自身は、探求をしている間は「池のようなタイプの知」しか知らなかったように思います。

実際、「知識や情報は絶えず外から仕入れないと涸渇してしまう」と感じていましたし、昔はブログで記事を書いていても、すぐにネタが尽きて何も書けなくなっていました。

ですが、探求が終わってからは、「智慧」がいくらでも内側から湧き出してくるようになりました。

私はこの約一ヶ月で40万文字弱も文章を書き続けていますが、情報収集はほとんどしていません。

たまに本を数ページめくることはありますが、そうやって本をめくっていると、偶然目に入った記述から「あ、これって『あれ』のことじゃんか!」と閃いて、そこから1万文字くらいのボリュームの記事をスラスラ書けるのです。

そのため、今の私にとって本を読むことの目的は「情報収集」ではなくなっていて、むしろ私は「インスピレーションのきっかけを得るため」に本を読む(というか数ページめくる)ようになってきています。

このように、「智慧」はどんどん内側から湧いてくるため、これだけ新しい記事を書いているのに、「ネタが無くなる」ということは今のところ起こっていません。

むしろ、物理的に書き切れなくて溜まっているアイデアがたくさんあるくらいです。

かつてOSHOの語る話を読んだ時は、「『井戸みたいな知』なんてあり得るのだろうか?」と私は半信半疑でした。

ですが、どうやらそういうものは本当にあるようです。

汲めば汲むほど「新しい智慧」が溢れてきて、それを他人に与えれば与えるほど豊かになるような「知の源泉」。

それは、どこか外側にあるわけではなく、自分自身の内側に在ります。

と言われても、たぶんほとんどの人は「本当かな?」と疑問に思うことでしょう。

かつての私も疑問に思いましたから、そう思うのは当然です。

なので、もしも疑問に思われたなら、ぜひあなた自身で確かめてみてください。

「自分が抱えている問題」をどこまでもどこまでも掘り下げていって、そこから「自分」という色が抜けるまで、とことん考え抜くのです。

そうしてあなたの「エゴ」が溶け去る深さまで掘り進んだ時、そこには「巨大な水脈」が横たわっていたことを、あなたは発見するでしょう。

その時、きっとあなたは自分の内側に滾々こんこんと湧き出る「智慧の源泉」が存在していたことを、知ることになるのではないかと思います。

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