私たちは「自分は今何をするべきなのか?」と、いつも頭で考えています。
タイパやコスパを優先する考え方は、その現れでしょう。
もちろん、頭を使って考えることが必要な場面もあります。
ですが、頭を使って考えてしまうことで、かえって見失うこともあるものです。
たとえば、私たちは休日の過ごし方があまりうまくありません。
「自由に過ごしていい時間」を与えられても、私たちはその暇を持て余してしまいます。
それで、人によっては出来合いの娯楽を消費したり、
とにかく何か意味のありそうな資格の勉強をしてみたり、
思い切って何もしないで寝てみたりします。
でも、出来合いの娯楽をするとかえって虚しくなってしまい、
別にやりたいわけでもない資格の勉強をしていると疲れてしまい、
何もしないで寝て過ごすと罪悪感に囚われます。
結局、自分の心と身体の声を聞かないで、
頭で考えるからわからなくなるのです。
休むことの中に「快」がある時は、いくらでも休めばいいのです。
別に罪悪感を感じる必要などありません。
身体に疲れがあるのなら、心がそれを求めるのなら、休むことは何も間違っていません。
逆に、動くことの中に「快」があるのなら、何でもやってみたらいいのです。
「これをすることに何の意味があるのだろうか?」などと考える必要はありません。
「現にすることが快い」ということの他に、意味など存在しないのですから。
私たちは「頭で考えたほうが『正解』を導きやすい」と思い込んでいます。
しかし、実際には私たちは頭で考えることによって道を見失い、
焦燥感と罪悪感の迷路へと迷い込んでしまいます。
心と身体が求めることこそが、今のその人にとっての「正解」です。
たとえ周りの他人が何を言おうと、
世間の知識人や売れているハウツー本が何を説こうと、
当人にとって「快」ならば、それがその人の「答え」なのです。
「快」の中には、「清々しい解放感」があります。
だから、多少苦しいことであっても、
「快」の中にある人は、そこに「苦」を見出しません。
彼/彼女は、ただ「自分のしたいこと」をするでしょう。
それが「その人自身の歩み」の軌跡を描き出し、
「その人にとっての必然性」を人生の中に描き出すのです。
このため、心と身体の「快」に従う人は、
「どうしてもこうとしか在れない」と感じています。
自分は「他のこと」もできたはずなのに、
なぜか心と身体は「これ」を選んだ。
「他の人生」も選べたはずなのに、
それらはなぜか「快」ではなかった。
そこには
「自由というのはその個人の必然性の別名である」という
不思議なパラドクスが存在しています。
ですが、
当人はそれを否定もしませんし、後悔することもありません。
たとえどんな結果になったとしても、
その人は「間違った」とは思わないでしょう。
なぜなら、
その人は「自分の命が発する声」に従って
「生の神秘」に触れることができたからです。
「快」に導かれて生きる時、
そこには「解放的な世界」が開けてきます。
その人は内側の束縛を破壊して、
一息ごとに「自由」を呼吸するでしょう。
そう、彼/彼女は「一つの自由な魂」なのです。
心で感じ、身体で味わい、
その人は「生きること」を一滴残らず飲み干します。
その甘露のような味わいこそが、「生きること」の最高の報酬です。
だからその人は何が起きても悔いませんし、
自分を罪悪視することもないでしょう。
なぜならその時その人は、
他でもない「自分の魂」に従ったからです。

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