【新刊のアイデア】「個人を生きる者」の連帯だけが、「システム」による人間の圧殺を止めることができる

今さっき、新しい本のアイデアが湧いてきたので、ブログにも書き残しておこうと思います。

これまでは、私の理論や価値観についてお伝えする本を書いてきたのですが、それらの本を読んで、私という人間そのものに興味を持った人に向けて、湯浅和海の「そのまんま」をお届けする本を書いてみようかと思っています。

具体的には自伝ですね。

私自身の約15年間にわたる探求の旅路について語ることで、「こういう人もいるんだな」と安心したり勇気が出たりする人もいるのではないかと思います。

また、単純に私の犯した失敗や、ついついハマってしまったピット・フォールについて紹介することで、他の探求者が同じてつを踏まなくてよくなることもあるかもしれません。

とはいえ、私の自伝は決して「偉人伝」のような「輝かしいサクセスストーリー」ではなく、むしろ「非常に泥臭くて庶民的なもの」です。

だから、「サクセスストーリーを読んで気分が高揚する」というような効果はないと思います。

私も経験がありますが、「偉人の伝記」というのは、読むだけでなんとなく気分が高揚してきます。

読んでいるとまるで「自分の人生のステージ」まで引き上げられたような気がするんですね。

でも、実際には「自分の人生のステージ」は上がってなんかいなくて、伝記を読み終わった後の私たちには、あいかわらず「泥臭くて庶民的な毎日」が待っていたりします。

それゆえ、「偉人の伝記」を読んだ直後は高揚感があるのですけれど、すぐに幻滅がやってきます。

「やっぱりオレはあの偉人とは違うんだ…」と思ってしまうわけです。

私が書こうと思っている伝記はそういうものではなくて、「どこまでも泥臭く苦闘する庶民のストーリー」です。

なので、別に「人生のステージ」は上がりませんし、「自分まで成功した気分」にはなれません。

その代わり、「とにかく生き抜いた一人の人間の人生」を提示できるのではないかと思っています。

私は現状、全くの無収入の中、毎月10万弱の生活費を貯金から捻出してかろうじて生きている人間なので、どう考えても「サクセス」していません。

でも、必死に生きてここまで来ました。

そして、嬉しいことに、私の書いた文章を熱心に読んでくださっている読者の方も数名いますので、そういう人たちに向けて、私の人生を一つの物語として提示することも意味があるのではないかと思っています。


それから、自伝との抱き合わせで、最近の私のメインテーマとなりつつある「個人 対 システム」についてのエッセイ集も書きたいと思っています。

そもそも私は身体論が専門なのですが、もしも「身体性」を突き詰めていくと、どこかの段階で社会学に行き当たります。

なぜなら、「生身の身体を持った個人」によって構成されているのが社会だからです。

実際、「人間の存在しない社会」というものは想像することができません。

「社会」という観念は、「生身の人間の存在」に絶対的に依存しているのです。

そして、もしも「自身の身体性」を追求していくと、その人は必ずや「個性的な人」になっていきます。

なぜなら、自身の心と身体の声を聴く人というのは、「社会の流行や知識人の意見」に従うよりも、「自分の命がささやくこと」に従うからです。

そういう人の歩む軌跡は、結果的に「オリジナル」になります。

別に当人は「他の人と違うことをしよう」とは思っていないのですが、その人の身体がそもそも「唯一無二」であるがゆえに、「命の声に従った生き方」もまた「他の誰とも違うもの」にならざるを得ないのです。

こういった「個人」は、「自分自身」に深く定まっています。

しかし、「社会的なシステム」というのは、いつの時代もこういった「個人」が大嫌いです。

なぜなら、「自分自身に定まった個人」は外側から操作したり管理したりすることができないからです。

そういう意味で、「個人」というのは「システム」にとって、「全体の秩序を乱すバグ」みたいなものです。

実際、「個人」は「システムからの命令」ではなく、「自分の命」に従うので、行動の予測がつきません。

次に何をするのかが(本人も含めて)誰にもわからないため、数値化して統計に取り込むことができないのです。

それゆえ、「システム」はなんとかして「個人」を排除し、「全体の秩序」を維持しようとします。

その「秩序」とは、「無感覚で無個性な機械人形たち」によって維持されているものです。

彼らには「血」が通っておらず、「自身の身体性」を失ってしまっています。

でも、「身体を持った個人」は、こういった「機械的な人々」に「命の温かみ」を思い出させることができます。

「生身の個人」は、「感情を殺し、言われたことに従い、無感覚に同じことを繰り返していた人々」の中に、「人間らしい心地」を蘇らせるのです。

なので、「システムによる人間の機械化」に対抗するには、一人一人が「自身の身体性」に深く根付き、「個人」として生きる他ありません。

逆に、私たちが「自分の身体性」を明け渡し、機械のように生きることで、「システム」は人間を支配し始めます。

とはいえ、これは「陰謀論」ではありません。

なぜなら、単一の「悪いヤツ」がどこかにいるわけではないからです。

ただ、私たちが「自分で感じ、自分で考える」という生き方をみんなでそろって放棄する時、「最悪のジェノサイド」というのは起こるものだということです(ファシズムというのは、いつの時代もそういうものです)。

だから、私としては、一人でも多くの人に「生きていること」を思い出してほしいんです。

「機械的に生きる」のではなくて、「人として感じる心」をなくさないでいてほしいのです。

これまで書いてきた本でも、それを何度も書きましたし、ブログでも繰り返し言及してきました。

大事なことは、「自分で感じているかどうか」です。

それ以外のことなんて、どうでもいいんです。

どんな主義主張を持っていようが、どんなセクシュアリティを持っていようが、「自分で感じ、自分で考える」という生き方を守っているなら、その人たちはみんな「私の仲間」です。

同じ価値観を持っていなくても、私たちは「個人」として連帯することができます。

「自分自身を放棄しない」という決意だけが、私たちの連帯の旗印です。

そして、そのような「個人」による連帯だけが、「システムによる人間の圧殺」を未然に防ぐことができるのです。


ということで、「探求の自伝」と「社会学的なエッセイ」をセットで書こうと思っています。

「私という『個人』の物語」と、「そのような『個人』がどんな風に『社会的なシステム』と対峙していくのか」ということを併せて表現できる本にしたいです。

どれくらい需要があるかはわかりませんが、私の中に書く必然性があるので、誰も読まなくてもたぶん書きます。

また進展があったら報告しますので、「そういうのも読んでみたい」という方は続報をお待ちください。

ではでは。

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